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2021.9.19「白馬の騎手」 YouTube

ヨハネの黙示録19章11〜21節(新P.475)

11 そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。

12 その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。

13 また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。

14 そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。

15 この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。

16 この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。

17 わたしはまた、一人の天使が太陽の中に立っているのを見た。この天使は、大声で叫び、空高く飛んでいるすべての鳥にこう言った。「さあ、神の大宴会に集まれ。

18 王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ。また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食べよ。」

19 わたしはまた、あの獣と、地上の王たちとその軍勢とが、馬に乗っている方とその軍勢に対して戦うために、集まっているのを見た。

20 しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。

21 残りの者どもは、馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた。


1.恐怖を与えるために書かれたものではない

 私はクラシック音楽にはあまり詳しくないのですが、フォーレと言う作曲家が作った「レクイエム」と言う曲があります。大変有名な曲なので皆さんも聞いたことがあるかも知れません。この「レクイエム」と言うのは日本語に直せば「死者のためのミサ曲」と言うのでしょうか、カトリックでは昔から死んだ人の魂がすべての苦しみから解放されて天国に行けるように祈る習慣があります。その祈りために作られた曲がこの「レクイエム」と言うものだそうです。ところがこのフォーレのレクイエム、今はたくさんの人に愛されているのですが、この曲が作られた当時は教会からは「異教徒的だ」と言う厳しい批判を受けていたと言うのです。  実はこの「レクイエム」と言う名前の付いた曲は他にもたくさんあります。たとえばモーツァルトが作曲したものもその一つで、これもとても有名です。レクイエムと言う曲はそれまで伝えられて来た伝統的な構成に従って作られて初めて「レクイエム」と呼ばれる曲となるのだそうです。ところがフォーレのレクイエムはその伝統的な構成を無視して、肝心の部分が抜け落ちてしまっていると言うことで当時の教会から批判を受けたのです。なぜならフォーレはレクイエムの伝統的な構成を無視して「神の怒りの日」と言う部分をその曲から抜いてしまったからです。このため当時のカトリック教会は「この曲は死の恐ろしさを軽視するものだ」と批判したのです。この「神の怒りの日」と言うのはこれまで死んだ人間すべてが神によって復活させられて、神の厳しい裁きの座の前に立たされる日のことを語っています。その日、キリストを主として生きた人々はそのキリストによって罪を許されることができますが、そうでない者は永遠の死の刑罰を受ける運命が待っています。この裁きが行なわれる日こそが「神の怒りの日」と呼ばれるときなのです。私たちが今学んでいる黙示録の示す幻はこの「神の怒りの日」の出来事が必ず起こることを私たちに告げているのです。

 おそらく当時のカトリック教会の人々はこの「神の怒りの日」が無視されれば、教会が伝えている信仰の意味が薄れてしまうと考えたのかも知れません。なぜなら、当時のカトリック教会は人々に死の恐怖を植え付けることで、そこから免れることができるのは信仰だけだと言うような導き方をして来たからです。

 人々に死の恐怖を訴えることで信仰の必要性を語ると言う方法は長い教会の歴史の中でよく用いられていた方法であったのかも知れません。その点で黙示録が語る神の厳しい裁きの様子は人々にこの恐怖心を植え付けるための絶好の材料として用いられてきたのです。しかし、私たちがこれまで学んで来たように黙示録の記事は、私たちに恐怖心を与えるために書かれているのではなく、私たちにむしろ希望を与え、厳しい信仰の戦いの中でも励ましと力を与えるために書かれたものであると言えます。ですから私たちはそのような視点を忘れることなく、今日も黙示録の語る言葉に耳を傾けて行きたいと思うのです。


2.血に染まった衣

①白い馬に乗ったイエス

 今日の黙示録の記事の中には「白い馬」と乗って現れた人物が記されています。黙示録はこれまで地上に神の厳しい裁きを下すために神から遣わされた天使たちの姿を紹介して来ました。しかし、ここではいよいよその裁きの主役としてイエス・キリストご自身が「白い馬」に乗って登場してくるのです。

 かつてこの地上で十字架にかかられたイエスはエルサレムの町に入場されるとき、馬ではなくロバに乗ったと福音書は記しています。当時の人々にとって馬は戦いに使われる動物ですが、ロバは日常の生活を営むために使われた動物でした。つまり、イエスが馬ではなくロバに乗られたのは、彼は戦うためにやって来られた方ではなく、平和をもたらすために来られた方であることを示しているのです。しかし、黙示録に登場するイエスは「ろば」のような平和の象徴ではなく、戦いの象徴である「馬」に乗ってここに現れます。黙示録はこのイエスの姿を示すことで彼が戦うために再び私たちの目の前に現れたことを語っているのです。そしてイエスの乗った馬やそれに従う天の軍勢の乗っている馬がすべて「白い馬」と言われているのは、イエスの戦いが必ず勝利に終わると言うことを表していると考えられているのです。


②その衣の血は誰のものか

 興味深いのはこの白い馬に乗ったイエスが「血に染まった衣を身にまとって」いたと言う表現です(13節)。調べて見ると聖書学者たちはこの血が誰の流した血なのかと言うところで議論しているのが分かります。つまり、この血はイエスが殺した敵から出た返り血なのか、彼自身の流した血なのかと言う議論です。しかし、この時点ではまだイエスと敵との戦いは始まっていません。ですからこの血はイエス・キリスト自身が十字架の上で流した血であると考えた方がふさわしいと言えるのです。

 そうだとすればこの血はこれから始まるイエスの戦いの勝利の根拠が、彼がかつて十字架の上で流した血によるものであることを表していると考えることできます。現代社会では敵を殺戮するために次から次へと最新兵器が生み出されています。しかし、イエスの戦いは悪魔と悪魔に従う勢力との戦いであり、神の正義をこの地上に実現するために行われるものです。イエスの十字架は私たちをこの悪魔の力から解放することのできる唯一の武器であると言うことできます。

 時々、黙示録が伝える終末の出来事を強調して、私たちがこの「終わりの日」の裁きに備えるためにはイエス・キリストを信じるだけではなく、もっと特別なことをするべきだと教える人たちがいます。しかし、これは明らかな誤りです。なぜなら、イエスの十字架こそが私たちの罪を完全に許し、終末の裁きの座の前で私たちに無罪を宣告してくれる唯一の救いの根拠だからです。


3.イエスに対する様々な呼び名

 さらに私たちはこの聖書の箇所で考えたいのは白い馬に乗って現れたイエス・キリストが様々な名で呼ばれているところです。まず、イエスは「誠実」および「真実」と言う名前で呼ばれています(11節)。この「誠実」や「真実」は「忠実」と言う別の日本語で訳しなおしてもよい言葉です。イエスのこの戦いを通して表されることは、イエスがどこまでも誠実で真実な方であり、忠実な方であると言う点です。

 私たちは今、聖書に記された神の言葉を信頼して毎日の信仰生活を送っています。確かに、私たちの心を満足させるような心地よい言葉は、聖書以外の場所でも聞くことができるかも知れません。しかし、どんなにその言葉が私たちにとって心地よい言葉であったとしても、その言葉が口先だけの気休めの言葉でしかなかったとしたらどうでしょうか。結局はその言葉に従って生きた者たちは、最後には裏切られ「こんなはずではなかった」と言う結末を迎えるしかありません。私たちの生きる世界にはこのような見せかけの空虚な言葉が満ち溢れています。ですから、私たちはいつの間にか「最後に痛い目を見るくらいなら信じない方がましだ」と考えてしまうのです。

 しかし、聖書に記された神の言葉はこのような人の言葉とは全く違います。なぜなら、神ご自身がこの言葉を語るだけではなく、その通りに実現してくださるからです。この後で、イエスは「神の言葉」と呼ばれているところがあります(13節)。どうしてイエスは「神の言葉」と呼ばれているのでしょうか。それは聖書に記された神の言葉をその通り実現してくださるために来られた方こそ、私たちの主イエス・キリストだからです。つまり、ここで語られている白い馬に乗ったイエス・キリストが行われる戦いとは、神の言葉を完全に実現させるために行われるものだと言えるのです。ですから、私たちがこの戦いを通して実現する勝利を心から喜び、神を賛美するのです。この戦いの結果、すべての神の言葉が真実であったことが私たちに知らされるからです。

 この黙示録を記したヨハネは当時、ローマ帝国による迫害を受けて地中海に浮かぶパトモスと言う島に流され、一人で信仰の戦いを続けていました。当時の多くの人々はローマの権力に従い、皇帝を神として礼拝することが自分たちの利害に直結すると考えていました。しかし、ヨハネはこのような人々の考えとは違い、神の言葉に従ったために犯罪者のような扱いを受けて島流しの刑に処せられていたのです。ヨハネの生き方は当時の人々から見れば「なんと愚かな生き方か」と考えられていたはずです。しかし、このイエスの戦いよって明らかになったことはヨハネの生き方が正しかったと言うことです。ですから、このイエスの戦いの勝利は、地上で懸命に神の言葉に従うために生きた者にこそ大きな喜びをもたらすものとなると言ってよいのです。


4.中途半端な人生はない

 黙示録はこの白い馬に乗ったイエスの登場によって、神の救いの計画が完全な形でこの世界に実現していくことを語ります。神によって造られたこの世界が、神によって完全な形で完成される姿が語られているのです。そして、私たちはこの世界の救いを完全に実現してくださる神の御業に信頼して、その救いの中に私たちの人生を用いてくださる神の御業にさらに信頼を持って最後の時を待つようにと促されているのです。

 私は大学生のときに、教会に行き、そこで洗礼を受けてキリスト者になりました。私が21歳のときのことです。その当時、私はキリスト者になったことがうれしくて、友人に会うとそのことを伝えました。あるとき、その私の話を聞いた友人が私の顔をまじまじと見て「今度はどのくらい続くのかな…」と言った言葉を私は今でも思い出します。それまで、共産主義者としての活動を続けていた人間が突然、180度の方向転換をして神を信じるようになったのです。それを知る友人たちは「一時の気の迷いだ」とでも思ったのでしょう。彼らは私の話をまともに聞こうともしませんでした。私はその友人の言葉を聞きながら「そんなことはない。自分の信仰は本物だ」と思いながらも、そのもう一方で自分でも「どれくらい続けられるのかな…」と言う不安を抱いていたことを思い出します。なぜなら、自分のそれまでの人生を振り返って見ても、ずっと続けられたものはほとんどないような気がしたからです。

 もし、信仰生活を私たちが自分の力で保ち続けなければならないとしたら、おそらく誰もが私と同じ不安を抱くのではないでしょうか。なぜなら、私たちは明日の自分がどうなっているかさえ分からない存在だからです。ですから、今日は「神様を信じている」と言うことができても、明日、同じことを言えているのかどうかわからないのが私たち人間なのです。しかし、もし皆さんがこの時の私と同じような不安を抱いるとしたら、それは信仰生活についての大きな誤解を犯していることを知ってほしいのです。なぜなら、私たちの信仰生活は私たち自身の持っている力ではなく、神の力によって成り立つものだと言えるからです。

 確かに私たちは人生のあるとき聖書や神に出会い、その神を信じる決心をしました。しかし、これは私たちの側から見た一方的な見方でしかなく、事実はそうではないのです。本当は、神ご自身が私たちを信仰に招いてくださり、私たちに信じる心を与えてくださったのです。だから、私たちはこのようにして信仰生活を送ることができるようになったのです。

 私たちの信仰生活には私たちが予想してもいなかった様々な出来事が起こります。ときには深刻な試練に見舞われて、神を見失ってしまうようなことも起こります。しかし、神はそのたびに私たちに様々な助けを与えてくださり、私たちが信仰生活を続けることができるように導いてくださるのです。

 聖書は私たちの信仰生活を導き、その信仰生活を完成させてくださるのは神ご自身であることを私たちに教えています。だから私たちの人生にたとえどのようなことが起こったとしても、神は私たちの手を放すことがなく導いて、私たちの救いを完成してくださるのです。

 このように黙示録に登場する白い馬に乗るイエス・キリストの戦いは私たちの信仰生活を導き、私たちの救いを完成させるための大切な戦いであると言うことができます。そして私たちはこの戦いの勝利を黙示録の幻を通して知らされているからこそ、どのような試練に出会ったとしても希望を捨てることなく、神に従い続けることができると言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ヨハネは天が開かれている幻を見た時、そこにどのような方が現れたと語っていますか(11〜12節)。

2.この方が「自分のほかだれも知らない名がしるされていた」(12節)と呼ばれているのは、この方が世の誰にも支配されない神の御子であること表しています。それではこの神の御子は何をされるために現れたのでしょうか(13〜16節)。

3.ヨハネはその後、一人の天使が現れて空高く飛んでいる鳥に対して何と叫ぶ声を聞きましたか(17〜18節)。

4.ヨハネはさらに獣と地上の王たちとその軍勢が何のために集まっているところを目撃しましたか。そして彼はその集まった者たちがどうなっていくところを目撃することになりましたか(19〜21節)

2021.9.19「白馬の騎手」