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  4. 9月26日「命の書に記された名前」

2021.9.26「命の書に記された名前」 YouTube

ヨハネの黙示録20章1〜15節(新P.476)

1 わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。

2 この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、

3 底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。

4 わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。

5 その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。

6 第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。

7 この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、

8 地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。

9 彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。

10 そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。

11 わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。

12 わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。

13 海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。

14 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。

15 その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。


1.キリストの姿を見たヨハネ

 前回学んだ黙示録19章の物語では白い馬に乗ったイエス・キリストが現れると言う光景が描かれていました。ヨハネが見た幻を記すこの黙示録の中にはこれまでにも、何度かイエス・キリストの姿が登場していました。ヨハネはこの時、ローマ帝国の迫害に会い流刑者としてパトモスと言う島に流されていました。おそらく彼は信仰を共にする兄弟姉妹たちと離れて一人、この島で孤独な信仰生活に送っていたに違いありません。そのようなヨハネが幻の中でイエス・キリストの姿を見ることができたと言うことは、彼にとってどのような意味があったのでしょうか。

 この黙示録はローマ帝国の迫害の中でも、命を懸けて信仰の戦いを続けている人々のために書かれたものであることを私たちはこれまで学んできました。今日の部分でも「イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった」(4節)と言う言葉が記されているように、このヨハネの黙示録の内容と殉教者たちの存在は切り離すことのできない関係にあると言えます。

 使徒言行録は信仰のゆえに命までささげることになった殉教者の先駆けとしてステファノの言う一人の人物を取り上げて紹介しています(使徒6〜7章)。彼は最初、教会で働く十二人のイエスの弟子たちを助けるために立てられた「執事」と言う役職に選ばれた人物でした。しかし、聖霊に満たされたステファノは誰よりも雄弁にキリストの福音を証しすることができた人物であったとも言えるのです。そのためステファノはキリストの福音に反対するユダヤ人たちに捕らえられて、ユダヤ人の最高指導者たちが集まる最高法院の裁きの場に引き出されました。しかし、ステファノはこの最高法院の場でも聖書に基づいて「イエスこそがキリストである」ことを大胆に語りました。そこでユダヤ人たちはステファノに対して怒りに燃やし、彼を石打ちの刑と言う処刑方法で殺害しようとしたのです。

 聖書はこのステファノの殉教の場面で次のような出来事が起こったことを紹介しています。「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った」(7章55〜56節)。ステファノはその死の直前に「人の子」つまりイエス・キリストの姿を目撃しています。この時、ステファノにとってこのイエスの姿を見ることができたことはどんなに励ましであり、慰めであったことでしょうか。このように殉教者たちの信仰の秘訣は自分が絶体絶命の状況に立たされながらもイエス・キリストだけを見つめて、その方から目を離そうとはしなかったところにあります。私たちが厳しい試練の中でもそれに耐えぬくことができるためには、私たちの信仰の目をイエス・キリストに向け続けることにあることを私たちはこの物語からも学ぶことができるのです。


2.千年王国と殉教者の復活

①千年王国に対する議論

 さて、この20章に取り扱われている内容はキリスト教会の中でもさまざまな議論を呼び起こしたことで有名です。この箇所の記述をめぐっていくつかの違った解釈が生まれ、そのために教会が分裂し、互いに争い合うという出来事も起こりました。そのため、私が読んだ黙示録の解説書を書いた著者はこの箇所を私たちが学ぶために「謙遜と愛」が必要であるとわざわざ語っていました。

 この20章で問題となるのは「悪魔」あるいは「サタン」と呼ばれる存在が一人の天使によって底なしの淵に千年間に渡って閉じ込められる出来事と、そしてその間に殉教者たちが甦ってイエス・キリストと共に統治すると言われている出来事、つまり多くの人から「千年王国」と呼ばれている内容が記されています。実はキリスト教会の歴史ではこの「千年王国」の理解をめぐって、「自分たちの理解こそが正しい」と主張したグループが現れ、違った理解をする相手を厳しく裁き合うと言う混乱が生まれました。

 この千年王国についての理解をここで細かく説明する時間は私たちにはありません。しかし、カトリック教会やそこから分かれたプロテスタント教会の大きな流れである、ルター派や私たちのルーツとなる改革派教会の理解はすべて共通しています。伝統的な教会はこの「千年王国」の記事はキリストがこの地上にやって来てくださって、教会をこの地上に作られたときからすでに始まっていると考えて来ました。。つまり、私たちはこの「千年王国」と呼ばれるキリストの支配の中にすでに生かされていると考えるのです。

 これに対して、一部の人々はこの黙示録の記事に従って実際に終末の出来事が実現する前に、キリストが来られて千年の支配を行われると言う主張をしました。また別の人々は終末の後にやはりキリストによる千年の支配が実現すると主張したりもしたのです。

 私たちの改革派教会の信仰を説明するウエストミンスター信仰告白にはこの「千年王国」についての言及は記されていません。ですから、私たちは「千年王国」についての複雑な議論に時間を尽くすのではなく、この20章に語られている言葉から私たちが今、何を学ぶべきかについて考えて見たいと思うのです。


②世の終わりを前にしても、リンゴの木を植える

 聖書の語る世の終わりについて興味深い宗教改革者のマルチン・ルターにまつわる逸話があります。それは「明日、キリストが再臨されて、世の終わりが実現するとしたら、あなたは今日何をするのか」と言う質問に答えたルターの話です。ルターはこの質問に答えて「それでも、私は今日リンゴの木を植える」と語った言うのです。この言葉が本当にルターの語った言葉かどうかについては多くの疑問が残されています。しかし、私はこのお話は宗教改革者ルターの信仰を表現する言葉としてはふさわしいものだと考えています。

 この20章では「天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった」(11節)と言う言葉が出てきますが、世の終わりが起こればこの地上の姿は一変してしまいます。それなのに「リンゴの木を植える」ことにどんな意味があると言うのでしょうか。この言葉、たとえ私たちの将来にどのようなことが起こったとしても、私たちにとって大切なことはキリストから与えられている使命を今日、責任を持って行っていくだと言うメッセージが語られているのです。私たちはたとえ「世の終わり」の出来事を前にしても、いつまでも変わることのない神への信頼を持って、自分に与えられた使命を忠実に遂行していくことが大切なのです。

 今でも一部の人々は聖書の語る終末の出来事を用いて、人々の心を惑わし、混乱させるようなことを主張しています。しかし、聖書の語る終末についてのメッセージは私たちの日々の信仰生活をより確かなものとするために語られているものだと言えます。私たちはこの黙示録の幻を通して将来に対する揺るぐことのない希望を持つことができるようにされ、明日に対する思い煩いから解放されることができます。そして私たちは今日と言う日に神から与えられた使命を果たすことできるようにされるのです。


3.神にコントロールされるサタン、悪魔の力

 さらにこの20章では悪魔やサタン、あるいは「年を経た蛇」と言う存在が底なしの淵に千年の間に渡って閉じ込められることが語られています。そしてその後、彼らは再びそこから解放されて神に対する戦いに挑みますが、結局彼らはこの戦いに敗れて滅ぼされてしまうと言う出来事が記されています。つまりこのお話は、サタンの力はいつも神のコントロールの中に置かれており、いずれは神に滅ばされるべき存在であることを私たちに教えていると言えるのです。

 私は神学生のときに派遣された教会の婦人会の交わりで、とても難しい質問を受けたことがあります。その参加者の一人が「自分の知人が深刻な病に侵されて苦しんでいる。どうもこの病の原因は霊的な問題だと思うが、どうしたらその病が普通の病か、あるいは悪魔の働きのためなのかを見分けることができるのでしょうか…」。そんな質問を受けたことがあるのです。そのとき、私は神に助けを求める気持ちで懸命に答えを探したことを思い出します。そして、私はこんな考えを述べたのです。「その病が普通の病なのか、それとも悪魔の仕業なのか、私にも見分けることができません。しかし、大切なことは私たちの病をいやしくださるのも、私たちを悪魔の力から守ってくださるのもイエス・キリスト以外にはおられないと言うことです。だから私たちはその人の癒しのためにイエスに助けを求めて祈るべきでしょう…」。

 悪魔の力はすでにイエスによって完全にコントロールされています。そしていずれはこのイエスの力によって滅ぼされる存在なのです。だから私たちに必要なのはこのイエスを信頼し、イエスに助けを求めることだと言えるのです。


4.第二の死と永遠の命

 さらに、この聖書箇所では殉教者たちの魂が甦る「第一の復活」の出来事が語られ、その人たちは「第二の死」を味わうことはないとまで語られています(4〜6節)。

 教会ではこの部分のお話をどのように理解するかでも様々な議論が起こっています。とにかくこの「千年王国」にまつわるお話は聖書の中でもこの黙示録20章にしか登場していないので、この箇所だけですべての答えを導きだそうとすることは不可能だと言えます。そこで私たちは聖書全体が人間の死について語っていること、またその甦りについて語っていることについて少し整理して考えて見たいと思います。

 実は聖書は人間が経験する死について三つの異なった死があることを語っています。この中でも私たちがよく知っている死は「肉体の死」、私たちのこの世での命が終わる「死」であると言えます。しかし、聖書はそれよりも重要なこととして、私たち人間はこの地上で生きているように見えながらもすでに「死」の状態にあることを教えています。それが人間の「霊的な死」と言う問題です。罪を犯した人間は、命の源である神から離れてしまったことにより霊的に死んだ状態に陥っているのです。そして霊的に死んだ状態の人間は神を信じることも、ましてやその神に従うこともできないのです。

 そこで神はこの霊的に死んだ状態にある人間のために救い主を送り、その人間の魂に聖霊を送ることで信仰を与えてくださいます。この出来事こそが「霊的な甦り」と言われるものです。神によって霊的に甦らせられた者は神を信じ、神に従って生きることができるようになるのです。そしてこの20章に取り上げられている「第一の復活」はこの霊的な甦りを語っていると考えることができるのです。

 また聖書が教える三番目の人間の死について黙示録はここで「第二の死」と言う言葉でそれを表現しています。「死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた」(14〜15節)。

 この死は「命の書」に名が記されていない者のみが経験する死であることが聖書の言葉から分かります。つまり、ここでは霊的な甦りである「第一の復活」の恵みにあずかることができず、固くなにキリストへの信仰を拒んだ者が神の裁きを受けるために復活し、その上で「第二の死」を経験することになると教えているのです。こう考えるとこの「第二の死」は私たちの経験する「肉体の死」ではなく、神の裁きを受けるべき人間に与えられえる「永遠の死」であることが分かります。

 この最後の裁きについて「死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた」(12節)と黙示録は語っています。これを聞くと私たちはこの「命の書」の内容が子供のときに聞いた閻魔大王が見る閻魔帳のように思えてしまうかもしれません。しかし、実際にはそうではありません。なぜなら、この命の書に記されている私たちの名前の後に書かれ内容は、私たちのこの地上での功績を記録するものではないからです。この命の書に記されているのは、私たちの救い主であるイエスが私たちのためにこの地上に来られて、十字架についてくださったこと、この方が私たちのためにしてくださったすべてのことが記されているからです。最後の裁きのときに、私たちはこの命の書に記されたキリストの御業によって救われるのです。なぜなら神はイエスのなさったすべての御業をあたかも私たち自身がなした業として見なし、私たちに無罪の宣言を下してくださるからです。

 このようにイエスを信じることができた者はすでにこの地上で「第一の復活」である霊的な甦りを体験しています。そしてその復活にあずかった者の名前は命の書に記されていて、最後の裁きのときに私たちはこの命の書に記されたキリストの御業のゆえに許され、喜びを持って神の救いにあずかることができるようにされるのです。

 さらに黙示録は「死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である」と語っています。この言葉に従えば私たちにとっての「第二の死」は私たちを苦しめ続けて来た「死と陰府」が滅びるときでもあることが分かります。このようにキリストはその最後の戦いで、死も陰府もその支配者であるサタンと共に滅ぼして下さり、私たちには永遠の命が与えてくださるために働いてくださるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ヨハネが幻の中で目撃した天使は何をその手に持っていましたか(1節)。この天使はそれを使って何をしましたか(2〜3節)。

2.ヨハネは「イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たち」がどのようになるのを目撃しましたか(4〜6節)。

3.千年の期間が終わるとサタンはどうなりましたか(7〜10節)。

4.ヨハネが見た天の玉座は何を表しているのでしょうか。またその逆座の前に立っている人たちはそこでどうなりましたか(11〜12節)。

5.ヨハネは「第二の死」と言う出来事について何を私たちに教えていますか(14〜15節)。

6.あなたはヨハネの見た幻を通して示された20章の出来事からどんな感想を持ちますか。

2021.9.26「命の書に記された名前」