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2022.1.23「ラザロの証し」 YouTube

ヨハネによる福音書12章9〜11節

9 イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。

10 祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。

11 多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。


1.葬儀マニュアル改定のきっかけ

 今日の礼拝はこの後、教会の葬儀マニュアルについての説明会を行う予定となっています。そのためこの礼拝でも聖書のみ言葉から私たちの死について、また葬儀や埋葬について皆さんと共に学んでみたいと考えています。

 まず今回、教会の小会では以前に作成した葬儀マニュアルの改訂することとなりました。その改定のきっかけとなったことは、千葉県の柏市のラザロ霊園にある教会の墓地についてもっとたくさんの人に詳しく伝える必要があるのではないかと言う課題が生れたからです。教会では筑波みことば教会との合同の形でラザロ霊園に教会の墓地が作られています。古い記録を調べて見るとこの教会墓地が私たちに与えられたのは2012年の4月であったとされていました。つまり、すでにラザロ霊園にある教会墓地は今年で取得から10年の歳月が経っていることが分かるのです。

 私たちの記憶をたどれば、当時教会では「教会員のための墓地がない」ことで大変に困っていました。そのために当時の小会は様々なところに問い合わせ、さらには実際に現地調査を行って教会墓地の建設のために活動して来ました。その中でも私たちが心に留めたのは日本では極めて珍しいと言えるキリスト教専門の共同墓地であるラザロ霊園の存在です。教会ではその後、様々な経緯を経てすでにこの霊園にあった筑波みことば教会の墓地の半分の権利を譲渡してもらうことになったのです。個人的な事情ですが、私は青森の牧師を辞めた後、短い間、この筑波みことば教会の牧師をしたことがありました。その際、筑波みことば教会の教会墓地の代表者の名義変更などに関わる機会がありました。不思議なことに筑波みことば教会はその当時からこのラザロ霊園に墓地を所有しながら、未だに一人の埋葬者もないと言う状況が続いていました。このような様々な事情が重なって、東川口教会がこの墓地を使用することができるようになったのです。そして私はこれは何よりも「教会の墓地を与えてほしい」と願った私たち一人一人の祈りに神が答えて下さった結果でもあると考えているのです。

 ところが私たちの教会にはこんなに素晴らしい教会の墓地がありながら、この墓地の存在がよく知られていないのではないかと事実を教会の小会が知るような出来事が起こりました。もちろん、教会の礼拝に毎週出席し、またラザロ霊園の墓前で毎年行われている記念礼拝に参加されている教会員の皆さんはこの墓地の存在をよく知っておられると思います。しかし、その存在が今はまだ教会に繋がっていない私たちの家族や親族にも伝えられているかと言えば、そうではないという現状があると思うのです。

 残念ながら私たちは自分の葬儀や埋葬を自分自身ですることはできません。当然、それは私たちの家族や親族が引き受けることになります。このような場合にその家族が教会に申し出てくだされば、教会には葬儀から埋葬に至るまで滞りなく行う準備ができていることを示すことが大切な任務であると言えます。もちろん、その中にはラザロ霊園に設けられている教会墓地についての案内も含まれなければなりません。これらのことを明確に示す文書があれば、私たち自身も安心できるし、また私たちの家族をも安心させることができる、それがこの葬儀マニュアルを改訂すると言う大きな動機となったと言えるのです。ですから、皆さんはこの葬儀マニュアルの説明をよく理解していただいたうえで、皆さんのご家族や親族の皆さんには「いざとなったときに、教会にはこのような準備があるので安心してよい」と言うメッセージを積極的に伝えていただけるようにお願いしたいのです。


2.一粒の麦としての私たちの「死」

 もちろん、「自分が死んだ後に自分の家族がどうするのかは、その家族の自由に任せたい…」。そう考える方もおられるかも知れません。たとえ私たちの葬儀が遺族によってお坊さんが呼ばれて、仏式で営まれ、その遺骨がたとえば海に散骨されたとしても、それで私たちが天国に行けなくなることは決してありません。ですから、その点で私たちは自分が死んだ後のことを心配する必要はないと言えるのです。しかし、ここで大切になってくるのはキリスト教の葬儀はいったい誰のために行われるのかと言うことを知ることです。

 皆さんもご存知のようにキリスト教の葬儀では亡くなった死者の魂が天国や極楽に行けるように弔うと言うことは行いません。このことがよく分かるのはキリスト教の葬儀の司式者がどこを向いてその式を行っているかと言う姿勢です。キリスト教の葬儀の司式者は死者に向かって何かを語ることは一切行いません。むしろ、司式者はそこに参列する遺族やそのほかの出席者に顔を向けて語り掛けるのです。それではなぜ、キリスト教の葬儀の司式者はそのような姿勢で式を行うのでしょうか。それはこの葬儀を通して神の御業とその栄光が葬儀の出席者の上に現されるためです。言葉を変えて言えば、私たちの死を通して神のすばらしさが葬儀に集った人々に伝えられるためなのです。つまり、この点で私たちの葬儀は私たちが神を証しすると言う大切な役目を果たす大切な機会であると言えるのです。そしてそう考えるからこそ、私たちが自分の葬儀を教会で行うことが大切になって来るのです。

 私が筑波みことば教会の牧師をしているときに、当時慣れない私の働きを助けて励ましてくださった一人の年配の婦人の教会員がいました。実は私が牧師になって最初に、人の臨終に立ち会い、その葬儀を行ったのはこの婦人のご主人のためでした。筑波みことば教会の役員として大変熱心に奉仕してくださるこの婦人は、元々は鎌倉雪の下教会と言う教団の会員で、その教会で有名な加藤常昭と言う牧師からキリスト者としての訓練を受けていました。その点で私は大変よいアドバイスをこの婦人から受けることができたのです。

 実はこの婦人が鎌倉雪の下教会で洗礼を受けてキリスト者になった理由は、その婦人の娘さんの死と言う出来事がきっかけであったと言うことを後から知りました。その娘さんは大学生であったときに脳腫瘍になり、天に召されたと言いえます。そしてその娘さんは生前に鎌倉雪の下教会に通い、そこで教会学校の教師を務めた熱心なキリスト者であったと言うのです。ですからその婦人は亡くなった娘さんの葬儀を鎌倉雪の下教会で行うと言うことを通して教会とつながることになりました。そしてやがて自分もその娘さんと同じ信仰に導かれたと言うのです。私はこの娘さんのことは直接にはよく知りません。しかしその娘さんの死から長い年月が経った後、私はこのご婦人のご主人、つまり娘さんの父親の病床を何度も訪問して最後には病床洗礼を施すと言う機会に恵まれました。すでに、私が知っていたこのご婦人も何年も前に天に召されました。しかし、このご一家は愛する娘さんの死と言う厳しい現実を通して両親までが信仰に導かれるという恵みにあずかることができたのです。聖書の中で主イエスは私たちにこのような言葉を語っています。

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12章24節)

 この言葉は一粒の麦として十字架にかけらえたイエスの生涯を表すと共に私たちの死と言う現実を通して主イエスがたくさんの実を結ばせてくださると言う約束をも表しているのです。そしてそのイエスの約束が実現する機会の一つが私たちの葬儀の場であるといことを私たちはここで心に覚えたいのです。


3.神の栄光を表すとは

 私たちの教会の大切な信仰問答書には私たちの人生の目的を「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」(ウエストミンスター小教理 問1)と教えています。それでは、私たちはどのようにして神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶことができるのでしょうか。私たちが今日取り上げようとするヨハネによる福音書には私たちの信仰の模範となる一つの家族の姿が取り上げられています。それはマルタとマリアと言う名前の姉妹、そしてその兄弟であったラザロという男性の一家です。

 ルカによる福音書10章(38〜42節)にはこのマルタとマリアの姉妹に関する興味深い物語が紹介されています。聖書によればこの二人の姉妹の性格は大変違っていたようです。姉のマルタは働き者で、気配りの上手な人物であったと言えます。主イエスが彼女たちの家を訪れたときも、マルタは主イエスのために精一杯の食事の準備を整えて迎えようとしてます。どこの教会にもこのマルタのような人たちがいて、様々な奉仕に携わってくださることにより教会の活動が支えられています。そのような意味でマルタは具体的な行動を伴う形で神の栄光をあらわす人物であったと言うことができます。

 そして妹のマリアはこの姉とは対照的な人物であったことも聖書は語っています。マリアは主イエスがやって来られたとき、その前にまずひざまずいて、主イエスの語る言葉に耳を傾けました。また、ヨハネによる福音書の伝える物語によればこのマリアは純粋で高価なナルドの香油を主イエスの足に注いだと語られています(12章1〜8節)。マリアはどちらかと言うとマルタのように活動的ではありませんでしたが、そのマルタと同じように主イエスを愛し、主イエスのそばにいることで神の栄光をあらわした人物であると言えます。現代の教会でも自分には何もできなくても、とにかく自分は神の言葉が聞きたい、そのために毎週の礼拝に出席して、神に祈りをささげたいと願って信仰生活を送っておられる方もいます。そして教会の活動はそのような人々の存在を通しても支えられていると言えるのです。

 ところがこの姉妹の兄弟であったラザロはさらにこの二人とは違った形で神の栄光をあらわすような人物であったことを聖書は説明しているのです。

 今回、私はヨハネによる福音書が記した言葉を読んでいて非常に興味深いことに気づきました。なぜなら、ヨハネはこのラザロについて「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった」(11章1節)と紹介し、またイエスがこのラザロを生き返らせた場面では単に「死んでいた人」(44節)と呼んでいることに気づいたからです。聖書は働き者の姉マリア、イエスの近くでみ言葉に耳を傾けた妹マリアに対して、このラザロを「病人」、「死んでいた人」と言う表現で紹介しようとしていることが分かるのです。

 つまり、聖書は私たちの人生で神の栄光をあらわすという方法について、ラザロを通してもう一つ別の方法があると言うことを私たちに教えようとしているのです。つまり、それはラザロが「病気」なったことであり、「死」んだことだと言うのです。確かに、聖書を読んでわかることはこのラザロが登場する場面で、彼の語った言葉は一つも記されていなません。彼は主イエスのために何をすることができたのでしょうか。聖書はそのことについて何も語ります。ラザロは深刻な病気にかかって苦しんで、人々の看病も虚しく死んでしまっただけなのです。その上で、人々によって彼の遺体は墓に葬られました。物語では墓に葬られて三日たち、ラザロの体は腐り始めていました。実はラザロと言う名前の意味は「神に助けられる人」と言う意味を持っています。この名前が記すようにラザロは神のために何かをする人ではありませんでした。むしろ彼は神に助けられることで、その神の栄光をあらわした人だと言えるのです。

 そもそも「神の栄光をあらわす」とはどのようなことなのでしょうか。もし私たちが自分でがんばって「何かをあらわす」なら、それは「自分をあらわした」と言うことになってしまうので、「神の栄光をあらわした」とは言えなくなります。神の栄光をあらわすとは、私たちを通して神の栄光があらわされること、つまり、その栄光の根拠は神ご自身あると言えるのです。マルタとマリアの異なった働きを通して栄光をあらわしたのは神ご自身であり、その神はラザロを通してもご自身の栄光をあらわすことができたのです。このような意味で私たちの神は私たちの人生のすべてを用いてご自身の栄光をあらわすことができるお方だと言えるのです。ですからラザロの「病」も「死」もこの神がご自身の栄光をあらわすために使われたのです。


4.私たちの死をも用いてくださる神

 このように神はラザロと言う人物の人生を十分に用いてくださって、ご自身の栄光をあらわしてくださったことを聖書は私たちに教えています。それは今日の聖書箇所の場面に登場するラザロの姿を通しても理解することができます。この場面ではこともあろうにイエスに敵対する人々がイエスによって生き返ったラザロを殺害しようとする陰謀が立てられています。なぜなら、「多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである」(11節)とその理由が説明されています。イエスに反対する人たちにとってはラザロがそこにいえるだけでイエスのすばらしさが分かってしまう都合の悪い存在だったのです。

 ラザロはこの場面でも前と同じように自分からは何も語っていません。ただ、イエスのそばに座っているだけでした。しかし、人々はそのラザロを一目見ようとしてここに集まって来ています。そして、そのラザロを通してイエスの栄光を知った人々はそのイエスを信じることが出来たと言うのです。

 ラザロがこのような存在になったのは彼が病気になって、死んで葬られたからです。そしてイエスがそのラザロを生き返らせてくださったからです。

 神は私たちの死をそしてその葬りを用いてご自分の栄光をあらわしてくださいます。そのとき私たちには何もできなくても、神は私たちの人生を地上の死に至るまで用いてくださるのです。このような意味で私たちの死や葬儀も、そして埋葬も神の栄光があらわれる場所とされることを私たちは覚えたいのです。

 確かに地上を去って天に帰った者が自分の葬儀で、あるいは埋葬でできることは何もありません。しかし、私たちは死んだラザロ生き返らせてくださった、永遠の命である主イエスを信じる信仰の証しを残された人々に伝えることができるのです。自分もラザロと同じように主イエスによって復活させられると言う希望を持って生きていたことを人々に証しすることできるのです。教会はその信仰者の残した意志に基づいて葬儀を行い、埋葬を行うことできます。そのとき、主は私たちの死を「一粒の麦」として用いてくださり、葬儀を通して残された人々の上に豊かな福音の実を結ばせてくださることを信じているのです。

 

聖書を読んで考えて見ましょう

1.あなたも福音書記者ヨハネがラザロとその家族であったマルタとマリアについて記している11章の物語を読んでみましょう。この物語からラザロと言う人がどのような人であったことが分かりますか。

2.イエスがベタニアにやって来られたとき、その場所に大群衆が集まりました(9節)。彼らは何のためにそこに集まったのですか。

3.この箇所でラザロはイエスに敵対するユダヤ人たちにとってどのような存在となっていたことが分かりますか(10〜11節)。

2022.1.23「ラザロの証し」