2022.1.30「救いの喜びに生きる教会」 YouTube
テサロニケの信徒への手紙一5章16〜18節
16 いつも喜んでいなさい。
17 絶えず祈りなさい。
18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
1.教会の歩み
①主を喜ぶことこそ私たちの力
今日はこの礼拝の後すぐに本年度の会員総会を開催する予定となっています。この会員総会の開かれる日の礼拝では毎年、その年のために選ばれた教会の年間聖句と年間テーマに関連した説教をお話することになっています。今年の年間聖句はテサロニケの信徒への手紙一5章16〜18節のパウロが記した言葉を選びました。またこの年間聖句に基づいて、今年の教会の年間テーマは「救いの喜びに生きる教会」としています。私が草加松原伝道所の代理牧師をしていたときに、草加では年間聖句をこのテサロニケの信徒への手紙の言葉を一節ずつ、その年の年間聖句にしたことがありました。最初の年は「いつも喜びなさい」、そして次の年は「絶えず祈りなさい」、そして最後の年には「どんなことにも感謝しなさい」と言うものでした。そのときこの聖句を最初に選んで提案したのは私ではなく、草加松原の役員をしている兄弟でしたが、ともて面白い選び方だなと私も当時思いました。
ただ、私は今年の聖句をそのように分けて選ぶことはしませんでした。なぜならパウロがこの手紙で語っているこの三つの言葉「喜び、祈り、感謝」はお互いに強い結びつきを持っているように思えたからです。ただ教会のテーマを「救いの喜びに生きる教会」としました。ですからどちらかと言うとこのテーマに従えば16節の「いつも喜んでいなさい」と言う言葉が中心となって来ると考えてよいかも知れません。私はこの「喜び」と言う言葉は私たちの教会にとってとても、私たちの個人的な信仰生活にとっても大切な言葉だと考えています。なぜなら、私たちの教会を動かす力、また私たちの力となるのが「喜び」であると言えるからです。旧約聖書のネヘミヤ書にも「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(8章10節)とはっきり語られています。
喜びのない信仰生活には力がありません。私たちは自分の普段の信仰生活を通してそのことを痛感しているのではないでしょうか。しかし、それではその喜びはいったいどこから私たちに与えられるものなのでしょうか。喜びに満たされた信仰生活を送るためには私たちはどうしたらよいのでしょうか。
②喜びを分かち合い、喜びを継承する
今、世界はコロナウイルスによって起こされたパンデミック(感染爆発)の危機により深刻な状態に陥っています。最初、わたしたちは「終わらないパンデミックはない」と言う言葉を聞いて、「しばらくの我慢が必要だが、やがては元の生活に戻れる」という希望を抱いていました。しかし、その後も続けて起こる変異ウイルスの出現により、日本は現在第六波の感染危機を迎えています。
このような危機にも関わらず私たちの教会の昨年活動を振り返れば、一年間、公同の礼拝を守り続けることができたことはとても幸いであったと思います。私たちの信仰生活の喜びの原点は何よりも神を礼拝するとことにあります。ですからこの礼拝を欠かさずささげることできたという事実を通して、私たちは私たちを守ってくださっている神の御業を覚えることができると言えるのです。
確かに現在教会員の皆が一か所に集まって礼拝をささげることには困難な状況が続いています。しかし、それでもインターネットを利用したリモートによって何人かの兄弟姉妹が自宅から教会に集まった私たちと共に礼拝をささげることができたことも感謝したいと思います。
さらに昨年の活動で特別に覚えたいのはこのリモートを使って韓国のホサナ教会のメンバーたちと合同の礼拝をささげることができたこと、さらには交わり会や読書会を行うことができたことです。私たちはお互い国籍や言語は違っていて主に救われた兄弟姉妹として、ホサナ教会のメンバーと共に交流を深めることができました。ホサナ教会の兄弟姉妹はその後もことあるごとに私たちの教会を覚えて、祈り続け、また励ましの便りを送ってくださいました。私たちは国境の壁を越えてホサナ教会の兄弟姉妹と信仰生活の喜びを共にすることができたことを感謝したいと思うのです。
また、私たちが昨年、教会に起こった出来事を思い出すときに、まだ新しい記憶として残っていることは私たちの信仰の友であった中村陽子姉と山口康子姉の二人を相次いで天国に送ることになったということです。この二人の姉妹は私たちの教会の初期の活動から参加してくださったメンバーであり、今は少なくなったセブンイレブンの二階のテナントでの教会生活を共にした姉妹たちです。中村姉は何よりも神様を第一と考え、また日曜日の礼拝に出席することを守り続けるということを通して私たちに信仰の証しを残してくださいました。また、山口姉は病のために体に障害が残った後も、キリストへの確かな信仰を持って教会に集い続けてくださいました。山口姉は障害のために言葉を自由に語ることはできなかったのですが、いつも笑顔を持って信仰の喜びを私たちに証ししてくださったことを私たちは思い出すことが出来ます。私たちは今、この二人の姉妹を天に送った寂しさを感じていますが、それ以上に主イエスを信じる喜びに生きた二人の証しを信仰の財産として受け継ぐことができることを感謝したいと思うのです。
2.新たな年に求められる活動
さて、新しい年の教会の活動は相変わらず終息がいつになるかわからないコロナウイルスの問題の中で行われることが予想されます。私たちはそのため感染予防の姿勢を持ち続けながら新年度の計画を進めて行く必要があると思います。その点でインターネットを使ったリモートによる礼拝や集会の中継は教会の活動を支える大切な道具して今後も用いられて行くことが大切であると言えます。
先日、行われた中会の教師会ではこのリモートによる礼拝は「教会に集ってささげられる礼拝と同じだ」と言えるのかという話題が取り上げられていました。この話題を取り上げた発表者は決められた時間に決められた場所に集って礼拝をささげることは、主に対する服従が求められる行為であるのに対して、リモートではそれがおろそかになり、人間の都合が先行される危険性があると指摘していました。また、主にある愛の交わりは実際に兄弟姉妹がとも一つの場所に集まる礼拝にのみ成り立つのであって、リモートを通してはそれも難しいとも語られていました。もっとも、この教師会でも別の発言者からリモートによる礼拝を通して私たちの小さな礼拝が世界規模に広げられる可能性が生れているという積極的な面での評価も取り上げられていました。
私は「リモートによる礼拝が完全なものではない」と言う意見を理解しながらも、むしろ伝道的な視点から考えて今後も教会の活動に用いられることが望ましいと考えています。そして私はむしろ、このパンデミックが終息した後もリモートでの活動は教会で続けられるべきだと考えているのです。ただ、先ほども指摘されたように主にある愛の交わりの中にこのリモートでの参加者をどのように受け入れていくのかという点で教会ではもっと細かな配慮が必要とされていると思っています。特に神の恵みを具体的な形では確認することができる聖餐式などの礼典をリモートでの参加者とどう分かち合うのかが大きな問題となります。このような点でも教会はリモートによる参加者への新たな取り組みを今後も検討していかなければならないと思います。
また、このような取り組みと同時に教会はパンデミックが終息した後に正常な活動にいつでも戻れるような準備をする必要があるとも考えています。何度かこの礼拝で紹介した例話にもあったように、日照りの解消を求めて教会に集まって神様に「雨を降らしてほしい」と祈祷会を持った人たちなのに、その帰り際に雨が降ってきたら、誰も傘を持って来ていなかったというのでは困ってしまいます。私たちが普段真剣になってコロナウイルスの終息を祈っているのなら、その終息の後のことについても真剣に祈って準備する必要があると言えるのです。今はそれをしなくてもよいものでも、将来のために今からそれを準備しておくことが大切であると言うことを私たちは忘れないようにしたいと思うのです。
3.喜びの根拠
さて、ここで聖書の言葉に戻って私たちの信仰生活の力となる「喜び」について少し皆さんと考えて見たいと思います。パウロは聖書の中で私たちに「いつも喜んでいなさい」と勧めています。そしてそれが大切なのは「神があなたがたに望んでおられること」だからだと説明しているのです。神はイエス・キリストによって救われた私たちが喜びを持って信仰生活を送ることを心から望まれていると言うのです。
確かに「喜ぶ」ことは大切だけど、厳しい人生を送っているのだからいつも喜んでばかりはいられない…。ましてや、こんな大変な時代に生きている私たちが「いつも喜んでいる」ことなど不可能に近いのではないかと考える人もおられると思います。しかし、聖書が語る喜びの根拠はいつの時代も、またどのような状況でも変わることのない確かな救いの事実に基づいていることを私たちはここで考える必要があります。
なぜなら私たちの喜びの根拠はまず、神が私たちの罪を赦してくださったという救いの出来事に基づいているからです。私たちの過去の人生がどのようなものだったとしても、私たちがイエス・キリストを信じたときにその人生は全く変えられたのです。なぜならイエス・キリストの十字架を通して私たちの罪深い人生が、イエス・キリストの人生と置き換わり、私たちの犯したすべての罪が赦されたからです。
イエスは聖書の中で「多くの罪を赦された人ほど、その罪を赦してくださった神を愛することができる」と言うことを語っています。確かに私たちの地上での信仰生活をでは、私たちも自分の罪深さを改めて知らされるようなことを繰り返し体験します。しかし、このイエスの言葉によれば私たちの神への愛は、その赦された罪の大きさに比例して大きくなると言うのです。そうなると私たちの信仰生活は日々喜びを強められる生活であるとも言うことができるのです。
さらに私たちの信仰生活の喜びは、たとえ私たちの人生に何が起こったとしても私たちから決して離れることない主イエス・キリストがおられると言うところにも根拠が置かれています。私たちの社会的役割が終わり、たとえ私たちの存在を求める人がいなくなったとしても、主イエスは私たちから決して離れることなく、私たちを助け導いてくださるのです。だからこそ、私たちはこの主の御名によっていつも神に祈り続けることができます。私たちがささげるどんな祈りをもふさわしい形にかえてとりなしてくださるイエスが私たちと共にいてくださるからこそ、私たちは大胆に神に祈り続けることができるのです。
また、私たちの喜びの根拠は私たちの人生のためにたてられた神の確かな計画にも置かれています。確かに私たちの人生には私たちの期待していなかったような出来事も繰り返し起こります。しかし、その出来事さえ神は用いてくださり、私たちのためにたてられた計画を実現し、私たちを救ってくださる方なのです。だからこの神の計画を知るものは神にいつも感謝をささげることができると聖書は教えているのです。
4.私たちに与えられている希望
今年の年間聖句が記されているテサロニケの信徒への手紙はパウロの記した手紙の中でも最も初期に書かれた書簡であると聖書の研究家は説明しています。ですから、この手紙の中には主イエスの再臨の日を待ち望む人々の強い期待が述べられています。その一方で、このイエスの再臨を待ち望む者がいまどのように生きるべきなのかと言うことも教えられています。なぜなら、主イエスの再臨のことだけを考えて世の生活をおろそかにしてしまうような間違った考えを持つ人が当時の教会の中には生まれていたからです。このような誤った考えに対して、パウロは主イエスの再臨の日を待ち望む信仰を持つ者こそ、与えられた今の生活を誠実に送ることができると教えています。だからパウロは「わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」(4章11節)とも勧めているのです。
私たちも主イエスの日を待ち望む者として「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努め」る生活を送りたいと願う必要があります。どんなときも希望を失うことなく、また現実を忘れたり、軽視することのない生活を送ることが私たちには求められているのです。
しかし、そのような生活を送る私たちに支え導き、喜びを与える言葉をパウロはこの手紙の結末で語っています。
「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」(5章23〜24節)
私たちを私たちの信仰生活に招き、また教会に招いてくださった神様が私たちのためにすべてを成し遂げてくださることを待ち望みたいと思います。そしてこの確かな希望こそが、何よりも私たちの喜びの根拠であることを確認して、私たちは新しい年の信仰生活、教会生活を励みたいと思うのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.あなたは昨年一年間の自分の信仰生活を振り替えて、神に感謝をささげたいことがありますか。それはどんなことですか。
2.世界規模のコロナウイルスによるパンデミックが始まって、あなたの信仰生活に何か変化が起こっていますか。
3.今年の年間聖句に選ばれたパウロの言葉を読んで、あなたはこの言葉からどのようなことを考えましたか。また、自分の信仰生活にこの言葉を適用させるために、どうしたらよいと思いますか。
4.新しい年の私たちの信仰生活と教会生活を神が守り導いてくださるようにあなたもお祈りしてみましょう。
5.神があなたの祈りに答えてくださったときに備えて、あなたが今から準備できることは何でしょうか。