2022.10.16「気を落とさずに祈れ」 YouTube
ルカによる福音書18章1〜8節(新P.143)
1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
1.追い詰められたやもめ
①気を落とすないために
今日も聖書の御言葉から皆さんと共に学んで行きたいと思います。今日の箇所では主イエスが語られた一つのたとえ話が紹介されています。このたとえ話自体は決して複雑なお話ではなく、誰が読んでも分かりやすいと言えるかもしれません。ところが、問題なのは私たちがこのたとえ話を通して何を学ぶかと言う点であると思います。皆さんはこのたとえ話を読んでどのような感想を持たれたでしょうか。「どこまでも諦めないで祈り続けることが大切だ…」、「自分の信仰生活にはこのたとえ話に登場するやもめのような熱心さが欠けている。だから神は私の祈りに答えてくださらないのだ…」。たぶんこのお話からこのような結論を導き出し、自分の信仰生活に適応する方もおられるかも知れません。
このお話が主イエスの口からなぜ語られたのか、その理由については今日の箇所の最初に記されています。主イエスは「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」(1節)にこのお話をされたと言うのです。それなのに、このたとえ話を聞く私たちは「やっぱり自分はだめだ」と、むしろ気を落としてしまったり、がっかりしてしまうことがないでしょうか。もし私たちがこのたとえ話から「自分は気を落とさず祈り続けるのはむずかしい」と結論づけてしまうなら、主イエスがこのお話をされた意図に反することとなってしまいます。それではこのお話はいったいどのような意味で気を落として祈ることが困難な私たちを励ますものだと言えるのでしょうか。私たちはそのことについてここで少し考えて見たいと思います。
②必死なやもめ
まずこのたとえ話に登場する人物に私たちは目を向けて見ましょう。このお話の登場人物は二人います。一人は「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」、そしてもう一人はその裁判官の住む町に住んでいた「やもめ」です。この「やもめ」は聖書では夫に先立たれた未亡人を呼ぶ言葉です。おまけにこの夫に先立たれた「やもめ」には他に頼るべき家族は一人もいません。天涯孤独な生活を送る女性です。今の日本では平均寿命は女性の方が上ですから夫に先立たれて、一人暮らしをしている女性がたくさんいるはずです。しかし、現代の日本のように社会保障制度などない古代社会で、さらに女性が一人で自分の生活のために働くという機会がなかった時代、この「やもめ」は最も弱い立場に立たされている存在であったと言えます。ですからこの時代に孤独な「やもめ」が生きるためには夫が残してくれた財産を頼りにすること、また周りの人々の好意にすがることしかなかったのです。
このたとえ話ではこの「やもめ」が裁判官のところに来て『相手を裁いて、わたしを守ってください』(3節)と願い出ています。おそらく、ここから想像できるのはこの「やもめ」は自分のために残しておいた夫の財産を誰かに奪われると言う経験をしたのかも知れません。彼女はその財産を取り戻すことができなければ、もう生きて行けない、そんな深刻な問題を抱えていたのです。だから彼女は裁判官に対して自分のために正しい裁きをしてくれるようにと必死に願い出たのです。
③神により頼む人
福音書の中には主イエスが「こんな人は幸せです」と教えてくださった内容が記されていますが、その中に「心の貧しい人は、幸いです」と言う言葉があります(マタイ5章3節)。この「心の貧しい人」とはどういう人のことなのでしょうか。心の貧しさとは自分では満たすことのできない大きな心の欠けを持っている人のことです。そしてその心の欠けは自分の力では決して満たすことができません。だからこそ必死になってその心の欠けを満たすことのできる方にすがる外ないのです。ですからこの言葉を別の聖書は「ただ神により頼む人は、幸いです」と訳しています。この言葉からも分かるように神に頼ること、神に祈り願い求める人は心に大きな欠けを持っています。神を頼らないと、神に祈らないと生きてはいけないと言う境遇に立つ人たちなのです。この物語に登場するやもめは追いつめられてどうにもならない状態にありました。しかし、主イエスはこのような人こそ「幸いな人」と呼んで下さっているのです。だからもし、私たちが神に頼り、祈り願わなければ自分は生きてはいけないと感じているならば、すでにその人は神によって幸いな人にされていると言うことができるのです。
2.不正な裁判官
①やもめの訴えを無視した裁判官
さて、このお話のもう一人の登場人物である「裁判官」はいったいどのような人だったのでしょうか。主イエスはこの裁判官について「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」(2節)とか、あるいわ「不正な裁判官」(6節)と語っています。実は旧約聖書ではこのお話に登場する「やもめ」のような立場の弱い人々の権利を誰もが保証するようにという定めが記されています。つまり、神を畏れる裁判官であれば、聖書が教える正義を重んじる裁判官であるならば、必ずその人は「やもめ」の訴えを取り上げて、彼女のために正しい裁きを行うはずだったのです。ところがこのお話に登場する裁判官はそのような人ではありませんでした。ある聖書の解説者はこの裁判官は当時、イスラエルを支配していたローマ帝国の役人であったと説明しています。ローマの役人には聖書の教えは関係ありません。その上、この裁判官は苦しむ人に対する同情心も持ってはいません。むしろこの役人は自分の利害を中心に物事を考える人であったと考えることができます。だからこの裁判官は「相手を裁いて、自分を守ってほしい」と願い出たやもめの訴えをずっと無視するという態度を取ったのです。
②裁判官に勝ったやもめ
しかし、この裁判官も自分の態度を変えなければならない事態が生れます。裁判官はその理由について次のように語っています。
『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』(4〜5節)
この変化の理由は「やもめ」のとった行動が原因でした。なぜなら「やもめ」は自分の訴えを取り上げてくれない裁判官に対して、諦めてしまうことなく、訴え続けたからです。そしてこの「やもめ」の行動はやがて裁判官に恐怖心さえ与えるものとなったのです。裁判官は彼女がひっきりなしにやって来て、自分をさんざんな目にあわせるに違いないと確信したからです。この「さんざんな目」と言うギリシャ語の言葉は元々、ボクシングの用語で、顔にパンチを受けて目の下にクマが出来ている状態を指す言葉だと言います。
旧約聖書にはあるときヤコブという人物の前に神の使いが現れて、そのヤコブと格闘したと言う物語が記されています。このときヤコブは必死になって神の使いと格闘し続けました。神の使いが「いいかげんにしてほしい」と言っても、ヤコブは「自分を祝福してくださるまで決して離れない」とその手を緩めることがなかったのです。神の使いは結局、このヤコブに祝福を与えざるを得なかったのです(創世記32章23〜31節)。このヤコブが神の使いに勝利したように、ここのお話の「やもめ」は裁判官に勝利したと言えます。
3.祈りの答えは神の裁きの実現
主イエスは旧約聖書に登場したヤコブのように決して諦めることなく裁判官に願い続け、彼から答えを引き出したやもめの話を語った後、次のような言葉を語っています。
「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」(6〜7節)。
主イエスがこのたとえ話で教えようとされたことは、神がこの不正な裁判官と同じような方ではないと言うこと、私たちの祈りに耳を傾けずに、それをほうっておかれる方ではないと言うことです。だから私たちはこのお話を聞いて「神様は私たちが祈り続けないで、途中でやめてしまったら決してその祈りに答えてくださらない」と考えてはいけないのです。むしろ、神は私たちの祈りに最初から熱心に耳を傾けてくださる方だからです。
ただ、このお話で大切なことは「諦めないで祈り続ければあなたの願いは必ず聞かれる」と主イエスが言っているわけではないところです。ここで注目すべきは私たちの祈りの答えとして神が正しい裁きを行ってくださると主イエスが教えてくださっていることです。だからこのたとえ話に登場するやもめが求めたものも「正しい裁き」であったのです。つまり、私たちの祈りに対する神の答えは神の裁きが実現することだと主イエスは教えているのです。
このたとえ話が単純な「熱心に祈れば答えられる」と言うことではないのは、この神の答えにはっきりと表されています。その点で私たちは今日の聖書の箇所の最初の言葉に戻って、そこに書かれている言葉を正しく理解する必要があります。
「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」(1節)。
まず、この言葉は弟子たち、イエスを信じる者たちに語られた言葉です。そして主イエスから彼らが一番い願うべきこととして教えられていたことは「神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6章33節)と言うことだったのです。ですからこのたとえ話はそのような信仰者の「神の国と神の義」を求める祈りに神は必ず答えてくださることを教えるものだと言ってよいのです。そして神が私たちのために神の国と神の義を実現してくださるとき、私たちが抱え続けていた心の欠けはすべて満たされるとイエスは約束して下さっているのです。
4.神の忍耐に支えられる私たち
そして主イエスは今日のお話の最後で次のような言葉を語っています。
「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)。
ここで語られている「人の子が来るとき」とは主イエスがこの地上に再び来てくださり、私たちのために「神の国と神の義」を完全な形で実現してくださるときのことを語っています。その日は必ずやって来るのだから、私たちは気落ちすることなく祈り続ける信仰を持つようにと主イエスは勧めておられるのです。しかし、このお話から私たちはどちらかと言うと祈りの答えを自分が得るためには我慢、忍耐が必要だと考えてしまうではないでしょうか。そしてそれができない自分を責めたり、あるいはがっかりして、気を落としてしまうのではないでしょうか。ところが、聖書はやがて必ず実現する神の裁きの出来事を前にして、我慢し、忍耐しているのは私たちではなく、むしろ神ご自身であると教えているのです。そのことについて聖書はこのように語っています。
「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(二ペト3章9節)。
この聖書の言葉から考えて今日のたとえ話を読むと私たちは全く違った読み方ができるかも知れません。なぜなら、どんなことがあっても諦めずに私たちに働きけて、私たちを救いに導こうとされておられる方は神ご自身だからです。他の誰もが諦めたとしても神は私たちを諦めることはありません。むしろ一人でも多くの人が救われるために忍耐してくださっておられるのです。それなのに私たちは目の前の自分の利害だけを考えて、この神の働きかけを無視してしまって生きてしまっているのです。
私たちの祈りはまさに、私たちのために忍耐してくださる神の愛に答えるものだと考えることができます。だから私たちも諦める必要はないのです。なぜなら、私たちの神が諦めることをされないからです。だから、どんな出来事の中でも私たちは神に祈ることができるのだと主イエスは私たちに教えてくださったのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.主イエスは弟子たちに何を教えるために今日のこのたとえ話を語られたのでしょうか(1節)。
2.この町に住む裁判官はどのような人であったと主イエスは語っていますか(2、8節)
3.やもめは裁判官に対してどのような願いを語りましたか。この裁判官はそのやもめの願いに最初はどのような態度を取りましたか(4節)。
4.この裁判官が自分の態度を豹変させて「やもめのために裁判をしてやろう」と思った理由はどこにありましたか(4〜5節)。
5.主イエスはこの不正な裁判官にくらべて神はどのような方だと教えてくださいましたか(7節)。
6.主イエスは「人の子(救い主イエスを指す言葉)が来るとき」、地上の人々にどのような信仰を求めておられますか(8節)。
7.あなたはこの聖書のお話から「気を落とさずに絶えず祈る」ことができるためにどのような励ましを受けることができますか。