2022.10.2「信仰の量が足りないのか?」 YouTube
ルカによる福音書17章5〜10節(新P.142)
5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。
8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
1.信仰は怖いのか
先日、ある方とお話をしていて「宗教は怖い」という言葉を耳にしました。この言葉が語られた背景には最近、連日のように問題になっている韓国生まれのある宗教団体のことがありました。信者になった人たちが自己破産するまでその団体のために献金をさせられると言う問題が伝えられています。また、その犠牲者が当人だけにとどまるならまだよいのですが、何も知らないその人たちの子どもたちにも深刻な影響を与えていると言うのです。その方は「この問題の根本はこれらの人がその宗教を信じたところに原因がある」、「彼らが信仰を持ってしまったことがいけないのだ」と言うのです。確かに連日の報道を見ていると、まるで信仰を持つということが、詐欺に引っ掛けられたことと同じように取り扱われているようにも思えます。だからその方は「宗教は怖い」、「信仰は怖い」という言葉を口にしたのでしょう。
ロシアの作家のドストエフスキーはその小説の中で「もし神はいないと考えるなら、人間はどうなってしまうのか」という想定をして、自らの作品の中でその問題を取り上げています。その結果、ドストエフスキーは「神がいない」と想定することこそ人間にとって「怖ろしい」ことはないと主張したのです。たとえば「人を殺して何が悪いのか」と語る人間に対して「神がいなければ」その主張を覆す根拠がなくなってしまうと言うことになります。神を信じることができなければ、世界は尽きることのない人間のエゴを止めることもできずに、一直線に滅びへと向かうしかなくなるのです。
偽札を見破る秘訣は、本当の紙幣をよく知ることだと言われています。本物を知っていれば、どんなにそれが精巧に作られていても本物との明確な違いを見出すことができるからです。これは宗教においても同じだと考えることができます。私たちが聖書の言葉に基づいて、本当の信仰について理解しているならば、人をだまして支配するようなマインドコントロールを行うカルト集団の誤りを見抜くことができるようになるのです。私たちは今日も、聖書に記された主イエスの言葉から真の信仰とはいったいどのようなものなのか、また、私たちは信仰についてどんな誤解に陥りやすいのかを考えてみたいと思うのです。
2.合理的な信仰
信仰を誤解する人の中には「信仰とは何も考えずに言われたとおりに従うことだ」と思っている方がおられます。しかし、これは「信仰」というよりは「盲従」と言う言葉で表現される行為、「何も考えずに人のいいなりになること」と言うべきものです。しかし真の信仰は信じる対象を正しく認識することから始まると言えます。かつて活躍したオランダの改革派神学者の一人はキリスト教信仰の内容を解説した自分の著作の題名に「私たちの合理的信仰」と言いう名前を付けました。この「合理的」という言葉を案外私たちは「便利」というような意味で使っていますが、もともとは「理性に合う」つまり、自分で考えても納得がいくものだということを表す言葉です。
神は私たちが信じることができるようにと私たちに聖書を与えてくださいました。その聖書は私たちの理性を使って理解しなければならない書物であると言うことができます。私たちは自分の理性を使って聖書の言葉を理解し、私たちにとって神とはどのような方であるのかを知り、またその神と私たち人間の関係を正しく知ることができるようにされるのです。
ただ、信仰の理解は普通の勉強とは違うところがあることも確かなことです。聖書の内容を正しく理解することは知的な理解だけにとどまることではなく、私たちの生活を通して理解する必要があるからです。今日の聖書の箇所では主イエスは「つまずき」の問題や「人を許す」という問題を取り上げています。聖書の内容を頭で理解していても、それを生活で実績しない人がいればそれこそ「人をつまずかせる」ことになるはずです。また、人を許すことを神が求められていることを知りながらそれを行わないとしたら、その人は本当に神を信じているとは言えなくなります。神を信じるとは、その神に信頼して生きることを意味しているのです。そして私たちが神に信頼して、自らの生活で聖書のみ言葉に従っていくとき、私たちは聖書のみ言葉の本当の意味をさらに深く理解していくことできるようになるのです。そのような意味で、信じるとは神に従うことであり、私たちは従うことで神をさらに正しく知ることができるようにされるのです。
3.信仰が足りないのか?
①信仰を増してください
信仰についての誤解は聖書を最近読み始めた人だけにとどまるのではありません。長い間信仰生活を続けている私たちにも起こりがちなことだと言えます。今日の聖書箇所は使徒たちが「信仰を増してください」とイエスに願い出たことから始められています。主イエスはこの使徒たちの願いを聞いて「そうか、それならあなたがたの信仰を増やしてあげよう」とは言われませんでした。「そんなことはお前たち自身が修行を積んで手に入れるものだ」とも答えられていないのです。その代わりに主イエスは次のような言葉を語りました。
「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(6節)。
主イエスがここで語った「からし種」は最も小さな存在を表す言葉だと言えます。また、「桑の木」は何年もかけて少しずつ成長して大木となって行きます。主イエスは小さな信仰があれば、人間の目で見れば不可能と思われるようなことも可能とする力があるということをここで教えられているのです。だから信仰を増す必要はないのです。つまり、主イエスはここで使徒たちの願い自身に誤りがあるということを語ってくださったと考えることができるのです。
②自分たちの力の限界を感じた
そもそも、使徒たちはなぜここで主イエスに「信仰を増してください」と願わざるを得なかったのでしょうか。それはおそらく彼らが自分たちの信仰の限界を感じていたからだと考えることができます。信仰を知識だけで、自分の生活を通して実践しようとしない人は、そのような限界を感じることは決してありません。しかし、使徒たちはここまで何もかも捨てて、主イエスに従い生活を送ってきていました。そして主イエスの言葉に従うことは彼らにとって決して簡単なことではありませんでした。おそらく、彼らは主イエスの言葉に従うためには今の自分の力では不可能だという限界をこのとき感じていたのでしょう。だから、使徒たちはここで「自分たち信仰の力を増してください」と主イエスに願い出たと言えるのです。
ある聖書の解説者はこの使徒たちの願いと、直前に語られているイエスの勧めを結び付けて考えています。なぜなら、主イエスはご自分の弟子たちに対して、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(6〜7節)と勧められています。「仏の顔も三度」ということわざが日本にもあります。どんなに柔和で忍耐強い人であっても自分に対して同じ過ちを繰り返して犯してくる相手を許し続けることは困難です。おそらく、イエスの弟子たちも同じような気持ちになったのだと思います。「あなたの言葉に従うことは、私の力ではできません。だから信仰を増してください」。使徒たちはこのように考え、イエスに願い出たと考えることができるのです。
4.信仰は神からの賜物
①誰も誇ることはできない
それでは使徒たちの考えはどこに間違いがあったと言うのでしょうか。それは彼らが信仰を自分から出る力というように理解していところありました。現在でも、厳しい修行を積んで、不思議な力を手に入れたいと願う人がいます。それはある意味で「超能力」と呼べるようなものでしょうか。信仰を増せばその能力を手に入れることができると考える人がいるのです。しかし、私たちの信仰は超能力のようなものではありません。またその能力を受けるための手段でもないのです。なぜなら、聖書は私たちの信仰も神からいただく賜物であると教えているからです。
パウロはすでに主イエスを信じ、信仰生活を送ることができている人たちに次のような言葉を語っています。
「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(コリント一1章26〜28節)。
私たちが主イエスを信じたのは私たちに能力があったからではありません。神が私たちを選んでくださり、信仰を与えてくださったからです。だから私たちは主イエスを信じる者になることができたのです。だから、パウロは誰も「自分は立派な信仰を持っている」と神の前で誇ることはできないと教えているのです(同29節)。そしてこのことを私たちによく理解できるように語ってくださったのが、今日の聖書箇所の最後に記されている「僕と主人」のたとえ話だと考えることができるのです。
②私たちの信仰を通して働く神の力
僕は汗を流して一日畑で働いて主人の待つ家に帰って来ます。しかし、主人が今帰って来たばかりの僕を褒めて、「お前のために夕食を準備しておいた」などと言うことは決してありません。なぜなら、畑で一日働くことも主人の夕食を準備することも僕の行うべき当然の仕事だからです。
私はこの間、自分の車のワックスがけをしました。現在の中古車に乗り換えて初めてその車にワックスを塗ったのです。普段あまり体を動かすことに慣れていない私にとっては、それはかなりの重労働でした。私は汗を流し、息を切らしながらやっとの思いでその作業を終えることできました。その後、私は家内に何度、「ほら、この車。とてもきれいになっただろう?」と聞いたことでしょうか。家内は私に質問されるたびに「きれいになった」と答えざるを得なかったのです。人は自分が行った努力に対してふさわしい評価をしてほしいと考えます。そしてそれはある意味では当然なことであるとも言えます。
信仰が自分の能力であり、自分からでたものであるとしたら、私たちはそれも正しく評価してほしいと考えはずです。しかし、信仰は自分から出たものではありません。神が私たちに与えてくださった賜物なのです。だから、もしその信仰によって今まで不可能だと思われたことができたとしても、そのことで自分に相応しい評価を求めようとすることは間違いだと言えるのです。私たちが「自分のことを特別に扱ってほしい」と考えるのは、「それにふさわしい努力を自分はした」と考えているからなのです。そしてそれは僕が主人に「夕食の準備をしてほしい」と言うようなものだと主イエスは語られたのです。
このように信仰は私たちから出るものではありません。信仰は私に備わっている能力でもないのです。だから主イエスは私たちに「信仰を増してください」と願い出る必要はないと教えてくださったのです。なぜなら、神は私たちに信仰を与えて、ふさわしいときに、またふさわしい形でご自身の力を発揮してくださるからです。私たち信仰者は自分の持っている力を信じるのではなく、自分を通して働く神の力を信じて生きる者だと言えます。だから、たとえ私たちが主イエスの言葉を聞いて、その言葉に従うことにどんなに限界を感じたとしてもがっかりする必要はありません。むしろ私たちは私たちの信仰を通して働く神の力を信じて希望を持って生きていくことができるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.このとき使徒たちは主イエスにどのような願いを語りましたか(5節)。あなたも使徒たちと同じような願いを持ったことがありますか。
2.この使徒たちの願いに対して主イエスはどのような言葉を語られましたか(6節)。このお話から主イエスは使徒たちの願いをどう考えていたことが分かりますか。
3.主イエスのお話の中に登場する僕がもし、畑から帰って来た自分に対して主人は「すぐ来て食事の席につきなさい」と言ってくれるべきだと考えていたとしたら、なぜそれが間違いだと言えるのですか(7〜10節)。
4.このたとえ話に登場する僕が私たちだと考え、その主人が神だと考えるとしたら、そこにどのような真理があらわされていると言えるでしょうか。
5.もし私たちが自分の信仰生活に疲れを覚え、また信仰の弱さを感じているなら、この聖書の言葉から何を学ぶことができますか。