2022.10.23「祝福された祈り」 YouTube
ルカによる福音書18章9〜14節(新P.144)
9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
1.ファリサイ派の人と徴税人
①二人の人の祈り
今日も皆さんと共に聖書の御言葉に耳を傾けて行きたいと思います。今日の箇所にも先週と同じように主イエスの語られたたとえ話が記されています。さらに今日のたとえ話の主題も先週とおなじように祈りについての話題が取り上げられています。
先週のお話では「気を落とさずに絶えず祈りなさい」と言う勧めが主イエスから語られていました。私たちはどちらかというとすぐに祈ることを止めてしまう傾向があります。その原因は「神は私たちのような者の祈りなどに耳を傾けてくれない」という疑いを持っているからです。私たちはいつも自分の評価を低く見積もっていますから、そんな自分の祈りを神が聞いてくれるはずはないと思い込んでしまうのです。しかし、神の私たちに対する見方は私たちの自己評価とは全く違っています。その証拠に神は私たちを救うために御子イエスを遣わしてくださったからです。私たちを御子の命に代えてまで救おうとされる方が、私たちの祈りに耳を傾けず、無視されることなど決してありません。神は私たちを諦めることはありません。神は私たちの祈りの声が自分に向けられることをずっと待ってくださっているのです。だから私たちの祈りはこの忍耐深い神の愛に支えられていることを私たちは覚える必要があるのです。
今日のたとえ話では同じ祈りの主題が取り上げられていますが、どちらかと言うと今度の話は祈りの内容について教えていると考えることができます。このたとえ話の中では二人の人が神殿に上って、神に祈りをささげています。一方のファリサイ派の人は堂々とした態度で、そして饒舌に祈りの言葉を語っています。しかし、もう一方の徴税人は目を天に上げようともせず、自分の胸を打ち叩きながらやっとの思いで一言「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったと言のです。この二人の祈りはとても対照的です。主イエスはこの二人の祈りを取り上げて、私たちに何を教えようとされているのでしょうか。私たちはこの時間、このたとえ話から私たちのささげる祈りについて反省を込めて考え直してみたいと思います。
②徴税人の祈りから学べ
最初に主イエスはなぜこのたとえ話を語ったのか。その動機について聖書は次のような言葉を記しています。
「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された」(8節)。
ここに「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」と語られています。ということはまさにこのたとえ話に登場するファリサイ派の人がその典型であると言えるかも知れません。つまり、このたとえ話の主人公はファリサイ派の人であり、徴税人はそのファリサイ派の人の誤りを示す役割を果たすためにここに登場していると考えることができます。
しかし、その一方で私たちキリスト教会はこの徴税人の祈りをとても大切なものと考えて来ました。なぜなら、主イエスが語られるようにこの徴税人の祈りこそ、神に受け入れられる正しい祈りの模範と考えられて来たからです。ですから、私たちも正しい祈りについてこの徴税人のささげた祈りから学び、またファリサイ派の人がささげた祈りのようにならないように用心することが大切であると言えます。
2.ファリサイ派の人の独り言
①律法を研究し、生活に適応させていた人たち
ところでこのたとえ話に登場するファリサイ派の人々とはいったいどういう人のことなのでしょうか。このファリサイ派の人々は救い主イエスの歩みを私たちに紹介する福音書に度々登場する人々です。福音書の中で彼らの大半は主イエスの敵として登場し、遂には主イエスを十字架にかけるという計画を実行した人々の一部とされています。しかし、だからと言って彼らは根っからの悪人であると言う訳ではありません。むしろ、彼らは聖書に記された神の掟、律法を熱心に守ることで神に従う生活を送っていた人々であったと言えるのです。
イエスの活躍された時代、ユダヤの国には大きく分けてこのファリサイ派ともう一つサドカイ派という二つの宗教のグループが存在していました。サドカイ派は神殿で働く祭司たちが中心となって形成されたグループで、神殿でささげられる儀式こそが神に従うために最も大切であると主張していました。
一方のファリサイ派はこのサドカイ派の人々よりももっと広範囲な人が所属するグループでした。彼らは日常の生活の中で神から与えられた律法を熱心に守ることが神に従う生活として最も大切だと考えた人々です。エルサレムの神殿は紀元70年にローマ軍によって徹底的に破壊されてしまい、そしてその後、神殿は再建されることはありませんでした。ですから、サドカイ派と言うグループはこの神殿が破壊された後に共に消滅してしまいました。しかし神殿よりも律法に従う生活を重んじたファリサイ派はその後も存続し、現在私たちが「ユダヤ教徒」と呼んでいる人々はすべてこのファリサイ派の後継者たちと考えることができます。
福音書の中には「律法学者」と言う存在も登場しますが、この律法学者のほとんどはファリサイ派に属していた人々でした。ファリサイ派は聖書に書かれていた律法を解釈し、自分たちの生活にその律法をどのように適応すべきかを研究していたからです。聖書に書かれている律法はいつの時代も変わることがありません。しかし、それに従う人間の生活は時代と共に移り変わっていきます。そうなると、その新しい生活の中で古い時代に記された律法をどのように守るのか…それを考え解釈したのが「律法学者」と呼ばれる人々でした。ファイリサ派の人々はその律法学者の見解を学んで、自分の生活で律法を厳格に守ろうとしたのです。
昔、私の友人が日本に建てられているユダヤ教のシナゴーグ(教会堂)を訪問して、その礼拝を見学した話を聞いたことがあります。ユダヤ教のラビはそのとき英語でお話をしていたらしいのです。友人がその話をメモしようとボールペンを握ろうとしたとき、そこに礼拝係の人が近づいて「安息日に労働はやめてください」と注意されたと言うのです。このようにファリサイ派の信仰生活は私たちの信仰生活とはだいぶ違っています。しかし、主イエスがこのお話で問題にするのはそのような律法の解釈ではなく、最初に行ったように「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している」と言うところにありました。ですから、ファリサイ派の信仰生活には無縁な私たちであっても、同じような過ちを犯している可能性は生まれるはずなのです。
②神の助けを必要としない人の祈り?
主イエスが指摘されたこのような態度はファリサイ派の人がささげた祈りの言葉の中に明確に現れています。主イエスによれば彼は次のように祈ったと言うのです。
「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」(11〜12節)。
彼はこともあろうに自分の正しさを証明するためにその祈りの中に「徴税人」を登場させています。ここにファリサイ派の人の生き方の特徴が現れています。彼は他人の失敗を見て、「自分はあの人よりましだ」と安心している人の典型です。私たちはどうでしょうか。私たちも他人の失敗を見て、「あの人もこんな失敗をするのか」と安心することはないでしょうか。そう考えている人はむしろ他人が成功する姿を見てがっかりしてしまうことが起こります。「自分は彼のようにうまくできない」と考えてしまうからです。もし私たちが他人の失敗を見て安心し、むしろその人の成功を心から喜べないとしたら、自分もこのファリサイ派の人と同じ過ちを犯していることに気づく必要があります。
そもそも、このファリサイ派の人の祈りは本当に祈りと言えるのでしょうか。彼は自分の正しさを証明するために徴税人を利用しています。そして彼の祈りは自分の優れた点を取り上げて語る自慢話でしかないと言えるのではないでしょうか。その証拠に彼は自分の祈りの中で神の助けを求めていません。むしろ「自分の生活には神の出番など存在しない」と言うことを語っているようにも聞こえるのです。
先週のたとえ話に登場するのやもめは必死になって裁判官に訴え続けました。そうしなければ自分は生きていけないと考えたからです。たとえ不正な裁判官であっても彼に助けてもらえなければ、やもめはどうにもならなかったのです。しかし、このファリサイ派の人の祈りは全く違います。彼は「自分には神の助けなど必要ない」と言えるような確かな自信を彼は持っているようです。だからこれは神にささげられた「祈り」ではなく、彼の語った「独り言」と言った方がよいかも知れません。だからこの祈りが神に受け入れることはありませんでした。なぜなら、彼自身が神の答えを必要としてはいなかったからです。
3.徴税人の叫び
①ローマ帝国に仕えた徴税人
さて、このたとえ話のもう一方の登場人物である徴税人について考えて見ましょう。この徴税人は当時、ユダヤを植民地として支配していたローマ帝国に仕える下級役人でした。徴税人はユダヤ人の中から選ばれて、同じユダヤ人の同胞から税金を徴収して、ローマに納める仕事をしていたのです。ところが当時、ローマ政府はこの徴税人に賃金を払うことはありませんでした。ですから徴税人たちはローマに納める税金分とは別に、自分への手数料をその税金に上乗せして人々から税金を集めていたのです。当然、その上乗せ分を増額すれば彼らの財産は豊かになります。しかし、それは一方で同胞であるユダヤ人の反感を買う方法でもありました。次回の礼拝で私たちはこの徴税人の一人のザアカイと言う人物を取り上げる予定です。このザアカイが金持ちであったのに人々から好意的に思われていなかった理由はこの当時の徴税人の税金の徴収方法にありました。
ローマの武力を背景にその支配に甘んじていたファリサイ派の人々は「自分の心や信仰は決してローマに従うことはない」と考えていましたから、その彼らにとって徴税人は憎むべき敵対者であり、神に背く大罪人と考えられていたのです。
②神に近づく者の祈り
この徴税人の神殿での姿と祈りの内容を主イエスは次のように語っています。
「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」(13節)
この徴税人の祈りの特徴は自分が「罪人」であると認めているとこにあります。それは彼がおそらく神殿の遥か後ろの方に立って、目を天に上げようともしなかった姿にも明確に表されています。なぜなら、聖書の語る「罪人」とは神に相応しくない者を表す言葉だからです。徴税人は自分が神の前に出る資格を持たない存在であることを自覚していたのです。この点で先ほどのファリサイ派の人とは全く違っています。ファリサイ派の祈りの中には自分が罪人であるという告白は全くありません。むしろ彼は自分こそ神に相応しい人物だと言う、恐ろしいほどの確信を持っていたのです。
先日、カトリック教会のローマ教皇が語った祈りについての短い談話を読みました。そこで教皇が「祈りはその人と神との距離を表すものだ」と語っていたことに興味を持ちました。なぜなら、この定義を今日のお話に当てはめれば、神に近づくことができたのはファリサイ派の人ではなく、徴税人だと考えることができるからです。主イエスもこのお話の結論で「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」(14節)と語っておられるからです。
③私たちの心を照らす聖霊なる神
実は聖書を読むと私たち人間は自分が罪人であるということさえ、そのままでは自覚できない存在であることが分かります。神を知らない人は精々、他人と自分を比べることで「自分の方がまだましだ」とか考えて、安心しています。しかし、聖書を読み、神に心を向ける人は違います。なぜなら、その人は自分がそのままでは神に相応しくない「罪人」であると言う自覚を持つようになるからです。それはなぜでしょうか。まず、聖書が教える律法が私たちの本当の姿を教える測りとなるからです。人間の行動や基準はよく変わります。しかし、聖書の教える律法は決して変わることがありません。その律法に照らして考えるなら誰も自分が神の助けを必要としている「罪人」であることを知ることができるのです。しかし、律法であるならばファリサイ派の人々も確かに知っていたはずです。だからこの徴税人に比べて少なくともファリサイ派の人の方が自分の本当の姿を理解するチャンスを持っていたのです。
実は徴税人の心を照らして自分は「罪人」であるという自覚を与え、神に助けを求めるようにさせたのは神ご自身の御業、徴税人に聖霊なる神が働いた結果なのです。どんなに聖書の知識に長けていてもこの聖霊がその人の心を照らしてくださらなければ、その人は自分が「罪人」であることさえ分からないのです。ですからもし、私たちが聖書を読み、その言葉から「自分は神の助けを必要としている罪人だ」と思えるならば、それは幸いなことであると言えます。なぜなら、その罪認識は、その人の中に既に聖霊なる神が遣わされ、その人の心を照らして下さってた証拠と考えることができるからです。
この聖霊は私たちがそのままでは滅ぼされるしかない「罪人」であると言うことを知らせるだけではありません。なぜなら聖霊はその人のために神が主イエスを遣わしてくださったことを信じるようもされるからです。ですから、聖霊の力によって真の罪の告白をする者は必ずその聖霊によって主イエス・キリストへ導かれることができるのです。このような意味で徴税人の祈りは私たちの模範であると同時、神に愛され、神の救いにあずかる者だけが祈れる祈りであるとも考えることができるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.このたとえ話は主イエスによってどんな人のために語られたものですか(9節)。
2.ファリサイ派の人はどのような態度で、何を祈りましたか(11〜12節)。彼が「自分を正しいとうぬぼれて、他人を見くだしていた」と言う証拠はこの祈りのどこにあらわされていますか。
3.徴税人はどのような態度で、何と神に祈りましたか(13節)。この祈りがファリサイ派の人の祈りと違う点はどこにありますか。
4.この二人のうちで「義とされて家に帰った」のはどちらの人ですか(14節)。あなたのささげる祈りはこの二人の内のどちらに似ていると思いますか。