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2022.10.30「今日、救いがこの家に」 YouTube

ルカによる福音書19章1〜10節(新P.146)

1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。

2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。

3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。

4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。

5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」

8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」

9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。

10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」


1.嫌われ者ザアカイ

 今日も皆さんと共に聖書の御言葉から学んで行きたいと思います。今日の聖書箇所では主イエスに出会うことでその人生を全く変えられた一人の人物が登場しています。その人の名前はザアカイです。子どものために作られた讃美歌の中にはこのザアカイの名前が登場する歌があります。「ザアカイ、ザアカイ、降りなさい」と言う歌詞で始まる歌で、いちじく桑の木に登ったザアカイに主イエスが呼びかける言葉がそのまま歌詞となっているのです。この物語はとても印象的な筋書きで出来ていて、私は今まで何度もこのお話を子どもたちや教会の礼拝でお話したことがあります。背の低かったザアカイと言う人物が主イエスを見るために木に登ると言う物語は大変ユーモラスでもあり、聞いている人の心に残る物語となっています。

 この物語に登場するザアカイは「徴税人の頭で、金持ちであった」(2節)と語られています。さらに聖書は彼の身体的な特徴まで書き記しています。彼は「背が低かった」と言うのです(3節)。私はどちらかというと背が高い方の部類に入るので、背の低い人の気持ちがあまりよくわかりませんが、背が低くて、いつも他人から見下ろされるというのはあまりいい気持ではないと思います。昔、マジックシューズと言う商品が雑誌などで紹介されていたことがあります。背の低いことを悩む人がそのコンプレックスを解消するために履く靴で、それを使えば背の低い人の伸長を高く見せることができると言うものです。どこかの国の独裁者はこの靴を愛用していたと言う話を以前聞いたことがあります。聖書には詳しく語られていませんが、ニコデモの背が低かったことが、もしかしたら彼の今までの生き方に何らかの影響を与えていたとも考えることもできます。

 先日の礼拝で徴税人について既に説明しました。徴税人はローマ帝国に仕える下級役人でローマに納める税金を代行して人々から徴収する役目を持っていました。しかも、彼らは徴収する税金に自分たちの手数料を上乗せして集めていたので、人々のからの評判は決して好ましいものではありませんでした。この物語に登場するニコデモはその「徴税人の頭」と言われいますから、徴税人たちをまとめる立場にある人物で、町の人々からは「悪者たちの親玉」と考えられていたはずです。彼が持っていた巨額の財産はすべて「自分たちか奪い取ったものだ」と人々から考えられていたはずですから、彼が嫌われるのも無理はありません。


2.木に登ったザアカイ

①主イエスの姿を一目見たい

 さて、この物語はザアカイの住む町エリコに主イエスが来られるところから始まります。ルカによる福音書はこれまで主イエスのエルサレムへの旅の過程を詳しく記録して来ました(9章51節以降)。そしてこの物語はその終着点であるエルサレムの町に主イエスが入る、直前に起こった出来事を記録しています。

 このとき主イエスが自分の住む町にやってくると言うニュースを聞きつけたザアカイは「主イエスの姿を一目見たい」と考えました。日本語の聖書には「見る」と言う言葉が何度も繰り返し登場しています。この言葉はギリシャ語原語ではとても強い意味を持っていて直訳すると「見るために捜した」となるようです。なぜ、ニコデモは主イエスを見たいと言う願いを持ったのかは詳しく記されていません。おそらく彼が抱いた主イエスへの好奇心がその原因であったのかも知れません。なぜなら当時の神について教える律法の教師たちと主イエスの生き方はかなり違っていたからです。律法の教師は神の掟に従わない人々を「罪人」と呼んで毛嫌いし、自分にその汚れが移らないようにと考えて、積極的にその人たちと関係を持つことをしませんでした。しかし、主イエスは違います。主イエスは人々から「罪人」と蔑まれ、嫌われている人のところを訪ねて行って、彼らと親しい交わりを持ちました。それだけではありません。主イエスに従う弟子たちの中には以前はザアカイと同じように徴税人であった者さえいたのです。おそらくそのことをうわさで聞いていたニコデモは主イエスに対して強い関心を抱いたのかもしれません。


②遮られて見えない

 ところがここで大きな問題が起こります。背の低いザアカイはすでに同じように主イエスを一目見ようとして集まって来ていた群衆に遮られて、主イエスを見ることが出来なかったからです。普通であればこの場合、「ちょとすみません」と言いながら前に立つ人々の間をかき分けて、少しでも主イエスが見える場所に出たいと考えるはずです。しかし、ニコデモはその方法を取りませんでした。それは彼の背が人に比べてかなり低くかったせいもあると思います。しかし、それ以上に彼が主イエスを見ようとすることを、そこに集まった群衆たちが許すとは思えなかったからと言う理由も想像できます。おそらく「税金」と言う名前で人々からかなりの金を奪い取っていたザアカイは町の人のほとんどから憎まれていたはずです。だから、彼は町の人々と衝突するのを避けて、そこに生えていたいちじく桑の木を見つけて、その木に登ろうとしたのです。

 もしかしたら、木に登ると言う行動はニコデモのこれまでの生き方を象徴するものであったのかも知れません。なぜなら、背が低いことで悩んでいたザアカイは今まで「少しでも人々よりも自分が高い位置に立ちたい」と考えて来たからです。だから彼は徴税人の頭まで上り詰め、たくさんの財産を得ると言う道を選んで来たのです。しかしその結果、ニコデモは町の人々すべてから憎まれる存在となり、孤独という代償を払わなければならなかったのです。


3.ザアカイを探していたイエス

 さていちじく桑の木に登って主イエスがその木の下を通り過ぎることを待ったザアカイはこの後、大変な出来事を体験しています。なぜなら、主イエスがザアカイの登っている木の下で立ち止まり、その木の上を見上げてザアカイに次のように語りかけたからです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)。このように主イエスはわざわざザアカイの名前を呼んでくださっています。どうして主イエスは既にザアカイの存在を知っていたのか、そして木の上にいる人がザアカイだとなぜ分かったのかとても不思議です。しかし、先ほどの主イエスの語られた言葉をもっとギリシャ語の原文に忠実に訳せば「今日、あなたの家に泊まらなければならない」、また「今日、あなたの家に泊まる予定になっている」となります。主イエスの言葉の中にはザアカイの存在が神の計画の中にあり、この出会いもその計画に従うものであったことが示されているのです。

 私たちは神の計画などと言うと自分とは縁のないものだと考えるかも知れません。しかし、神はこの世界のために正しい計画を持っておられます。そして、その計画の中では私たち一人一人の存在も含まれているのです。さらに神の計画の中で私たちはそれぞれに相応しい役目が与えられています。この神の計画の中でザアカイには主イエスを家に泊めると言う大切な役目が与えられていました。人々から「罪人」と罵られて「この世には必要ない、いえ、ザアカイがいなくなった方が自分たちは幸せになれる…」そう思われていたザアカイを神はその大切な計画を担う役目を果たす人物として選んでくださっていたのです。

 どんなに豊かな財産を持っていても、その存在を必要とされていないと言うことは人間に耐えがたい苦痛で与えると言えます。あるところに立派な造り酒屋を営む若主人がいました。その酒屋には優秀な使用人が何人も働いていて、すべての仕事を主人に代わって行うことできました。だから主人が何かの仕事をしようとすると使用人たちはすぐに飛んで来て「それは私たちがしますので、若旦那はそこで座っていてください」と言われてしまうのです。結局、その若主人は「自分の存在はここでは必要とされていない…」と悩みだし、その悩みを紛らわすために酒を飲んで、最後にはアル中患者になってしまったと言うのです。

 年老いて、認知もままならなくなった親に対して、子どもたちが「危ないから」とすべての仕事を取り上げてしまい、さらに認知症の症状が進ませてしまったと言う話を聞いたことがあります。人は自分の役割がなくなってしまうことを耐えがたく感じるのです。私たちが抱く加齢の恐怖の中には「年老いて、誰からも自分の存在が必要とされなくなったらどうしよう…」と言うものがあるはずです。

 しかし、神の計画の中での私たちの役割は決して変わることはありません。さらに私たちの地上の命がまだ残されているということは、この世での大切な役割がまだ終わっていないと言うことを意味しているとも考えることができます。なぜなら私たちはそれぞれに与えられた大切な役割を果たすために今日も神によって生かされているからです。


4.変えられたザアカイ

①主イエスの愛に包まれる

 さてザアカイは「急いで降りて来なさい」と言う主イエスの呼びかけに従って、いちじく桑の木から降り、主イエスを自分の家のゲストとしてお迎えします。すると今度はザアカイ自身の人生に大きな変化が起こったことを聖書は告げています。なぜなら、ザアカイは主イエスに次のように語ったからです。

「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(8節)

 人は簡単にそれまでの生き方を変えることはできません。たとえ、その生き方がいずれは不幸な結果に行き着くことが分かっていても、簡単に改めることはできないのです。それは他人からその過ちを指摘されても同じです。私たちはむしろ必死になって自分のこれまでの生き方を守ろうとするのです。

 イソップ童話に「北風と太陽」という有名な話があります。旅人の来ているコートをどちらが早く脱がせることができるかを北風と太陽が勝負したと言うお話です。北風は思いっきり冷たい風を旅人に浴びせてそのコートを吹き飛ばそうとします。しかし、旅人は必死になって自分のコートが吹き飛ばされないようにと守り続けます。ところが太陽の方法は違いました。旅人に向かって暖かな日差しを照らして、コートなど必要ないような状況を作りだすことで、旅人が自らコートを脱ぐことができるようにしたからです。

 主イエスの取った方法はこの太陽の方法と似ています。主イエスはニコデモに何か指示したり、命令することはありませんでした。むしろ主イエスはニコデモをそのままで受け入れて、豊かな愛で彼を包んでくださったのです。ニコデモは自分が必死に貯めて来た財産をすべて捨てた訳ではありません。しかし、主イエスの愛で包まれたニコデモはその財産の大部分は自分の生活に不必要であり、むしろ貧しい人のために使った方がよいことに気づいたのです。

 このように主イエスの愛は私たちの人生を変えることができるのです。主イエスは私たち一人一人をそのままで受け入れ、その愛で私たちを包んでくださいます。そして私たちがいままで握り締めていたものが不必要であることを教え、新しい生き方に送る力を与えてくださるのです。


②今日、救いがこの家に訪れた

 最後に主イエスは次のように語ります。

「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(9〜10節)

 この言葉から分かるように主イエスを見ようとして必死になっていちじく桑の木に登ったザアカイを捜していたのは主イエスの方であったのです。私たちは自分の方が神を捜しているように勘違いしているところがあります。しかし本当に捜してくださっているのは主イエスの方であると言うことをこの聖書の言葉は示しているのです。

 ここで主イエスは「今日」と言う言葉を語っています。この言葉は昨日、今日、明日と言った単なる時間の経過を示す言葉ではありません。私たちにとって「今日」と言う日がとても大切であることを意味する言葉になっています。なぜなら、今日、私たちはこの聖書の言葉を通してザアカイと同じように主イエスと出会うことができるからです。聖書に書かれている出来事が単なる昔話を伝える物語ではなく、今日、私たちの人生に実際に起こっている出来事して受け止めることはとても大切なことです。なぜなら、そのように信じる者の上に主イエスは聖霊を遣わしてくださり、ザアカイにしたように私たちをその愛で包んでくださるからです。そしてその主イエスとの出会いによって、私たちの人生も変わるのです。だから使徒パウロはコリントの第二の手紙の中で次のような言葉を使って、私たちに「今日」、そして「今」が大切なことを教えているのです。

「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(6章2節)。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスがエリコの町を通っておられたとき、そこに住むザアカイは何をしようと考えましたか。また、聖書はこのザアカイの身の上についてどんなことを記していますか(1〜2節)。

2.ザアカイがエリコの町を通りすぎる主イエスを見ようと考えたとき、どんな障害が起こりましたか。彼はその問題をどのように解決しようとしましたか(3〜4節)。

3.イエスはザアカイが登っているいちじく桑の場所に来た時、何をし、どんな言葉を彼に語りましたか(5節)。

4.ザアカイが主イエスを自分の家に迎えた姿を見た人たちはどんなことをつぶやきましたか(7節)。

5.ザアカイは自分の家に来てくださった主イエスに何を言いましたか。この言葉はザアカイの人生に起こったどのような変化を表していると考えることができますか(8節)。

6.「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言うイエスの言葉は、このザアカイの物語のどのような真相を私たちに教えていますか(9〜10節)

2022.10.30「今日、救いがこの家に」