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2022.10.9「まことの信仰」 YouTube

マタイによる福音書16章15〜17節(新P.32)

15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。

17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。


ハイデルベルク信仰問答書

問20 それでは、すべての人が、アダムを通して堕落したのと同様に、キリストを通して救われるのですか。

答 いいえ、まことの信仰によってこの方と結び合わされ、そのすべての恵みを受け入れる人だけが救われるのです。

問21 まことの信仰とは何ですか。

答 それは、神が御言葉においてわたしたちに啓示されたことのすべてをわたしが真実であると確信する、その確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる心からの信頼のことでもあります。それによって、他の人々のみならずこのわたしにも、罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられるのです。それは全く恵みにより、ただキリストの功績によるものです。


1.誰が救われるのか

 今日も皆さんと共に改革派教会の信仰的遺産と言われるハイデルベルク信仰問答からキリスト教の基本的な教理を学びます。この信仰問答はこれまで、私たちすべての人間には救いが必要であることを教えて来ました。なぜなら、私たちが人生で抱えるすべて問題の原因は、私たちが考えているよりも深刻で、根深いものだからです。それは私たちが自分の生活を多少改善させたとしても解決できないものです。なぜなら、その原因は私たち人間の先祖である最初の人間に起源を持っているからです。聖書は神に造られた最初の人間が神との約束を破った結果、すべての人間が悲惨な罪の状態に陥っていると教えています。そしてこの問題を解決する力を私たち人間は誰も持っていないとも語っているのです。そこで信仰問答は神から遣わされた救い主の存在を私たちに教えます。その救い主の御業によって、人類が抱え続けて来た問題が根本的に解決され、私たち人間と神との関係が回復されたことを教えているのです。

 さて、その上でこの信仰問答の問20はこの救い主によって実現された救いには誰があずかることができるのかと言う問い取り上げています。すべての人間が最初の人間のせいで罪の悲惨の状態に陥ったのですから、同じように救い主イエスの御業によってすべての人が救われるのかと尋ねているのです。そしてこの信仰問答はその問いに対して「いいえ」と答えています。なぜなら、この救い主の御業に私たちがあずかるためには「信仰」が必要だからです。

 このことについて信仰問答は「まことの信仰によってこの方と結び合わされ、そのすべての恵みを受け入れる人だけが救われるのです」(問20)と語っています。主イエスは聖書の中で「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15章5節)と語っておられます。信仰によって私たちが主イエスとの命のつながりを持つようになるとき、主イエスから救いのすべての祝福が私たちに流れ出て、私たちはその祝福によって豊かな実を結ぶことができるようになるのです。ですから「信仰」とは救い主と私たちとを結ぶものであると言えるのです。救い主から救いの恵みを受け取るためには信仰が必要不可欠なものとなって来るのです。この信仰がなければ、救い主がどんなにすばらしいことをしてくださったとしても、それは自分の人生とは全く関りのないものになってしまうのです。

 宗教改革の時代、当時のカトリック教会は「教会で洗礼を受けた者が、また教会のミサ(聖餐式)にあずかるものが救われる」と教えました」。確かに、洗礼や聖餐式は私たちの信仰を表し、その信仰を強めるものとして主イエスが定めてくださった教会の礼典であると言えます。しかし肝心の信仰がなければ、いくら洗礼を受けていて、教会の聖餐式にあずかっていても、それだけでは救いを受けることはできません。宗教改革者によって記されたハイデルベルク信仰問答はだからここで私たちが救いを受けるために「信仰」が必要であるということを強調しているのです。


2.まことの信仰とは何か

①自分を見つめることでは救われない

 それではそもそも聖書が教える「信仰」とはどのようなものなのでしょうか。信仰問答はここでわざわざそれを「まことの信仰」と「まこと」と言う言葉を付け加えて私たちに紹介しています。この世には「信仰」と名の付くものがたくさん存在しています。しかし、信仰問答は私たちが救い主から救いの恵みを受けるためにはどんな信仰でも良いとは教えません。「まことの信仰」が必要であると教えているのです。

 私が最初にキリスト教会に行った頃のことです。私はそれまでの思い通りにいかない自分の人生に絶望して、何とかそこから抜け出して新しい人生を歩みたいと考えていました。そのためにはどうしたらよいのか、いろいろな本を読んで見るのですが、答えは一向に見つかりませんでした。あるとき、教会の本棚に「どうしたら新生できるのか」と言う題名の本を見つけて、それを一生懸命に読みました。しかし結局、私にはその本が何を言っているのかよく分からなかったのです。なぜなら当時の私は生まれ変わるためには自分が何か特別なことをしなければならないと思っていたからです。しかしその本には人間は自分の力では生まれ変わることはできないと語られていたのです。その本を期待して読んだ、私はそれでがっかりしてしまいました。私はその本が教える救い主を信じることだけがその人が新しく生まれ変わる道だと言うことをさっぱり理解できなかったのです。

 聖書は「私たち人間は完全に堕落している」と教えています。だからその人間が自分を鍛錬し、修行を重ねても人間の内側からはよいものは何も出てこないと言うのです。そのため聖書は私たちが救われるためには私たちの内側を見つめるのではなく、自分の外側を見ることを教えているのです。「神が御言葉においてわたしたちに啓示されたこと」(問21)と信仰問答が言っていることはこのことです。私たちが救われるために大切なのは自分を見つめたり、何かの修行をすることではありません。私の外側、つまり神が私たちに与えてくださった聖書の言葉に私たちの関心を向けることです。なぜなら神は聖書を通して私たちに救いの道を示してくださったからです。


②確かな認識と心からの信頼

 ハイデルベルク信仰問答の問21 は「まことの信仰」とはこの神の啓示である聖書の言葉に対して「わたしが真実であると確信する、その確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる心からの信頼のことでもあります」と説明しています。

 以前にもお話しましたが、私がキリスト教の信仰に入るきっかけとなったのは、ラジオを通して流れるキリスト教の伝道番組に巡り合ったからです。私はその番組を聞いて、キリスト教の教えに関心を持つようになりました。そこで、私はその番組が紹介していたキリスト教通信講座を申し込んだのです。その通信講座では毎回、家に届くテキストを読んで、解答用紙に答えを書いて教会に送り返すことになっていました。ところがこの通信講座が他のものと違う点は、私の答案を採点した牧師がそれを持って私の家に直接に訪ねて来るところです。そして、その牧師は私の書いた答えのどこが正しくて、またどこが間違っているかをくわしく教えてくれるのです。当時はインターネットなどない時代でしたが、今考えてみると私は自分の家にいながら詳しく聖書を学ぶことができるとても贅沢な通信講座を受けていたことになります。

 私がこの学びの中で覚えているのは、「救い主イエスは誰のために十字架にかかって死んでくださったのか」と言う問いに対する答えについてです。私はテキストを読んで「それは罪人である私たちすべての人間を救うためです」と答案に書いて返送しました。するとその後、答案を採点した牧師が私の家にやって来て、「櫻井君、この答えではマルはあげられない」と言うのです。私はテキストをちゃんと読んで書いたのにどこが間違っているのかなとそのとき思いました。そんな私に牧師はこういったのです。「君は、本当に自分の罪のためにイエスさまが十字架にかかって死んでくださったと信じて答えを書いたの?」と問い返して来たのです。

 私たちは聖書の教えを正しく読んで理解する必要があります。しかし、大切なことは私たちが聖書に書かれたことが確かな事実であることを認めることです。しかも、その事実は他の誰かのためではなく自分の人生を変える大切な真理であることを認めることです。

 私が子どもの頃、第二次大戦が終わってすでに何十年も経っていたのに、南の島のジャングルに隠れていた日本兵が見つかったと言うニュースが人々を驚かせました。日本兵がジャングルに隠れていると言うことはだいぶ前から知られていましが、彼らに色々な手段で「戦争はすでに終わって」と伝えても彼らはその姿を一向にジャングルから現わさすことはありませんでした。結局彼らは、自分からではなく、誰かに見つけられてジャングルから連れ出されることになりました。後でわかったことですが、彼らも戦争が終わったというニュースをすでにずっと昔に知っていたと言うのです。しかし、彼らはそのニュースを知っていたのに、それを真実だと認めることができませんでした。だから、「敵に捕らえられた大変だ」と恐れて、ジャングルから外にでることができなかったのです。結局、彼らが日本に帰ってくるまで何十年もの歳月が流れてしまっていたのです。その間、彼らはジャングルの中で孤独で苦しい毎日を送らなければならなかったのです。

 これは信仰についても同じことが言えます。聖書は救い主イエスによって私たちの救いが実現したことを教えています。しかし、それを知るだけでは意味がありません。大切なことはこの教えを私にとって事実であると認めることです。また、それだけではなくその教えに信頼することが必要です。つまり、罪の奴隷のような生活を送る「ジャングル」のような生活から私たちは福音を信じて、一歩踏み出して、救い主イエスに従う生活を始めるのです。そのとき私たちの人生は全く新し歩みを始めることになります。だから私たちにとって信じることを躊躇することは、信じることができずに大切な人生の時間をジャングルの中で送ることになった不幸な日本兵と同じだと言えるのです。

 信仰問答は私たちが信じるならば「罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられるのです」と語ります。私たちは信仰によって罪の奴隷なっていた古い人生から解放され、神との関係を回復し、その神が祝福してくださる人生を始めることができるのです。


3.私たちの信仰の根拠は神にある

 さて、この信仰問答が「信仰」について最後に「それは全く恵みにより、ただキリストの功績によるものです」と教えています。「恵み」と言う言葉は神から無償で与えられるものと言う意味を持っています。このように私たちの「信仰」の根拠は私ではなく神にあると信仰問答は語ります。人間は不完全であり、その業も確かなものではありません。私たちの信仰の根拠が私たちの側にあるとしたらこれほど不確かなことはないと言えるのです。そしてもし、信仰が私の力、努力によるものならば、私たちが明日も同じように同じような信仰を持っているのかどうかどこにも保証はなくなるはずです。

 私は21歳の時に教会に通って、洗礼を受けて信仰生活を始めました。そのとき私のことをよく知る高校時代の友人たちは「今度はどのくらい続くかな」と私の信仰生活に疑問を投げかけました。彼らは私が昔から三日坊主で、熱しやすく冷めやすい人間であることを彼らはよく知っていたからです。おまけに私は高校時代、共産主義者でキリスト教を信じる同級生の信仰を攻撃していました。そんな私が突然にキリスト教徒になったのですから、友人たちは私の変化を信じることができなかったのです。そのとき私もその友人たちの言葉を聞いて不安を感じたことを思い出します。自分の今までの経験から言えば、彼らの言うことは正しかったからです。しかし、聖書は私たちが救われるのは神の恵みによるものと教えています。つまり、私たちの信仰の根拠は私たちの内側に見いだされるものではないのです。私たちに聖書の言葉を与えてくださった神は、その言葉を私たちが正しく理解することができるようにしてくださいました。そればかりではありません。私のために聖霊を遣わしてその言葉を信頼することができるようにしてくださったのです。私たちの信仰は常に変化する私たちの側に根拠を置くものではありません。だから、私たちは今までの自分の人生を考えて「これからどうなるのだろうか…?」と心配する必要はないのです。私たちに必要なのは、決して変わることのない神の言葉に耳を傾け、その言葉を自分の人生を変える言葉として信じ、信頼して行くことです。このようにこの信仰問答が語る「まことの信仰」は神の恵みによって私たちに与えられる確かで揺るぎのない信仰であると言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.聖書は私たち人間がアダムを通してすべて堕落したことを教えています。それならキリストによる救いも自動的にすべての人に与えられるのですか。

2.ハイデルベルク信仰問答が教える「まことの信仰」とはどのようなものですか(問21)。

3.この「まことの信仰」は私たちが持つ理解力や意志の強さと関係しているのでしょうか。それともこの「まことの信仰」はもっと違うところに根拠があるのでしょうか。

4.「まことの信仰」のためにどうして私たちは神の御言葉に耳を傾ける必要があるのですか。

2022.10.9「まことの信仰」