2022.11.13「何を信じればよいのか」 YouTube
マタイによる福音書28章18〜20節(新P.60)
18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
ハイデルベルク信仰問答書
問22 それでは、キリスト者が信じるべきことは何ですか。
答 福音においてわたしたちに約束されていることすべてです。わたしたちの公同的な、確固たるキリスト教信仰箇条がそれを要約して教えています。
問23 それはどのようなものですか。
答 我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、身体のよみがえり、永遠の命を信ず。
1.誰がキリスト者なのか
①改革派教会について
先日、メディアミニストリーのスタッフから聞いたお話なのですが、よく知らないある人からメディアミニストリーに電話がかかってきました。その人は「あなたたちは本気で教会を改革する気があるのか…」というような話をして来られたというのです。スタッフが事情を掴めずにしばらくその人の話を聞いてみると、その人はこの電話番号が「統一教会」の「改革推進本部」のものだと思っていたようなのです。私たちの団体は電話帳に「改革派教会」と記されていますから、それでその人は間違って電話をかけてこられたと言うのです。ちょっと迷惑なお話ですね。
私たちの教会の名前に「改革」と言う名前がついているのは、今から500年以上前にヨーロッパ大陸で起こった「宗教改革」によって生まれた教会だと言うことを意味する目的があります。当時のカトリック教会は聖書に根拠を持たないたくさんの迷信を信徒に教えていました。そこで宗教改革者たちはそのカトリック教会を聖書の教えに従って「改革する」ために立ち上がりました。残念ながら当時のカトリック教会は改革者たちの意見を取り入れるのではなく、彼らを破門してしまったので、そこで改革者たちは自分たちで新たな教会を作ることになりました。普通この改革者たちが作った教会を「プロテスタント教会」と呼んでいます。
これも残念なことですがこのカトリック教会を改革することを願った宗教改革者たちの意見は必ずしも一致するものではありませんでした。そこでプロテスタント教会の中にいくつもの教派が生れることになったのです。代表的な教派はドイツの宗教改革者マルチン・ルターの後継者が作った「ルーテル教会」です。それに対して、「改革派」教会はスイスで宗教改革を行ったジャン・カルヴァンの後継者が作った教会の流れを汲んでいます。
歴史的に見れば宗教改革は今から500年以上前に起こった出来事で、宗教改革は終了したと考えられています。しかし、私たちがあえて自分たちの教会に「改革派」と言う名前を付けているのは、この改革が過去に終わってしまった出来事ではなく今も続いていると言うことを表すためです。なぜならいつの時代の人間も聖書に根拠のない誤った教えを教会に持ち込む恐れがあるからです。ですから改革派教会はいつの時代も教会を正しい聖書の教えによって改革するという願いを持って自分たちの教会をこの名前で呼び続けているのです。
②キリスト教会は一つ
皆さんの中にはわざわざ「改革派教会」を選んでこの教会にやって来られたと言う方もおられるかも知れません。また、そうではなくたまたま出席した教会が「改革派教会」だと言う方もおられると思います。この小さな東川口の町にも私たちの教会の他に「福音自由教会」とか「アッセンブリー教会」とかいろいろ名前が付いたキリスト教会が存在しています。キリスト教会のことを知らない人はその違いを理解することはなかなか難しいようです。先ほどの電話の主はもしかしたら「統一教会」もキリスト教会の一つだと思っていたのかも知れません。しかし、「統一教会」はイエス・キリストによる救いを信じないのですから、キリスト教会とは全く違った団体だと言わなければなりません。
それではなぜキリスト教会と呼ばれる団体にも様々な教派が存在するのでしょうか。確かにどの教派も聖書を自分たちの生活の唯一の誤りなき基準として信じています。ところが、この聖書の理解の仕方がこの教派間で微妙に違うのです。そしてそれぞれの教派はその違いを自分たちに受け継がれる大切な遺産として守り続けています。しかし、だからと言ってこの地上には多くの教派が存在しても、神やキリストが教派ごとに違うということにはならないはずです。どの教派の人々も聖書が教える唯一人の神を信じ、そしてただ一人の救い主を信じることによってキリスト教会として存在しているのです。
アメリカ人の宣教師から聞いた笑い話の中にこんなものがあります。ある人が地上の生涯を終えて天国に旅立つこととなりました。その天国では新入りために使徒ペトロが案内をしてくれることになっていました。ペトロはその新入りを天国のいろいろなとこに連れて行き、それぞれ丁寧な説明をしました。ところが二人が天国のある部屋のドアの前を通り過ぎようとしたときのことです。ペトロは急に小声でこう告げたと言うのです。「このドアの前では静かにしてください」。不思議に思った新入りはペトロにその理由を訪ねました。するとペトロは「このドアの中にはバプテスト教会のたちがいて、彼らは天国には自分たちしかいないと信じ込んでいるのです」と答えたと言うのです。私たちが「天国には自分たちの仲間だけが入る」と考えるのは大きな間違いであると言えます。
「私たちは本当に天国で愛する人たちと再会することができるのでしょうか?」。こんな質問をとても有名な神学者に尋ねた婦人がいます。するとその神学者はすぐにこう答えました。「ご婦人、それは確かなことです。私たちは天国で再び愛する人たちと再会することができるでしょう」。その言葉を聞いたその婦人は喜びます。ところ神学者はその言葉に付け加えるようにこう言ったのです。「ただし、私たちは天国で私たちが会いたくない人たちとも会うことになるはずです…」。
たとえ地上では敵同士であってもキリストを信じる私たちはすべてキリストの救いにあずかることができます。そして天国で私たちはキリストにあって和解をすることができるようになるのです。もちろんキリストは私たちがそのときを待たずにこの地上で和解し合うことを望んでおられることも確かなことです。
2.公同的なキリスト教信仰箇条
①キリスト教会とそうでない団体との見分け方
私たちが信じる神はお一人であり、イエス・キリストもお一人です。だから実はキリスト教会も一つであると言うことできます。ハイデルベルク信仰問答は「わたしたちの公同的な、確固たるキリスト教信仰箇条」(問22)と言う言葉をここで用いています。「公同的」とはもともと「カトリック」と言う言葉で表されます。実は「カトリック」とは地上のある特定のローマ教皇を頭とする教派を指している言葉ではありません。ただ一人の神を信じ、イエス・キリストの救いを信じる人が集められる唯一つの教会と言う意味です。その教会には確かにこの地上では異なった教派に属してはいますが、神によって選ばれ、キリストの恵みによって救われた者すべてが集められているのです。
ところがここで最初の話に戻りますが、いわゆる「統一教会」や「エホバの証人」、あるいは「モルモン教」と呼ばれる団体はこの「公同の教会」には属していないと考えられています。なぜなら、彼らはキリスト教会とは認められないからです。それではその教会が「公同の教会」の一部として認められる基準はどこにあるのでしょうか。それがここでハイデルベルク信仰問答が取り上げている「わたしたちの公同的な、確固たるキリスト教信仰箇条」(問22)、つまり次の問23に記されている「使徒信条」というキリスト教会の信仰を表す文章となるのです。
②使徒たちが伝えた教え
この文章に「使徒信条」と言う名前が付けられているのは「使徒たちが伝えた教え」と言う意味があるからです。キリスト教会は主イエスの弟子であった使徒たちから始まったことが新約聖書の「使徒言行録」の中に記されています。この使徒たちによって福音が様々な地域や国に伝道され、そこで多くの教会が生れました。しかし、その教会は皆、使徒たちの教えに従うことによって一つであった言うことができます。「使徒信条」はこの使徒たちから自分たちが受け継ぎ、そして代々に渡って伝えてきた教えを記した伝統的な文章なのです。
私が洗礼を受けた教会は改革派教会ではありませんでしたが、礼拝の中でこの使徒信条を交読することが続けられていました。この使徒信条はカトリック教会でもまた、プロテスタントの教会でも大切にされています。ギリシャ正教会やロシア正教会と言われる教会ではこの「使徒信条」の文章を直接には用いていませんが、この信条と同じような内容を伝える文書(ニケヤ信条)を用いて私たちと同じ信仰の内容を告白しているのです。
このような意味で「使徒信条」は使徒たちの伝えた教えに従って世界のすべてのキリスト者を一つとする大切な文章です。そしてハイデルベルク信仰問答はこれからこの使徒信条の内容を一つ一つ取り上げて私たちにキリスト教信仰の内容を教えようとしているのです。
3.福音のすべて、聖書全体の教え
私たちは私たちの生活の唯一の誤りなき基準は聖書だけだと信じています。その点で自分たちの教祖の語った言葉を聖書以上に大切にしようとする統一教会は決してキリスト教会とは呼ぶことのできないのです。しかし、それでは私たちがこれから学ぼうとする「使徒信条」はどうなのでしょうか。私たちは聖書と共に「使徒信条」を私たちの生活の基準とすべきなのでしょうか。この点について最後に私たちはもう一度、このハイデルベルク信仰問答の問21の文章に戻って考えてみたいと思います。なぜなら、信仰問答はこう語っているからです。
「福音においてわたしたちに約束されていることすべてです。わたしたちの公同的な、確固たるキリスト教信仰箇条がそれを要約して教えています。」
信仰問答はここで「すべて」と言う言葉を使っています。神は私たちに聖書を与え、私たちに福音を知らせてくださいました。つまり、ここで言うすべてはその「聖書」すべてと言うことです。ですから、私たちは聖書全体の教えを大切にしなければならないのです。
先日ある集会で講演をした牧師に、「あなたは聖書のどの御言葉に導きを受けて牧師になる決心をしたのですか」という質問があり、その牧師は「聖書全体の言葉から導かれた」と言うような答えをしたと聞きました。ときどき、「わたしはこの聖書のこの言葉で導かれました」と言う証しを聞くことがあります。もちろんこのような証しのすべて間違っているとは限りません。しかし、大切なのは私たちが聖書全体の教えを通して、聖書の御言葉に親しみ、またその教えに導かれているかと言うことです。
ある人が自分の人生に迷い、これから自分がどうして生きて行けばよいのかわからずに深刻に悩んでいました。そのときその人は聖書の御言葉に聞いてみようと思い、目を閉じて、聖書のどこかのページを開き、指さす箇所に書かれたみ言葉に従おうと考えたのです。そこでその人がその通りにやってみると、「ユダは…首をつって死んだ」と言う言葉が示されました。「これはちょっとちがうのではないか?」と思ったその人はもう一度、聖書を開いて同じように言葉を選びます。するとそこには「行って、あなたも同じようにしなさい」と言うイエスの言葉が記されていたと言うのです。
聖書の言葉をその前後関係を無視して考えたり、用いようとすると私たちは大変な過ちを犯すことになります。ですから私たちは聖書全体の教えを大切にすることが必要なのです。それでは聖書全体は何を教えているのでしょうか。そのことを教えるのがこれから学ぶ「使徒信条」であると言うことできます。ですから、私たちが聖書を丹念に読み続けるならこの「使徒信条」が語っていることが、聖書の教える福音のすべてであることを理解することできます。また、この「使徒信条」の言葉を理解して私たちが聖書の言葉を読むなら、私たちは使徒たちの教えに従って聖書を正しく読むことができるのです。そうすれば私たちは聖書の言葉を私の人生を導くために与えられた確かな神の言葉として正しく読むことができるようもなるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.キリスト教会にはカトリックやプロテスタントと様々な教会があります。あなたはこれらの教会の違いを意識したことがありますか。
2.現在、世間を騒がしている「統一教会」や、駅頭に立ち、また家庭訪問をして書籍を販売する「ものみの塔(エホバの証人)」はキリスト教会ではありません。あなたはこれらの団体がキリスト教会ではないと言うことを理解することできますか。
3.キリスト教会が大切に受け継いできた「使徒信条」は、私たちが聖書を理解するためにどのような助けとなりますか。
4.第二次大戦中に当時、ドイツを支配したナチスは自分たちの都合に合う教えを教会も語るように強制しました(ドイツ的キリスト者運動)。そのとき聖書の真理を守ろうとした人たちは礼拝の中で使徒信条の言葉を交読したと言われています。この使徒信条の言葉を私たちが学ぶことにはどのような大切な意味があると思いますか。