2022.11.20「十字架にかけられたイエス」 YouTube
ルカによる福音書23章35〜43節(新P.158)
35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
1.十字架から降りられない救い主?
①主イエスは真の王
教会のカレンダーでは次週の礼拝からクリスマスを準備する「待降節」、「アドベント」が始まります。このクリスマスの出来事を伝える物語ではイエスの母マリアに天使が現れて、これから生まれてくる赤ん坊が「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」(ルカ1章32節)と約束しています。この天使の言葉に従えばイエスは「王」となるためにこの地上に神から遣わされた方であることが分かります。教会のカレンダーでは一年の最後の主日である今日の礼拝を「王であるキリスト」と呼ぶように定められています。ですからこの教会のカレンダーが選んだ聖書箇所でも「イエスはどのような王なのか」というテーマが取り上げられています。実はこの聖書の中の登場人物の多くは結局、イエスが王であるということが理解できていません。それは彼らがありのままの主イエスに関心を示したのではなく、自分の期待を通して主イエスの姿を見ようとしたからであると言えます。
対人関係の極意の中には「人を自分の期待を通して見ない」と言う注意があります。なぜなら、相手を自分が勝手に描いた期待を通してみようとするなら、その期待通りに生きていない相手に気づいて不満を抱き、その相手を裁くことになるからです。これでは、決してその相手との間によい関係は生まれません。なぜなら、他人は自分の期待通りに生きている訳ではないからです。むしろ本当の友情はその相手をありのままで受け入れ、理解するところから始まっていくと言えるのです。
残念ながらこの聖書箇所に登場するほとんどの人は主イエスを正しく理解することができませんでした。それでもルカはこの出来事の中でただ一人、主イエスを理解し、彼を受け入れた人がいたことを紹介しています。それは主イエスと共に十字架につけられた二人の犯罪人の内の一人の人物です。彼は自分も死と言う危機的な状況に置かれながら、十字架につけられた主イエスを真の王として認め、ありのままで受け入れて主イエスと共に「楽園」に入るという約束を受けたのです。
②主イエスを認めることのできない人々
さてここにはこの強盗の他にも「民衆」、「議員たち」、そして「兵士」、さらには主イエスと共に十字架につけられたもう一人の「犯罪人」が登場しています。その内、「議員たち」と言うの当時のユダヤの最高議会のメンバーたちで、イエスをローマ総督ピラトに訴えて死刑にしようとした張本人たちです。彼らは主イエスに対して「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(35節)と語りました。彼らは主イエスが救い主なら神からいただいた力を使って自分をこの窮地から救い出すことができるはずだと考えたいたのです。しかし、十字架につけられた主イエスはその力を一切使うことなく、死を迎えようとしています。彼らにとってはそれこそが彼が救い主ではないことを表す確かな証拠だと考えられていたのです。つまり、ユダヤ人の指導者たちにとっては主イエスの十字架は彼が救い主ではないということを表すものだったと言えるのです。
一方、主イエスの十字架の近くにいる「兵士たち」、これは主イエスの処刑を直接に担当していたローマ兵たちです。それして彼らもまた主イエスに対して「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(37節)と語っています。この時、イエスの頭上には「ユダヤ人の王」と言う総督ピラトが掲示することを命じた罪状書きが掲げられていました。それは主イエスがユダヤの民衆をそそのかして、ローマ帝国に反旗を翻し、自分が「ユダヤ人の王」となろうとしたという罪の内容を示すものでした。もちろん、それはイエスを総督ピラトに訴えたユダヤ人たちが勝手に作り上げた偽りの罪状書きでした。
このローマの兵士たちはローマ皇帝と言う地上の「王」がどのような存在であるかをよく知っています。ローマ皇帝は巨大な権力を持ち、ローマの支配下にあるすべての人を従わせる力を持っていました。しかし、彼らの前にいる「ユダヤ人の王」は全く違います。彼には何の権力もありません。彼の命令に従って、彼を救いに来る者は一人もいません。だから兵士たちは「主イエスは決して王などではない」と考え、彼を侮辱したのです。
さらに主イエスと共に十字架につけられた犯罪人の一人は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)と語ります。もちろん彼は主イエスがメシアであるとは全く信じていません。むしろこの犯罪人は主イエスが自分の期待通りのメシアではないことを知り、不満を抱き、その怒りを主イエスにぶつけようとしたのです。
これらの人々は皆、主イエスの十字架は彼が真の救い主ではないことを表す証拠だと語っているのです。しかし、この出来事を記したこの福音書の記者ルカは、この十字架こそが主イエスがメシアであり、まことの王であることを示す確かな証拠だと言うことを私たちに教えようとしています。
2.十字架から降りない救い主
まず、この福音書を記したルカが私たちにこの物語を通して示そうとすることは主イエスが「無罪」、つまり自らは十字架刑を受けるべき何の罪も犯してはいない方だったと言うことです。ルカはその証言を十字架につけられたもう一方の犯罪人の言葉を通して次のように明らかにしています。彼は主イエスについて「しかし、この方は何も悪いことをしていない」(41節)と語っているからです。そして、この言葉と共にルカが主イエスの十字架の意味について明らかにしようとしているのは、主イエスの十字架の意味を理解できなかった人々が語った言葉、「なぜ主イエスは自分を救おうとしなかったのか」と言うことからです。なぜなら、この福音書の著者はこれまで主イエスが素晴らしい力を持つ方であることを明らかにして来たからです。その主イエスなら自分を十字架から救い出すことは簡単なことだと言えるのです。しかし、主イエスはあえてその力を一切使われず、黙って十字架刑を受け、死んで行かれたのです。
福音書記者がこの二つの事実を通して明らかにしようとしたのは旧約聖書のイザヤ書が伝えるメシアの証しです。イザヤ書はその中で神から遣わされるメシアが自らは何の罪も犯していないのに、厳しい裁きを受けたことを語っています(53章)。そしてイザヤ書はその理由について「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(53章5節)と記しているのです。
ですから福音書記者はイエスの十字架こそ彼が真の救い主であり、真の「王」であることを表す証拠だと私たちに教えようとしているのです。なぜなら、主イエスは私たちに代わって私たちの罪を背負い、その罰を十字架で代わって受けることで、私たちを救い出し、私たちを癒して下さる方だからです。このように主イエスはこの世の権力者たちとは違って、自らの命を持って私たちを救い出し、私たちを神の王国の民としてくださる真の王であることを福音書記者は記しているのです。
3.イエスを信じた犯罪者
さて、ここには先ほども申しましたようにただ一人、主イエスの本当の姿を理解し、彼を受け入れた人物が登場します。それは主イエスと共に十字架につけられたもう一人の「犯罪人」です。教会では古くから彼に「天国泥棒」と言うあだ名をつけて呼ぶ伝統があるようです。なぜなら、古い聖書の翻訳では彼は「泥棒」、あるいは「強盗」と訳されていたからです。しかし、単なる泥棒がローマ軍によって十字架刑に処せられるということは考えられていません。なぜなら、十字架刑はローマに対する「国家反逆罪」を犯した重罪人に下される極めて厳しい処刑方法だったからです。ですからもしかしたら、彼はユダヤ独立のために何人もの人々を殺害したテロリストの一人だったのではないかと考えられています。しかし、そんな重罪人がこの地上では何のよいこともしないで、その死の直前になって主イエスに信仰を告白して、天国に入る権利を手に入れたのです。だから彼は最後に主イエスから「天国」を盗んでいった泥棒と考える人がいるのです。
しかし、このもう一人の「犯罪人」は主イエスを信じて、救いにあずかることができたすべての人々を象徴する人物であると考えることもできます。なぜなら、彼のおかれた立場は神の厳しい裁きの前に立たなければならない私たちの姿をそのまま現しているからです。聖書は神の御心に反して生きる私たちすべてを罪人と断罪し、その罪人の上に厳しい刑罰が降ることを語っているからです。しかも、私たちはこの十字架に掛けられた犯罪人と同じように、その厳しい刑罰から自分の力では逃れることができない者たちであるとも言えるのです。
この絶体絶命の犯罪人にできたことは、主イエスに憐れんでもらうことだけでした。そこで彼は何をしたのでしょうか。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。」(41節)と彼は自らの犯した罪を告白しています。その上で「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)と彼は主イエスに対する強い信頼の言葉を表しています。彼は主イエスに対して「自分を救え」とは言いません。むしろ主イエスが自分のことを思い出してくださるだけで自分は救われると信じたのです。
かつて主イエスの力を信じたローマの百人隊長はその主イエスに病気の部下を癒してもらうおうと考えました。そのとき百人隊長は主イエスに「ひと言おっしゃってくださるだけでよい」と語りました。それは主イエスが語る言葉がそのまま実現することを彼が信じていたからです。(ルカ7章1〜10節)。この犯罪人は「ただ思い出してくださるだけでよい」と語ります。これも主イエスの持っておられる力を彼が強く信頼していたことを表しているものです。
私たちも絶体絶命の立場に立たされながら自分では何もすることできない者たちです。しかし、その私たちも神の御前に自らの罪を告白し、私たちを救ってくださることができる救い主イエスを信じるならばその罪を赦していただき、天国に入ることができるのです。つまり、この犯罪人が救われてたと言う事実は同じように主イエスを信じる私たちも必ず救われることができることを示す確かな証拠と言えるのです。
4.今日わたしと一緒に楽園にいる
この犯罪人に対して主イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)と言う言葉を語られました。それではこの主イエスが語る「楽園」とはいったいどのようなところなのでしょうか。聖書でこの「楽園」と言う言葉が、まず神によって創造された人間が最初に住んでいた場所、「エデンの園」(創世記2章8節)を表す言葉として用いられています。それではなぜ「エデンの園」が「楽園」と呼ばれていたのでしょうか。そこで人間は何不自由なく生活の糧を得ることできたからでしょうか。そうではありません。この「エデンの園」が「楽園」と呼ばれるのはそこでは人間が神と共に生きることができたからです。だから聖書が語る「楽園」とは神と私たち人間が共に住む場所と言うことができます。そしてそう考えるなら、神が私たちとおられる場所はどこであっても「楽園」と呼ぶこともできると言えるのです。
主イエスが「王」となってくださる「王国」とはどのようなところなのでしょうか。それは神が私たちと共に生きてくださる場所です。そしてこの王国は主イエスが私たちと共に生きてくださると言うことを通して実現したのです。ですからその主イエスを救い主と信じて生きる私たちはすでにこの「王国」の市民とされています。そして主イエスが私たちと共に生きて下さることを通して、私たちの生きている場所は今やそこがどこであっても「楽園」とされていると言うこともできるのです。
十字架に掛けられた犯罪人はその死の直前に、主イエスによって「楽園」に入ることを約束されました。つまり、この「楽園」は私たちの地上の命が無くなったとしても、無くなることない場所であると言うことができます。なぜなら私たちと主イエスとの関係は私たちの状況がどのように変わろうとも、決して変わることがないからです。そして主イエスが復活し、今も生きておられるように、私たちもこの主イエスと生き続けることができるのです。これが聖書の約束する「永遠の命」の正体であると言うことができます。
主イエスはこの「永遠の命」を私たちに与え、私たちが永遠に主イエスと共に「楽園」で生きることができるようにしてくださいました。なぜなら、主イエスは私たちのために十字架にかかり命をささげられることで、私たちの命を救い、私たちと共に生きることで本当の王様になられたからです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスが十字架につけられたときにその周りにどのような人がいましたか(35〜43節)。
2.議員たちはなぜ、イエスを見てあざ笑ったのですか(35節)。
3.兵士たちはどうしてイエスを侮辱したのですか(36〜38節)。
4.十字架につけられた犯罪人の一人はイエスをののしって、何と言いましたか(39節)。
5.もう一人の犯罪人はこの言葉を聞いてどのように反応しましたか(40〜41節)。
6.この犯罪人がイエスに向かって語り掛けた言葉から、彼がイエスをどのような方であると考えていたことが分かりますか(42節)。7.この言葉を聞いてイエスは彼に何と答えてくださいましたか(43節)。イエスを信じてこの約束を受けることできた犯罪人の姿から私たちは信仰についてどのようなことを学ぶことができますか。