2022.11.27「クリスマスを待つ心がまえ」 YouTube
マタイによる福音書24章36〜44節(新P.48)
36 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。
37 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう
44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
1.クリスマスと終末の関係
今日から教会のカレンダーではアドベント、日本語では「待降節」と呼ばれる期間に入ります。このアドベントは元々、ラテン語の「アドベントゥス」が語源となる言葉です。古代ローマの言葉であるラテン語で「アドベントゥス」はローマ皇帝の「行幸」を、つまり皇帝が日頃住んでいる宮殿から離れて、どこかに出掛けることを意味する言葉として使われていました。
私たちの救い主イエス・キリストは本来であれば神の子として天におられるべきお方です。しかし、その主イエスが私たちと同じ人となられてこの地上に来てくださいました。このクリスマスの出来事を準備する期間をキリスト教会は「アドベントゥス」と言う言葉で表して来たのです。これからクリスマスのまでの間、私たちは教会のカレンダーに従ってこのアドベントの期間を過ごします。そして、その最初の週に読まれる聖書箇所は主イエスによって語られた「世の終わり」の出来事、「終末」の出来事に関するお話となっています。教会のカレンダーはなぜこのような箇所をこの「アドベント」に読むように選んでいるのでしょうか。それは「アドベント」は過去に起こったクリスマスの出来事を思い出すだけではなく、今後、必ず起こる主イエス・キリストの「再臨」の出来事を準備する期間として守られるべきだと考えているからです。なぜなら聖書はクリスマスの日にこの地上にやって来てくださった主イエスが再びまたこの地上に来られることを神から与えられえた確かな約束として私たちに語っているからです。 聖書を読むと主イエスの最初の到来、つまりクリスマスのときにその出来事に気づいた人々はごくわずかであったことが分かります。聖書を通して救い主の到来を知らされていたはずの人々がこの素晴らしい出来事にほとんど気づくことができなかったのです。そこで主イエスの「再臨」を前にして私たちが同じような失敗を犯すことがないように、教会のカレンダーはこのアドベントの期間に主イエスの到来を待ち望む私たちの信仰の姿勢を教えようとしているのです。
私たちも今日の聖書の箇所から主イエスの「到来」を待ち望む者として、何が大切であるのかをこの「アドベント」の礼拝で学んで行きたいと思うのです。
2.主イエスは何のために再臨されるのか
大規模な災害や戦争など世界に驚くべき出来事が起こるたびに「この世界はやがて終わりの時を迎える」と言う「終末論」を強調する人々が現れ、人々の関心を集めることがあります。マスコミも彼らの語る「終末論」を興味深く取り上げますが、そのほとんどは人々に恐怖や不安を抱かせるものとして紹介されてしまうようです。しかし、聖書の語る「終末」の出来事は人々を恐怖や不安に陥れるためのものではありません。むしろ、聖書は私たちがこの不確かな世界に生きていながらも、確かな希望を持って生きることができるようにと「終末」の出来事を私たちに教えようとしているのです。なぜなら、聖書の語る「終末」はこの世界の終わりだけを語るものではなく、私たちの主イエスが再びこの地上に来てくださり、この世界を新しく造り変えてくださることを教えるものだからです。今から2000年前に天に昇られた主イエスは私たちに「あとはすべて君たちにまかせる」と言って一人でこの地上から離れて行ったのではありません。主イエスは今もこの世界を支配しておられます。そしてこの主イエスによって神の救いの計画が完全な形で実現するときが必ずやって来るのです。それが聖書の語る「終末」のときであり、主イエスの「再臨」のときであると言えるのです。だから主イエスを信じて生きる私たちは、この日を心待ちにしています。なぜなら、主イエス・キリストは私たちのためにこの地上に再び来てくださって、私たちのためにこの世界を新しく造り変えてくださるからです。
3.終末を見つめて生きる
①ノアの物語から学べ
今日の聖書の箇所の冒頭にはこの世の終わりがいつ起こるかについて、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」(36節)と言う主イエスの言葉が紹介されています。
「神はこの世界を創造される前に何をしておられたのか?」。聖書を読んでそのような疑問を抱く人々の問いに答えてある有名な神学者は「神はそのような愚かな質問をする者たちのために、この世界を創造される前にまず地獄をつくられた」と語りました。もちろん、これはその神学者が考えたブラックユーモアにすぎません。しかし、大切なことは、私たちは神が教えておられないことをいたずらに詮索して知ろうとする必要はないと言うことです。多くの人は聖書を読んでそこに書かれてあることに様々な疑問を感じます。もちろん、その多くは聖書をよく読めばその答えを見出すことができます。しかし、聖書は私たちが興味本位の疑問に答えるために書かれたものではありません。聖書は私たちが救い主イエス・キリストを信じて永遠の命をいただくために神が与えてくださった書物なのです(ヨハネ20章30〜31節)。
主イエスはここで私たちに終わりの日がいつかと言うことを知る必要はないと教えています。なぜなら、その日を知っても私たちの信仰生活には何の役に立たないからです。そして主イエスはその日がいつであるかを知ることより、私たちが知るべき大切なことがなんであるかをここで教えようとされたのです。
まず主イエスはそのことを旧約聖書に記されたノアの物語を通して説明しています(創世記6〜8章)。この世界の人々が神を忘れて、罪を犯し続け、世界が混乱に陥ったとき、神はこの世界のすべての人も動物も大洪水を起こして滅ぼして世界をもう一度新しく造りかえようとされました。しかし、そのとき神はノアとノアの家族、そして彼らが選んだ地上のすべての動物を一組ずつ残して箱舟に乗せ、やがてやって来る大洪水から救おうとされたのです。 このときノアの作った箱舟は巨大なものでした。ですから多くの人はこの箱舟を見て、ノアが何のためにこの箱舟を作ろうとしているのか、これから何が起こるかについてノアに質問して、やがて実現しようとする出来事について知る機会が十分にありました。しかし、人々はその質問をノアに向けることもなく、洪水から逃れるチャンスを失ってしまったのです。主イエスはこのことについて次のように教えています。
「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった」(38〜39節)。
このノアの物語は神が語られたことは必ずその通りに実現することを私たちに教えています。多くの人は聖書の語る「終末」を古代人の作り出した架空のお話としてしか考えていません。しかし、私たちは「神が聖書の言葉を通して私たちに語ってくださった、世の終わりの出来事は必ず実現する」と信じて生きる必要があるのです。
②目に見えない信仰を持って生きる
またイエスはこのノアの物語と共に興味深い次のようなお話を続けて語っています。
「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」(40〜41節)。
「終末」の出来事を強調する人々の中には、その終わりの時に備えて何か特別なことをしなければならないと訴える人がいます。全財産を神にささげて、特別な場所に集まり、この世の一切の業から離れて祈りながらそのときを迎える必要があると言う人が現れるのです。主イエスも聖書の中で予めそのような人々の出現を預言して、「偽キリスト」に警戒するようにと教えています(マタイ24章23〜28節)。
しかし、ここで語られている主イエスのお話では、終末のときに救われる人と取り残される人の区別は外面的には全く見分けがつかないと語られています。ですから、終末のために私たちが備えるということは誰の目からも分かるような何か人と違うことをすることでないと言うことが分かります。それではその違いはどこに現れるのでしょうか。それは目に見ない信仰を通してです。私たちはこの地上で生きて行く限り、この世での生活を維持するために働く必要があります。私たちは信仰者だからと言って、この世の人と違う仕事に就くわけではありません。世の終わりの時まで、私たちはこの世の人々と同じ生活を送り続けるのです。しかし、私たちの違う点は主イエス・キリストを信じ、その救いにあずかっていると言うことです。そして世界に起こる様々な混乱の中でも、キリストを信じる者は主イエスの再臨を待ち望み、希望を持って生きることができるのです。この信仰は他人の目に見えるものではありません。しかし、神は信仰を持って生きている者が誰であるかを確かに知っておられるのです。なぜなら、彼らは神ご自身が救いのために選んで、信仰を与えられた人たちだからです。
この礼拝室の天井の中央には楕円形のかたちに丸くくり抜かれて一部が高くされているところがあります。私はこの礼拝堂を設計した人から「このかたちはノアの箱舟を表しています」と言う説明を受けたことがあります。私たちは信仰を持って日曜日ごとに神に礼拝をささげるためにこの礼拝堂に集まります。私たちの礼拝は世の終わりが訪れるまでたとえ何が起こっても続けられます。そのような意味で私たちが目に見えない信仰を持って神を礼拝するためにここに集まることは、ノアの箱舟に乗ることと同じであると言えるのです。
4.目を覚まして生きる信仰生活
現在、マスコミは毎日のように韓国生まれの新興宗教である「統一教会」についての報道を続けています。人々の心を惑わして、生活破綻を起こさせるような彼らの活動は決して正しい「宗教活動」と言うことはできません。私たちはマインドコントロールによって人々の心を支配しようとする「統一教会」の活動を決して見逃すことはできないのです。ですから政府は彼らの活動を厳しく取り締まり、被害に遭われた人々に助けの手を指し伸ばす必要があると言えるのです。
しかし、その一方で私たちはすべての宗教が同じだと誤解する人々に対して、その誤解を丁寧に解きほぐしていく必要があると考えています。本当の宗教は人を催眠術に欠けて、人の言いなりにさせるようなものではありません。主イエスも今日の箇所で「目を覚ましていなさい」と教えて下さっています。聖書の教える終末は人を恐怖や不安で縛り付け、人々を偽りの指導者たちの言いなりにさせるために語られているものではありません。むしろ聖書は、私たちがこの地上の人生を確かなものとして生きるために終末の出来事を語っているのです。
主イエスの語られた有名なたとえ話の一つに「愚かな金持ち」と言うお話があります(ルカ12章13〜21節)。その話の中で自分の畑が大豊作となり、一生を楽に暮らせるような財産を手にいれた金持ちは大喜びします。たくさんの財産を手に入れた金持ちは「これで自分の人生は安心だ」と考えたからです。しかし、この金持ちに突然、人間の死と言う現実が襲いかかります。結局、彼が手に入れた財産は彼の人生にとって何の役にも立たないものとなってしまったのです。もしこの金持ちが自分の命が終わる日が必ずやって来るということを知って生きていたなら、彼はもっと違う生き方ができたはずでした。しかし、彼にはそれができませんでした。それは彼がやがて起こるべき「終わり」の出来事をすっかり忘れてしまっていたからです。
「目を覚ましていなさい」と主イエス・キリストは私たちに教えています。つまり、「目を覚まして生きる」とは、私たちが私たちの人生にやがて必ず実現する「終わり」、この世界に必ず実現する「終わり」の出来事を意識して今を生きると言うことを教えているのです。
私たちは普段、この終わりの出来事を意識せずに生きています。まさに、それは愚かな金持ちの生き方と同じだと言えます。しかし「自分の人生にとって大切なのは財産」と考えたのは彼が考え出した独特な思想ではありません。むしろ、彼は世間の人々が考えている常識に従って、「たくさんの財産を持てば自分は幸せになれる」とすっかり思い込んでしまっていたのです。
一方で私たちは「この世の常識や知恵はすべて間違を教えている」と言うような誤った主張にも注意を払う必要があります。なぜならマインドコントロールをする集団は、「自分たちの教え以外はすべて有害なものである」と人々に教えて、自分たちにとって都合の悪い他の情報を一切シャットアウトしようとするからです。
私たちはこの世の知恵の中に、またこの世の知識の中にも神が私たちの人生を豊かにするために与え下さったものがたくさんあることを信じています。ですから、私たちはそれらのものを単純に有害だと否定する必要はありません。だからと言って、すべてのものが私たちにとって「益である」とも言えません。だから、私たちとって大切なことは「目を覚ましていること」なのです。私たちはこの世の常識やこの世の知恵を聖書の言葉と言うフィルターを通して判断していく必要があります。特に私たちがやがて必ず実現するはずの最後の出来事を考えながら今を生きるなら、私たちは自分の人生で何を大切にして生きることがよいのかが分かってくるのです。
このように聖書の語る「終わり」のときを、主イエス・キリストの「再臨」の時を待ち望む私たちの信仰は、決して現実離れした信仰ではありません。むしろ、この信仰は今日を生きる私たちの人生をより確かなものとするためにあると言えるのです。アドベントを迎え、クリスマスを準備する私たちはこの時期を年に一回やって来るお祭りをお祝いして、その準備をするときだとだけ考えてはいけないのです。むしろ、主イエスの再臨の約束と、終わりのときを覚えながら、私たちの人生を確かなものとすることがクリスマスを準備する私たちにとってふさわしい過ごし方だと言えるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスは「終わりの日はいつ訪れるのか」という弟子たちの質問(3節)に答えて、何と語られましたか(36節)。
2.「人の子が来る」、つまり主イエスが再臨されることが「ノアの時と同じ」と言うイエスの言葉は私たちにどのような警告を示していると思いますか(37〜39節)。
3.畑にいる二人の男、また臼を引く二人の女の内、一人が連れ去られ、もう一人が残されるというイエスの言葉は私たちの信仰生活にどのような教訓を教えようとしているのでしょうか(40〜41節)。
4.イエスは「目を覚ましていれば泥棒が夜自分の家に来ても、簡単に押し入られさせることはない」と言っています(42〜44節)。それでは私たちがこのイエスの言葉を自分の信仰生活に当てはめて考えるなら「目を覚ましている」ということは何を意味してると思いますか。