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2022.11.6「神によって生きる命」 YouTube

ルカによる福音書20章27〜38節(新P.150)

27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。

28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。

29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。

30 次男、

31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。

32 最後にその女も死にました。

33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」

34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、

35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。

36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。

37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。

38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

39 そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。40 彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。


1.復活を否定するサドカイ派の人々

①サドカイ派の信仰と「復活」

 今日も皆さん共に聖書の言葉から学んで行きたいと思います。今日の箇所ではサドカイ派と呼ばれる人たちと主イエスとの間に起こった「復活」を巡る論争が語られています。聖書に度々、ファリサイ派と呼ばれる人々が登場しています。彼らは主イエスと論争を交わし、また主イエス自身がこのファリサイ派の人々の信仰について批判する言葉も残されています。それに対して今日のサドカイ派と呼ばれる人々の登場は聖書の中に滅多にありません。以前にも触れましたがこのサドカイ派と呼ばれる人々は紀元70年に起こったローマ軍によるエルサレム破壊の出来事以来、エルサレム神殿の消滅と共に彼らの存在も歴史の上から消えてしまったと言われています。ですから、彼らがいったいどういう人たちで何を信じ、どんな生活をしていたのかを詳しく知る手掛かりは現代では残されていません。彼らのことを知るためには私たちが読んでいる新約聖書の記述を頼りにしなければならないのです。

 聖書によれば彼らの多くは神殿で働く祭司たちであり、エルサレム神殿の利権を握っていた彼らは大変に裕福な人々であったとも考えられています。このサドカイ派の特徴は旧約聖書の中でも「モーセ五書」と呼ばれる、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記だけを自分たちの信仰の基準としていたことです。ですから、今日の論争の中でサドカイ派の人々は「復活」と言う出来事がこのモーセ五書に記されていないことをあげています。また、「復活」はむしろこのモーセ五書に記された神の律法と矛盾するものだということを論拠として主張しているのです。  まず、私たちはこの箇所のサドカイ派と主イエスとの間で交わされた論争のテーマが「復活」と言うものであり、人間が死んだ後、肉体は滅んでもその魂は消えずに残されるというような「霊魂不滅」を言っているのではないことを理解すべきです。サドカイ派の人々が「霊魂不滅」を信じていたのかどうかは、今はよく分かりません。しかし、日本の宗教が死後のことを語る場合のほとんどはこの「霊魂不滅」が主張されるのであって、「復活」について教える宗教はまれだと言えます。これはギリシャ哲学の世界でも同じです。彼らは人間の肉体は霊魂を閉じ込めている牢獄だと考え、人間の死はその牢獄である肉体から魂が解き放たれる救いの時だと教えたのです。

 これに対して聖書の教える「復活」は死んだ者たちが再び肉体を持って甦るという出来事を表すものです。それでは聖書がなぜこの「復活」を重要視するかと言えば、神によって創造された人間は最初から肉体を持って造られたというところにあります。ですから聖書の信仰では人間の霊魂は肉体と一体のものであり、どちらか片方だけでは不完全な存在と考えられているのです。聖書はやがて神が私たち人間を最後のときに完全な形で救ってくださるとき、私たちの魂は再び肉体を持って甦るということを教えています。そしてそれを信じるのが「復活」についての私たちの信仰だと言えるのです。


②復活はこの世の生活の延長でも再スタートでもない

 ここでサドカイ派が復活を否定する理由としてあげているのは旧約聖書に記された戒めです(申命記25章5〜10節)。これはもしその家の主人が子供を残さないままで妻を残して亡くなった場合には、その主人の弟がその妻と結婚するという義務を定めたものです。何のためにこんな戒めがあるかと言えば、そのようにして亡くなった主人の家系が断絶するのを防ぐためです。ですから、もし兄の妻と結婚した弟との間に子どもが生まれれば、最初に生まれた子は亡くなった兄の子と見なされ、その家系を継ぐ権利を持つことができます。

 サドカイ派の言い分はもし「復活」と言うものがあったならこれほどまでしてその人の家系を残す必要がなくなるのではないかと言うのです。そして、さらにはもし「復活」が真実なら兄嫁と結婚した弟たちも最後に皆、甦ることになります。そうするとこの兄嫁はその時にたくさんの夫を持つことになり返って律法が禁じている「重婚」の罪を犯すことになるのではないかと批判するのです。

 このサドカイ派の主張の特徴は「復活」をこの世の生活の延長線上に、あるいはこの世の生活が新たに再スタートされるようなものと考えていると言う点です。しかし、もし「復活」が私たちのこの世の生活の延長、あるいは再スタートと言うレベルで考えるとしたら、それは私たちにとって本当に救いの出来事と言えるのでしょうか。

 日本の民話には人魚の肉を食べた女性が800年も生きることになったという「八百比丘尼」と言うお話があります。しかし、このお話の場合には主人公は幸せな生涯を送ったかと言えば、そうではありません。むしろ彼女は自分の夫や子どもたちが先に死んで行っても自分だけは死ぬことができないと言う悲劇を体験します。そして人生を孤独と悲しみの内に過ごすことになったのです。ですからサドカイ派の考えをそのまま「復活」に当てはめると、それは人間にとって祝福ではなく悲劇になってしまうと言えるのです。

 だから主イエスは「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」(34〜36節)と答えられています。

 イエスの言葉は「復活」と言う出来事は私たちが再びこの世に肉体を持って甦るということだけを語るのではなく、そのときは私たちの存在もまた私たちの住む世界も完全なものに変えられることを教えています。この世では私たちはそれぞれ様々な弱さを持って生きています。世界にも様々な矛盾が存在し、私たちを苦しめ続けています。その上で神が与えて下さる救いが完全なものと言えるは、神が私たち自身の存在もこの世界も完全なものに変えてくださることができるからです。聖書が私たちのために語る救いは決して気休めや、中途半端なことを言っているのではありません。私たちの神は私たちのために主イエスを救い主として遣わし、完全な救いを成し遂げようとされているのです。だからこそ「復活」は神の御業によって必ず私たちの上に実現すると私たちは信じるのです。


2.信仰のために戦う人を支えた「復活」の希望

①命がけの信仰の戦い

 このサドカイ派の人々と違ってファリサイ派の人々は「復活」と言う出来事を信じていたと言われています(39節)。このお話の中でも最後に律法学者が登場し「先生、立派なお答えです」と主イエスに言葉をかけています。この発言をした律法学者はおそらくファリサイ派の信仰を持つ人物であり、サドカイ派と主イエスとの議論を聞いていて、自分たちも信じている「復活」という出来事を主イエスが見事に論証したことを評価したと言えます。

 サドカイ派の人々と違ってファリサイ派をはじめとする当時の大半のユダヤ人は「復活」と言う出来事を信じていたと考えられています。それはこの復活を暗示するような言葉がモーセ五書以外の旧約聖書や旧約聖書の外典とされる文章に残されているからです(ダニエル書12章、旧約聖書外典マカバイ記二7章など)。

 これらの書物の特徴は信仰を守るために命がけの戦いをする人々が描かれている点です。ダニエル書には異教国家であるバビロンでダニエルたちが自分たちの信仰を守るために命がけの戦いを繰り広げています。またマカバイ記では当時ユダヤを支配していたシリアの厳し宗教弾圧に命がけで戦いを挑む信仰者たちの姿が語られています。そして「復活」は信仰を守るために自分たちの命が失われることも惜しまなかった人々と対する神からの報いとして語られているのです。このように「復活」信仰はこの世で厳しい信仰の戦いを続けている人々に希望を与える神からのメッセージとしてユダヤ人の中で語り継がれて来たのです。


②儀式を営むだけの宗教家

 それではサドカイ派の人々はなぜ「復活」を信じようとしなかったのでしょうか。それは彼らが裕福でこの世の生活ですでに満ちたりていたからです。彼らの関心はこの世の生活をどれだけ要領よく生きることができるかと言うところにしかありませんでした。自分たちが死んだ後のことなど考える必要など彼らにはなかったのです。これはある意味で現代の日本人の姿と似ていると言えるのではないでしょうか。多くの人々の関心はこの世の生活をどう生きるかと言うことだけ向けられています。だから、「自分は死んだ後、どうなってしまうのか」と悩みを抱える人に、「そんなことを考えるより、目の前の生活を充実させることを考えなさい」と多くの人はアドバイスするのです。もちろん、現代の日本にも宗教は存在しています。しかし、大半の日本人にとって宗教は冠婚葬祭の儀式を行うためのものでしかありません。サドカイ派の人々の役割は神殿で行うれる儀式を律法に従って忠実に行うことでした。そのような意味で彼らの存在は生きている人の悩みや問題に答えると言う使命を忘れて、冠婚葬祭だけを行うだけで満足している現代の宗教家とも似ているとも言えるのです。


3.生きている者の神

①神と結ばれた命

 ここで主イエスは「復活」を否定するサドカイ派を説得するために彼らも信じている旧約聖書のモーセ五書の言葉を取り上げます。主イエスが語る「モーセの『柴』の箇所」とは出エジプト記3章に記された物語の引用となっています。これは荒れ野で羊の群れを飼っていたモーセを神がイスラエルの民を導くリーダーとして召されるときのお話です。ここで神はモーセに対してご自分を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジ3章6節)と紹介しておられます。主イエスはここで「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(38節)と語り、彼らは死んでしまったのではなく、今も神と共に生きていることを表すのがこの言葉だと言っているのです。そして主イエスは続けて「すべての人は神によって生きている」と語られたのです。

 私たちの命についてこの言葉から分かることは、私たちの命は神との深い結びつきのなかにあると言うことです。聖書はこの神から離れた者には本当の死が訪れることを語り、この神に信仰を持って結びつく者の命はこの世の死を経ても滅びることなく、やがて終わりの日に、神が天地万物を新しくされるときに新しい体を持って甦ることができると教えているのです。


②復活の初穂となられた主イエス

 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言うイエスの言葉は「復活」の希望を持って生きる私たちにとても大切なことを教えているように思えます。なぜなら、サドカイ派の人々は神殿の祭司として立派な儀式を行うことができていても、彼らの信仰は死んでいた言うことできるからです。サドカイ派の関心は神と共に生きることにあるのではなく、この世の生活を滞りなく行うことだけに置かれていたからです。

 旧約聖書には主イエスがここで名前をあげたアブラハムやイサク、ヤコブと言ったイスラエル民族の祖先たちの生涯が詳しく記されています。彼らは確かにこの世では不完全な存在であり、失敗を犯したり、ときには深刻な罪を犯してしまうこともありました。しかし、それでも彼らの関心の中心は「どうしたら神と共に生きることができるのか」と言うところに置かれていたのです。そして神も彼らのその信仰に答えて、彼らの生涯を共に歩んでくださったのです。これはモーセの場合も同じです。また後の時代に信仰の戦いを生きた人たちも「主と共に生きたい」と言う同じ関心を持って生きたのです。彼らの信仰は単なる儀式ではなく、生きた信仰であったと言えるのです。だから神も彼らと共に生きることをよしとされたのです。

 「復活」の信仰は今でも主イエスと共に生きたいと願いながら毎日の生活を送る私たちに希望を与えるものだと言えます。主イエスは私たちの信仰に答えて、私たちと共に生きて下さる方です。私たちの命は今、信仰を通してこの主イエスの命と結びついています。この命の結びつきは私たちのこの世の死を通しても決して変わることはありません。そして主イエスは確かに死者の中から甦り「復活」してくださったのです。パウロはこの主イエスの復活と私たちとの関係についてコリントの信徒への手紙一で次のように語っています。

「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(コリ一15章20節)。

 私たちが「復活」を信じるのは主イエスが既に私たちのために「復活」してくださったからです。その主イエスは私たちと決して離れることはないと約束してくださっているのですから、私たちもやがて主イエスと共に「復活」することができることを聖書は力強く私たちに教えていると言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.サドカイ派の人々は主イエスに近寄って来て、何を尋ねましたか。この質問の背後には彼らのどのような主張が隠されていましたか(27〜33節)。

2.このときのサドカイ派の質問の内容から彼らが「復活」についてどのような勘違いをしていることが分かりますか。

3.主イエスはこのサドカイ派の人々の質問に対してどのような答えを語られましたか(34〜36節)。

4.主イエスは出エジプト記3章の物語の中で神がモーセに語ったどのような言葉を引用していますか。この言葉がどうして「死者の復活」を明らかにしていると言えるのでしょうか(37〜38節)。

2022.11.6「神によって生きる命」