2022.12.11「三位一体の神」 YouTube
マタイによる福音書28章18〜20節(新P.60)
18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
ハイデルベルク信仰問答書
問24 これらの箇条はどのように分けられますか。
答 三つに分けられます。第一に、父なる神と、わたしたちの創造について、第二に、子なる神と、わたしたちの救いについて、第三に、聖霊なる神と、わたしたちの聖化についてです。
問25 ただ一人の神がおられるだけなのに、なぜあなたは父、子、聖霊と三通りに呼ぶのですか。
答 それは、神が御自身についてそのように、すなわち、これら三つの位格が唯一のまことの永遠の神であると、その御言葉において啓示なさったからです。
1.人間が神を知ることは可能か
①聖書を与えてくださった神
この伝道礼拝で毎月学んで来たハイデルベルク信仰問答はこれからキリスト教会に古くから伝えられている「使徒信条」と言う文章を使って、私たちの信じている神がどのような方であり、またその神は私たちに何をしてくださる方なのかについて順を追って説明していくことになります。そのようにして信仰問答は私たちに真の神についての知識を教えようとているのです。しかし、そもそも私たち人間は真の神を正しく知る能力を持っているのでしょうか。
先日、教会の外にある灯油タンクの修理を教会の兄弟にお願いしました。そのとき、タンクの中に残っていた灯油をすべて抜く作業をしたのですが、中に入っていた灯油が意外に多くて準備していたポリタンクに入りきれずに、灯油があふれ出してしまうのではないかとハラハラする体験をしました。天地万物を創造された偉大なる神の存在を私たち人間が知ろうとすることは小さな器に無限の存在を入れようとするように無謀だと言えるのです。
仏教の開祖として崇められているブッタは「神がいるのか、いないのか」、「神はどのような方なのか」と言う議論を交わす人間に対してこんなお話をしたと伝えられています。「ある人が飛んできた弓矢に射られて瀕死の重傷を負っている。そのとき「おれを弓矢で撃ったのは誰だ。どこの国の出身か。どんな地位を持つ人間か。それがわからなければおれは治療は受けない」などと言うだろうか。そんなことをしていたらけが人の治療が手遅れて、その人は死んでしまう。大切なのは射られた弓矢を抜いて、一刻も早く手当てをすることだ」とブッタは教えたと言います。ブッタは神について人間が議論してもそれはどこまでも解決のつかない不毛な議論になってしまう。だから大切なことは人間を苦しめている問題の方に目を向けて、一刻も早くその解決策を探すことだとブッタは言っているのです。ある意味でブッタは私たち人間に対して知恵あるアドバイスをしたと言ってよいのかも知れません。
人間が自分の知識や能力で神について考え、また議論したとしても、正しい答えを見出すことは決してできません。それは単に大切な時間を浪費するだけで終わってしまうと言えます。しかし、もし神ご自身が私たちに自分の存在を明らかにしてくださったとしたら、神が私たち人間にも分かるような形でその知識を教えてくださったとしたらどうでしょうか。聖書が明らかにする真の神は私たち人間にご自身を示してくださり、私たちがその方を正しく知ることができるように知識を与えてくださる方です。そして真の神はそのために私たちに聖書を与えてくださったのです。聖書は人間の体験や研鑽から生み出された知識を書き記したものではありません。神がご自身を私たち人間に示し、ご自身について私たちに知ってほしいと願われたことを記しているのがこの聖書の内容なのです。だから私たちはこの聖書の言葉を通して真の神を正しく知ることができるのです。また、正しく神を知ろうとするならこの聖書の言葉だけを私たちは頼りにしなければならないのです。
②救い主イエスを通して神を知る
ところでこの聖書が教える神を信じる者たちは私たちキリスト教徒だけではないことを皆さんもご存知だと思います。たとえばこの聖書を神から与えられて、それを守り抜いたユダヤ人たちの多くは、神から遣わされた救い主イエスを信じることができずに、ユダヤ教という別の宗教を作り出しています。
また、世界の人口の四分の一の人々が属していると言われているイスラム教は旧約聖書の預言者たちと共にイエスも真の神を人間に伝えた預言者の一人として認めた上で、マホメットと言う人物を最高の預言者と主張し、彼が残したコーランと言う書物を信仰の基準としています。
つまり、この二つの宗教はキリスト教と同じように同じ聖書に起源を持っていると考えられているのです。それではキリスト教はユダヤ教やイスラム教とどこがどのように違うのでしょうか。このことについてヘブライ人への手紙の中でこんな言葉が記されています。
「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(1章1〜2節)
ここで語られているように神は今まで旧約聖書の預言者たちを用いてご自身のことを私たち人間に伝えて来られました。そしてその最後にご自身の御子を私たち人間に遣わされることで、私たちが知るべき神についてのすべての知識をこの御子を通して教えてくださったと言うのです。ですから、私たちは神の御子である救い主イエスを通してだけ聖書が教える真の神を正しく知ることができると信じているのです。聖書に記されている他の預言者たちの言葉もすべてこの救い主イエスを通して理解するとき、その預言の正しい意味が分かると言えるのです。
これから私たちが学ぼうとする「使徒信条」にはイエスの弟子である「使徒」たちの名称がつけられています。以前にも説明したようにこの信条はイエスの弟子である「使徒」たちが教会に伝えた信仰の内容が要約して記されています。それではこの使徒たちは誰からこの信仰の知識を授かったのでしょうか。それは救い主イエスからです。使徒たちは救い主イエスと行動を共にしてきた人たちです。そして彼らはこの主イエスを通して聖書の言葉の正しい理解を、また正しい神についての知識を知ることが出来たのです。ですから使徒信条の内容は神を正しく知り、信じようとする者たちにとって大切な内容を教えていると言うことができるのです。
2.父、子、聖霊
①父なる神
ハイデルベルク信仰問答は真の神を正しく理解しようとする私たちに対して、最初にこの「使徒信条」がどのような順序で私たちに神についての知識を教えているかを語っています。「使徒信条」の構成を次のように分析されると言うのです。
「(この信仰箇条は)三つに分けられます。第一に、父なる神と、わたしたちの創造について、第二に、子なる神と、わたしたちの救いについて、第三に、聖霊なる神と、わたしたちの聖化についてです。」(問24)
まず神の御子である主イエスの父なる神は目的を持ってわたしたち人間を造られました。そしてその目的に従って私たちを完成へと導いてくださる方なのです。この世界に意味がなく生まれて来た者は一人もいません。私たち人間の人生には皆、私たちを造ってくださった父なる神からそれぞれに相応しい人生の意味が与えられているのです。
昔見た映画の中に、ある日アフリカで暮らす未開の人々の村に空からコーラの空き瓶が一本落ちてきたと言う物語がありました。そのコーラの瓶はちょうどその村の上空を飛んでいたパイロトが飲み終えた瓶を窓から捨てたものでした。しかし、それを発見した村の人々はそれが何なのかよく分かりません。彼らはそれが空から降ってきたものなので「きっと神様からの贈り物に違いない」と信じるのです。しかし、彼らはコーラの空き瓶をどのように使うのかについての知識を持っていません。結局、この瓶の使い方を巡って今まで平和に暮らしていた村人たちが争うことになります。それで「これではいけない。せっかく神さまからいただいたものだが、私たちにはこの使い方が分からないので、神さまに返そう…」と言うことになります。そしてコーラの瓶を神様に返すために選ばれるのがこの映画の主人公です。彼はコーラを神に返すために旅に出るのです。そしてこの映画はこの導入から始まって行きます。
私たちが自分の人生の目的が分からずに混乱しているのは、そもそも私たちを造ってくださった神を知らないからです。ですからその父なる神を知ることは、本当の私たち自身とその人生の目的を知るために必要であると言えるのです。
②子なる神
この父なる神は私たち人間のためにご自身の子をこの地上に送ってくださいました。クリスマスはこの子なる神である方が、イエスと言う人間となって誕生してくださったことを記念するキリスト教のお祭りです。そしてヨハネによる福音書はこのクリスマスの意味について次のような真理を私たちに教えています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3章16節)。
神はこの救い主イエスを私たちに遣わすことで、私たちを愛してくださっていることを明らかにしてくださったのです。ですから、神は私たち人間が自分の犯した罪により滅んで行ってしまうことを惜しみ、このイエスの御業によって私たちを救い、永遠の命に生きることができるようにしてくださるのです。私たち人間を創造してくださった父なる神の目的はこの子なる神の行ってくださった救いの御業によって実現することになります。
③聖霊なる神
また、この父なる神と子なる神は私たち一人一人に「聖霊なる神」を送ってくださいます。「絵にかいた餅」と言う言葉があるように、どんなにすばらしいものでもそれが自分のものにならなければ何の役にも立ちません。父なる神の御業、そして子なる神の御業を私たち一人一人の人生と結びつけ、その祝福を私たちの人生に実現した下さる方こそこの「聖霊なる神」なのです。ここで信仰問答はこの聖霊が「わたしたちの聖化」のために働いてくださると教えています。新約聖書には信仰によって神の子とされた私たちに向けた神の約束が次のように記されています。
「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています」(ヨハネ一3章2節)。
この地上では主イエスも「聖霊なる神」が導かれていたことを福音書は私たちに教えています。そしてこの主イエスを導いてくださった「聖霊なる神」は私たち一人一人の人生も同じように導いてくださる方なのです。この聖霊は私たちを最後に「御子に似た者」、つまり主イエスに似た者に造り変えてくださると聖書は約束して下さっています。「聖化」とはこの聖霊の働きを表す言葉だと言うことができます。
3.キリスト教の神秘「三位一体」
①三位一体の神
ハイデルベルク信仰問答はこの「父なる神、子なる神、聖霊なる神」の働きを問24で語った後で、この神を「これら三つの位格が唯一のまことの永遠の神である」と言う説明をしています(問25)。キリスト教会ではこのことが「三位一体の神」と言う言葉で表現されて来ました。使徒信条にはあたかも三人の神がいて、それぞれの働きをされているように教えているように見えます。しかし、実際にはそうではなく父なる神と子なる神、聖霊なる神は唯一のまことの永遠の神としてお一人の方だと言うことができるのです。
ここで聖書が教える神の姿は人間の論理では証明することができないものであることを私たちはまず覚える必要があります。教会の歴史の中でこの「三位一体の神」が問題となったのは、キリスト教会がローマ帝国に公認された後、教会の中に様々な考えを持った人々が加わって来てからだと言われています。彼らは聖書を救い主イエスを通してではなく、それまで自分が身に着けて来た異教の信仰や哲学の知識を持って理解しようとしたのです。そこで使徒たちが伝えた教えではないものが教会に入り込もうとする危険性が生じました。そこでキリスト教会は使徒たちが教えた神を改めて「三位一体の神」と言う言葉で表現し、その神を信じるようにと教えたのです。
②私を愛し救ってくださる神
聖書を読んでいると私たちの理解できないこと、また理屈にあわないことが教えられていることで皆さんも迷われるかも知れません。そこで人間はなんとかその聖書の教えを自分の持っている理屈に合うようにと考え、解釈を加えます。しかし、私たちに大切なのは聖書の言葉を自分の理屈に合わせることではありません。そうではなく聖書の言葉を信じることが私たちには求められているのです。
聖書は私たちの理屈に合わない、神の偉大な神秘を私たちに教えています。その中でも最大の神秘は父なる神が子なる神を遣わして、また父なる神と子なる神が私たちに聖霊なる神を送ってくださって、私たちを救ってくださるという出来事です。
消費文化の中で生きている私たちは古くなって壊れて使い物にならなくなったものを捨てて、新しい物を買いもとめることに慣れてしまっています。その方が簡単ですし、古い物をわざわざ修理するより安上がりにもなります。そしてこの世界は人間の命でさえも消費の対象としようとするのです。
どうして神は私たちを愛してくださり、私たちを救うために主イエスを遣わし下さったのでしょうか。どうにもならない私たちの人生に聖霊を遣わして、その人生を造り変えてくださるのでしょうか。神は私たちを滅ぼして、新しい世界と新しい人間を造り出すこともお出来なるお方です。しかし、神は私たちを諦めて見捨てることはされないのです。
主イエスによって明らかにされたこの神の神秘を私たちはこれから使徒信条の言葉に従って学んで行こうとします。そして神を正しく理解することはその神にこれほどまで愛されている、私たち自身の本当の姿を理解する学びでもあると言えるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.ハイデルベルク信仰問答問24は「公同の疑いなきキリスト教の信仰箇条である」(問22)使徒信条をどのように分けて私たちに説明しようとしていますか。
2.使徒信条がただ一人の神を「父、子、聖霊」と三通りに呼ぶのはどうしてですか(問25)。
3.どうして私たちは聖書の言葉を通して神を正しく知ることができると信じるのですか。また、キリスト教会はこの聖書の言葉をなぜ子主イエスを通して理解することが大切だと考えるのでしょうか。