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2022.12.18「インマヌエル」 YouTube

マタイによる福音書1章18〜24節(新P.1)

18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。

21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、

25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。


1.神に選ばれたヨセフ

 私たちが新約聖書を手にしてそのページをめくるとまずそこにはよく分からないたくさんの人々の名前が羅列している箇所が現れます。しかもその名前は私たちには読むのさえ困難な外国人の名前が列挙されていることに驚く人は多いはずです。気の早い人はこの時点で「何が書いてあるのかちっとも分からない」と言って聖書を読むことを諦めてしまう人もいるかも知れません。

 この系図の冒頭は「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(1節)と言う言葉で始まっています。つまり、ここに列強される名前はこの福音書がこれから紹介しようとするイエス・キリストの先祖たちであると言うのです。しかし、そう思って根気よくこの系図を読んで行くと、私たちは最後の部分で肩透かしを食らうような記述に出会うことになります。なぜならそこには「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(16節)記されています。つまり、この系図はヤコブの子であったヨセフと言う人の先祖の名前を記していることになります。皆さんの中でもクリスマスのお話を聞いたことのある人はイエス・キリストはこのヨセフの子ではないと言うことをよく知っておられるはずです。確かにヨセフはイエスの母マリアの婚約者で二人はやがて結婚をして家庭を作ることになります。しかし、イエス・キリストの父親はこのヨセフではありません。今日の聖書の箇所でもその誕生の事情が少し説明されています。ヨセフの夢の中に現れた天使は彼に「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(20節)と言っているからです。つまりイエスの父親は神であり、イエスはその神の独り子であると言うことが聖書が私たちに教える真実なのです。

 それなのになぜ、聖書は最初にマリアではなく、ヨセフの系図を取り上げてそれを「イエス・キリストの系図」と記したのでしょうか。それはイエスが人となってヨセフとマリアの家庭に生まれた子であること、そしてヨセフの家系を継ぐ子どものとして育てられたと言うことを表しているのだと言えます。そして、この系図をヨセフの立場から考えてみると、ヨセフは神によってイエス・キリストの地上での父親となって、彼を育てるように神によって選ばれた人であると言うことを示していると考えることができます。ですからこの系図に記されるたくさんの人たちはこの地上に神の子であるイエス・キリストをお迎えするために神によって選ばれた人たちであると考えることもできます。


2.正しい人ヨセフの弱さ

①正しい人ヨセフ

 私たちの周りにも「私の家の系図をたどると源氏の家系になる」とか「私の家の先祖にはこれこれと言う人がいる」と言うように自分の家の系図を示して自慢する人がいるかも知れません。それを示せば何か自分も偉くなったように思えるからかも知れません。ヨセフの家系にもダビデと言う有名な王様の名前が登場しています。またその冒頭にはアブラハムという旧約聖書にその生涯が記されている有名な人物の名前も載せられています。しかしこの系図に名前を記されているほとんど人たちはこの系図の中にしか名前が登場しない人が多いのです。

 福音書がこの系図を記したのはヨセフの家系を誇るためではありません。むしろ、イエス・キリストの誕生と言う出来事が神がアブラハムやダビデと言う人達たちと結んだ約束の成就であることを示すためです。アブラハムもダビデも救い主が来られることを待ち望んで地上の生涯を生きました。福音書の記者は彼らが望みとしていた救い主がイエスと言う人の誕生を通して実現したと言うことをこの系図を示すことで私たちに教えようとしたのです。

 また、もう一つ考えるべきことはイエス・キリストは何か特別な人間ではなく、私たちと同じ弱さや欠けを持った人間の世界にやって来てくださったことをこの系図は教えるものだと言うことです。そしてそれがよく分かるのは、今日の物語の主人公であり、地上でイエスの父親となるように神によって選ばれたヨセフと言う人物を通してです。福音書はこのヨセフを「正しい人であった」(19節)と言う一言の言葉で紹介しています。「正しい人」と聞くと私たちは「清廉潔白」とか「正義」の人と言ったようなイメージを抱くかも知れません。しかし、この「正しさ」はヨセフが神や人に対して持っていた態度を表していると考えることができます。つまり、ヨセフはまず神を畏れ、神に従順に生きた人であったことをこの言葉は表しています。また第二にヨセフは人に対しても思いやりを持つ優しい人であったことを福音書はこの言葉を使って示そうとしたのです。しかし、だからと言ってヨセフは完璧な人であったと言うことを訳ではありません。なぜなら、ヨセフの「正しさ」は自分の許嫁のマリアの妊娠という出来事を通してその弱さが露呈にしてしまうからです。


②マリアと縁を切ろうとするヨセフ

「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(19節)。

 ヨセフがマリアの妊娠をいつ、どのような形で知ることになったのか…。そのことについて聖書は何も私たちに語っていません。もしかしたら、マリア自らが自分に起こった出来事をすでにヨセフに正直に話していたのかも知れません。しかし、ヨセフがマリアに起こった出来事を彼女の口からよく知らされていたとしても、その事実をどのように受け止めるべきか、彼にはよく分からいませんでした。まず、ヨセフはマリアに対して深い愛情を抱き、思いやりを持つ人物でしたから、マリアが自分に対して嘘を言うはずはないと考えたはずです。しかし、これから生まれて来る子どもが神の子であると言う事実を普通の人間であったヨセフは受け止めることは到底できなかったのではないでしょうか。さらに、もしマリアの言うことが事実だとしても、自分にはその神の子の父親になる資格はないと彼は考えたのかも知れません。だからヨセフはマリアに対して「ひそかに縁を切る」と言う結論しか導きだすことできなかったのです。つまりヨセフの導き出した結論は「正しい人」ヨセフの不完全さ、そして弱さを露呈させるものだったと言えるのです。そして聖書はこの不完全で弱いヨセフが神によって選ばれたと言うことを私たちに教えていると言えるのです。


3.インマヌエル

①イエス=神は救い

 聖書はこのように不完全さと弱さを露呈してしまうようなヨセフの人生に神からの働きかけが起こったことを次のように示しています。

「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」」(20〜21節)。

 ヨセフの夢の中に現れた天使は「ダビデの子ヨセフ、恐れるな」と語りかけています。ヨセフはこのとき許嫁マリアに起こった出来事の意味を正しく知りませんでした。だから彼は何よりもこの事実を恐れていたのです。このことによって自分の人生が変わってしまうことを恐れたのです。しかし、天使は「その心配は無用だ」とヨセフに語りました。なぜなら、この出来事は神が「自分の民を罪から救う」ために行われる出来事であり、私たちすべての人間を救おうとする神の御業であると言えるからです。

 そして天使はマリアが産む子どもに「イエス」という名前を付けるようにとヨセフに命じています。子に名前を付けることはイエスの父親になるために選ばれたヨセフに与えられた大切な任務でした。このイエスと言う名前はユダヤ人の家庭ではごくありふれた名前で、たくさんの人たちにこの同じ名前が付けられていました。旧約聖書で「ヨシュア」と記されているヘブル語の名前をギリシャ語に置き換えるとこの「イエス」となります。そしてこの名前の意味は「神は救い」と言うものです。私たちの人生にたとえどんなことが起こったとしても、神が私たちの人生を導いて救ってくださると言うユダヤ人たちの信仰がこの名前には込められています。


②インマヌエル=神が我々と共におられる

 しかし、福音書はこの名前とは別にマリアの産む子供が違った名前で呼ばれることをここで示しています。それが「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(23節)と言う言葉です。これは旧約聖書のイザヤ書7章14節から引用した言葉です。福音書はこの言葉を示すことでイエス・キリストの誕生がすでに預言者イザヤによって昔から人々に語られていたことを紹介します。実は聖書にはこのインマヌエルと言う言葉がこのマタイによる福音書で一か所、そしてイザヤ書で二か所(イザヤ8章8節)、合計で三か所にしか記されていません。だからそのような事情からでしょうか福音書を書いたマタイはこの「インマヌエル」と言う言葉が「神は我々と共におられる」と言う意味を持っていることをわざわざ読者に説明しています。

 全能の神が私たち人間と共におられるために、その独り子であるイエス・キリストを遣わしてくださったと言うクリスマスの意味がこの名前には示されているのです。神の側には私たち人間と共にいなければならないと言う義務は一切ありません。しかし、その神が不完全でむしろ神に対して罪を犯し続ける私たち人間を見捨てず、その人間と共にいて、その人間を救おうとしてくださる、その神の意志がイエス・キリストの誕生を通してこの世界に明らかにされたことこそが私たちがクリスマスを祝う目的です。そして「インマヌエル」と言う名前は私たちにその祝福の意味を明確に教えているのです。


4.イエスの父となる決心をするヨセフ

①神から与えられた一方的な恵み

 私たちはどんなにときに「神が共におられる」と言う実感を抱くことができるのでしょうか。すべてのことが自分の思い通りに進んで、幸せな人生を送っている人だけがこの実感を持つことできるのでしょうか。よく、厳しい逆境の中で生きる人が「この世には神も仏もない」と言う言葉を語ることがあります。神は自分に対して無関心であり、何の助けも与えてくれないと言う嘆きや諦めがその言葉の中に示されているのかも知れません。

 あるいは私たちはこう考えるかも知れません。「ちゃんと神の言うことを聞いて模範的に生きる人の人生には神が共にいてくださって、その人を助けてくださるだろう」と…。「しかし、失敗ばかり犯して神に喜ばれることなど何もできない自分の人生に神が共にいてくださるとは決して思えない」。そう考える人がいるかもしれません。ところが、聖書が私たちに伝える「インマヌエル」の祝福はこのような人間の側の持つ条件によって変わったり、無くなってしまうものではありません。なぜなら「インマヌエル」は神の側から私たちに与えられる一方的な恵みだからです。だから、今私たちがたとえどんなに無茶苦茶な人生を送っていたとしても、「インマヌエル」の祝福はその私たちに与えられているのです。「神も仏もいない」と呟く人の人生にも神は共にいてくださるのです。その神の祝福がイエス・キリストがこの地上に来てくださることによって明らかに示されたのです。


②私たちの人生を変えるインマヌエル

 旧約聖書の士師記と言う書物の中にギデオンと言う人物が登場します。このギデオンは強そうな響きを持った名前の割にはむしろとても弱い人間であったことが聖書には語られています。彼は小麦を打つ作業を「酒ぶね」と言うお酒を造る容器の中に隠れて行っていました。狭い酒ぶねの中は人間が作業をするのには不向きな場所です。しかし、ギデオンがそんな場所で作業をしていたのには訳がありました。彼は自分を敵が襲ってくるのではないかといつも恐れていたのです。だから彼は、敵の襲撃を恐れてびくびくしながら酒ぶねの中に隠れて生きていたのです。そんな彼の前に主のみ使いが現れます。そしてギデオンに「勇者よ」と言う、彼にはもっとも相応しくない呼びかけの言葉を使って語り掛けました。こんな弱虫のギデオンがなぜ「勇者」と呼ばれるのでしょうか。それは続けて語られた主のみ使いの言葉にその秘密が隠されています。「勇者よ、主はあなたと共におられます」(士師記6章12節)と…。この時、インマヌエルの祝福が一方的に神からギデオンに与えられたのです。そしてこの事実を受け止めたギデオンの生涯はこの後で大転換を遂げて行きます。「勇者」と言う言葉の通りにイスラエルの民を導く「士師」としてギデオンの生涯は用いられるようになったからです。

 同じようにインマヌエルの祝福を天使から示されたヨセフの生涯もこの後、大転換を遂げて行ったことを福音書は私たちに教えています。だからと言ってヨセフの性格が全く変わってしまった訳ではありません。正しい人であったヨセフは神に従い、マリアを思いやる人でしたが、あい変わらず無力な人でした。どんなに考えても自分の能力では自分や家族をよい方向に導くことができない人でした。しかし、そんなヨセフも「インマヌエル」の祝福をイエス・キリストを通して示されることで、マリアを妻として迎え、彼女から産まれる神の子を育て父親になる決心をすることができるようになったのです。ヨセフは神がいつも自分と共におられて、その自分を助けてくださることを信じたからです。

 このインマヌエルの祝福はこの待降節を祝うために集っている私たち一人一人にも与えられています。今の自分の人生がどんなに滅茶苦茶であったとしても、神はその人と共に生きてくださるのです。そしてその証拠こそが神の子イエスが私たちのために与えられたと言うクリスマスの出来事です。ですから、私たちもこの「インマヌエル」と言う神からの一方的な恵みを受け取って、ギデオンやヨセフと同じように神から与えられた使命を私たちの人生で果たして行く決心をして行きたいと思うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ヨセフの婚約者であったマリアの上にどんなことが起こったことを聖書は私たちに教えていますか(18節)。

2.正しい人であったヨセフはこのことを知って、何をしようと決心しましたか。ヨセフはなぜそんな決心をしたのでしょうか(19節)。

3.ヨセフの夢に現れた天使はヨセフにどんなことを語りましたか(20〜21節)。

4.マタイによる福音書はこの出来事が「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と語って、どんな旧約聖書の言葉を引用しましたか(22〜23節)。

5.このように天使からマリアの産む子について教えられたヨセフの決心はどのように変わりましたか(24節)。

6.どうしてイエス・キリストはインマヌエルと呼ばれるお方なのでしょうか。あなたもその意味を考えてみましょう。

2022.12.18「インマヌエル」