2022.12.4「救い主とはどのようなお方か」 YouTube
マタイによる福音書3章1〜12節(新P.3)
1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、
6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
8 悔い改めにふさわしい実を結べ。
9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
1.長い年月を経ても残された声
私の父親がこの世を去って早くも15年以上の年月が流れました。父が亡くなった後、私は気を抜いてうとうとしている状態のときに、何度か自分を呼ぶ父親の声で目を覚ますということがありました。それまで私は父と50年近く一緒に暮らしてきましたから、その父親の声が私の記憶に鮮明に残されていたからかも知れません。しかしそんな私も、ここ数年は父親の声に驚いて目を覚ますというような経験をすることがなくなりました。おそらく、私も年老いて、私の父親についての記憶が薄らいで来ているからかも知れません。よく「人は二度死ぬ」という話を聞いたことがあります。一度目は実際の私たちの死です。そしてもう一つは私たちがこの地上に生きていたという記憶がすべての人の心から消えてしまうことです。
以前、NHKで毎週放送されていたアメリカで作られたドラマ「大草原の小さな家」の話を思い出します。ある日、主人公の父親が何人かの友人と仕事をしていると、その仕事の途中で友人の一人が突然の発作で死を遂げます。身近な友人の死にショックを覚えた主人公の父親は、しばらくしてその友人の家族が住む家を訪ねました。すると、そこに住んでいた友人の家族はすでにどこかに引っ越してしまっていて、家はもぬけの殻になっていました。そして主人公の父親はその家の裏庭にひっそりと残されて友人の墓を見つけてさらにショックを覚えます。なぜなら彼は自分が死んだときも、この友人のようにすぐに誰からも自分も忘れられてしまうのではないかと不安を感じたからです。自分が死んでも誰かに自分がこの地上に生きていた記憶が残るように、そのためにはどうしたらよいのか?そんな話からこの回の物語が展開されていきます。
私が子供のころに覚た仏教の言葉に「朝(あした)に紅顔がありて夕べに白骨となる」という言葉があります。人の命のはかなさを伝える言葉です。ところが聖書は長い年月を経ても決して消えることなく、人々の心に残り続ける「声」があることを私たちに紹介しています。それは聖書の中に登場する洗礼者ヨハネの「声」です。クリスマスの喜びを準備し、主イエスが再び来られるときに備えるこの待降節第二主日の礼拝を迎えました。私たちはこの礼拝で洗礼者ヨハネの声に耳を傾けることで、私たちの人生を確かなものとするイエス・キリストの救いの出来事を考えたいと思います。
2.不確かな存在
①洗礼者ヨハネのもとにたくさんの人々が集まる
この洗礼者ヨハネの生涯について聖書はその不思議な誕生の物語(ルカ1章5〜25節、57〜66節)、そしてさらにその悲劇的な死(マルコ6章14〜29節)を詳しく報告しています。しかし、聖書がこのヨハネという人物を取り上げるのは、彼が救い主の到来を預言し、またその救い主の到来に備えるようにと人々に教えたという点にあると言えます。今日の聖書の箇所ではその洗礼者ヨハネが果たした重要な使命が詳しく語られています。
まず福音書を記したマタイはこのヨハネの登場は旧約聖書の預言に基づくものだということをイザヤ書の言葉を通して私たちに紹介しています。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ』」(3節、イザヤ40章3節)。
マタイが洗礼者ヨハネをイザヤ書の言葉を使って「声」と紹介したのは、この人物に関心を持つ人たちにヨハネが語り伝えたメッセージに耳を傾けさせるためです。それではヨハネは人々に何を語ったのでしょうか。洗礼者ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」(2節)と語ったと記されています。ヨハネは「天国が近づいた」という言葉を使って、確かな神による救いのときが近づいたということを語り、人々に「悔い改めて」を促してそのために備えなさいと教えたのです。
このメッセージを聞いた人たちがユダヤ全土から洗礼者ヨハネのもとに集まり、そして彼らは自分の罪を告白してヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたと言うのです(5節)。このとき「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」(4節)。なぜ人々は続々とヨハネのもとに集まって来たのでしょう。聖書が教えるヨハネの様子からは彼が人々を引き付ける特別な魅力を持つ人物だったとは考えることできません。むしろ、彼の姿は大変地味なものとして表現されています。
②麦の抜け殻のように燃えて消え失せる存在
ヨハネが人々を引き付けたのは彼が語った強烈なメッセージにあると言えます。なぜなら彼は人々の心を驚かせるような厳しい神の裁きがこれからすぐに訪れることを語ったからです。
「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(11〜12節)。
人は誰もが確かな人生を送りたいと思っています。「どんなことがあっても揺り動かされることのないそのような存在に自分の人生がなれたら」と思うのです。しかし、ヨハネはそのような思い持つ人々に「このままなら、あなたたちの人生は脱穀されていらなくなった麦の殻のように、集められて火で焼け払われる。そしてこの地上から跡形もなく消え失せてしまうはずだ」と語ったのです。だからこのメッセージを聞いた人が国中からヨハネのもとに集まりました。なぜなら人々はこのヨハネを通して、自分の人生を確かなものとする神の救い得たいと願ったからです。
3.偽りの確かさ
①ヨハネのもとにやってきたファリサイ派やサドカイ派の人々
しかし、このときに洗礼者ヨハネのもとに集まって来た人々は真剣に救いを求めてやって来た者たちだけではありませんでした。ヨハネはこのとき、ファリサイ派やサドカイ派が人々に交じって大勢集まって来ていることに気づきました。このファリサイ派とサドカイ派は当時のユダヤの宗教を代表する二つの勢力で、大変な権威と力を持っていました。ファリサイ派は聖書に記された律法を厳格に守ることを大切にしたグループです。しかし、その律法を生活の中で守るためには生活にある程度の余裕がなければなりません。ですから、このファリサイ派の人々は社会的にも裕福な家庭の人々が多く、彼らは「自分たちが裕福なのは神に祝福されている証拠だ」と考えていたのです。
またサドカイ派の人々は神殿で働く祭司が集まるグループで、彼らも神殿で持っていた特権からかなりの収入が得て、裕福な人々であったと言われています。そんな彼らがなぜ荒れ野に住むヨハネのもとにやって来たのでしょうか。
ルカによる福音書はイエスが神殿で教えておられるとき、ファリサイ派の律法学者たちがやってきて「何の権威でこのようなことをするのか」と問うたと記しています。そのときイエスは逆に「ヨハネの洗礼は何の権威によるものだったのか」と彼らに問い返します。すると律法学者たちはこの質問を向けられて困ってしまうのです。なぜなら、彼らはヨハネを預言者だと信じる民衆を恐れていて、自分たちが軽はずみな返答をすればその民衆から反感を買い、自分たちは殺されるかもしれないと思ったからです(ルカ20章1〜8節)。つまりファリサイ派やサドカイ派の人々はヨハネの語ったメッセージに興味があったのではなく、彼を信じて集まる人々から反感を抱かれることがないように、民衆のご機嫌を取るためにここにやって来ていたのです。それは選挙になると人々のご機嫌を取るために何でもする現代の政治家とよく似ています。
②アブラハムに繋がる血統
しかし、洗礼者ヨハネは最初から彼らの魂胆をよく見抜いていました。だから彼らに対して次のような厳しい言葉を語ったのです。
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(7〜11節)。
彼らが共通して持っていたのは「我々の父はアブラハムだ」、つまり自分たちはアブラハムの血を受け継ぐ子孫だという確信でした。彼らは自分たちの人生を確かにするものは、自分たちが生まれつき持っているこの「アブラハムの血統」だと考えていたのです。
確かに旧約聖書に登場するアブラハムという人物は神を信じてその人生を歩みました。そしてその神によってアブラハムは自分の人生を確かなものとする祝福を受けることができたのです。しかし、聖書がアブラハムの人生を通して強調したのは神を信じて生きたアブラハムの信仰です。そしてそこにこそ私たちの人生を確かなものとする祝福の鍵が隠されていると教えたのです。しかし、そのアブラハムの子孫である彼らはアブラハムの信仰を受け継ぐことができていなかったのです。だから、ヨハネは「あなたたちの持っている確信は何の役にも立たない」と批判したのです。
4.ヨハネの指示したもの
①イエス・キリストによる救い
洗礼者ヨハネの語った「悔い改め」とは私たちが「これこそ自分の人生を確かなものとするものだ」と考え違いしているものが、「決してそうではない」ということに気づき、本当に私たちの人生を確かなものとすることできる方に心を向けると言うことを表しています。つまり、私たちの人生を確かなものとして下さる方はイエス・キリストであるということを信じて、生きることを意味しているのです。
なぜなら、私たちはこのイエス・キリストが地上に来られて成し遂げてくださった救いの出来事を通して、神の赦しを受け、神の子として生きることができるようになるからです。そしてこの救いはこれから私たちの人生でどんなことが起こっても、またこの世界がどんなに変わってしまっても決して変わることのない確かな救いであると言えるのです。だからこのイエスの救いにあずかる者の人生は確かなものとされるのです。
②神が覚えてくださっている
スイスのジュネーブに行くと今でも宗教改革者カルヴァンの墓が残されています。しかし、この墓は実際には後になってカルヴァンの業績を称える人々が作ったものであって、本当のカルヴァンの墓ではないと言われています。本当のカルヴァンの墓はどこにあるのか今では誰にもわからないのです。なぜなら彼は自分の存在を後世に残すような立派な墓を作らなかったからです。
私たちもお金をかければ自分のために立派な墓を作ることはできます。しかし、そこに残るのは単なる墓石だけであって、私たちの存在が残されるわけではありません。しかし、イエス・キリストを信じて生きる者は自分の存在が忘れられることを心配する必要はありません。なぜなら私たちがどこで死んで、その遺体がどこに葬られたとしても神はそのすべてをご存知であり、決して忘れることはないからです。そして神はイエス・キリストが再び世に来たくださるときに、私たちの体をその墓から甦らせてくださるのです。
このようにイエス・キリストを信じて生きる者はその存在がこの地上の誰にも忘れ去られたとしても、神に覚えていただくことでき、この神とともに生きることができるのです。
②神の使命に生きる者への祝福
また、私たちはこのことを洗礼者ヨハネの人生からも学ぶことができます。彼の人生が年月を経ても人々の心に残ったのは、ヨハネが人々にイエス・キリストを指し示すという神から自分に与えられた使命に生きることができたからです。そしてこの使命に生きることこそがヨハネの人生を確かなものにしたと考えることができます。
私たちにもこのヨハネと同じように自分の人生を通してイエス・キリストの福音を人々に伝えるという使命が与えられています。私たちの地上の命は限られています。やがて必ず私たちの命が尽き、この地上に生きていたという私たちについての記憶もなくなるときがやってきます。しかし、私たちが伝えたイエス・キリストの福音はこれからもイエス・キリストを信じる人々の信仰を通してこの地上に残り続けることができます。
それは私たちが今もっている信仰について考えるとよくわかります。私たちはなぜ、いまイエス・キリストを信じるようにされたのでしょうか。それは私たちにイエス・キリストの福音を伝え、信仰に導いた信仰者がいたからです。そしてさらにはこのキリスト教二千年の歴史を通して福音を伝え続けた信仰者の存在があったからです。だからもし、私たちもヨハネと同じ使命に生きるなら、私たちの存在もこれからを新たに生まれる信仰者の信仰を通して残り続けることができるのです。イエス・キリストの救いはこのように私たちの存在を確かなものとするものだと言えるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.洗礼者ヨハネはどこでどんな活動をしましたか。また彼のことを旧約聖書はどのように預言しましたか(1〜5節)。
2.ヨハネはファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢で洗礼を受けに来たのを見て、彼らに何を語りましたか(7〜10節)。ヨハネの言葉から考えると彼らはどんな誤った考えを持っていたことがわかりますか。
3.ヨハネは自分の後から来る方はどのような方だと預言していますか(11〜12節)。
4.このヨハネの預言と福音書が伝える実際の救い主イエスの活動とはどこが似ていて、どこが違うとあなたは思いますか。