2022.2.13「人生を変える力」 YouTube
ローマの信徒への手紙3章9〜20節(新P.276)
次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。(10節)
ハイデルベルク信仰問答書
問2 この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、あなたはどれだけのことを知る必要がありますか。
答 三つのことです。第一に、どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか。第二に、どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるか、第三に、どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか、ということです。
1.慰めへの道しるべ
私は毎日届けられる新聞に折り込まれているチラシを見るのが好きです。牧師になる前に印刷会社の営業として働いていた経験があり、自分でもお店のチラシを作る仕事をしていました。新聞に折り込まれるチラシの内容のほとんどはあまり自分とは関係ないものが多いと感じるのですが、特に近所のスーパーのチラシなどは関心があって目を通してます。そのチラシを見ていて時々、「これどこのチラシだろう」と思わされる時があります。チラシに乗っている商品にはとても興味を惹かれるのですが、肝心のお店の名前が見つからないのです。やっとチラシの端の片隅にそのお店の名前を発見して「ここか」と思うことがあります。しかし、今度は残念なことにそのお店がどこにあるのか詳しい地図が載せられていないので分からないと言うことが起こります。これではせっかく、高額な宣伝費を使ってもチラシの効果を期待することはできないはずです。
私たちは今年の伝道礼拝で改革派教会の大切な信仰文書の一つである「ハイデルベルク信仰問答」を順番に学ぶことになりました。そして前回はその第一問の内容について皆さんと分かち合うことができました。この第一問には「生きるにも死ぬにも、私たちにはただ一つの慰め」があると教えられています。「私たちにはこんなに素晴らしい慰めが神から提供されている」と信仰問答は語っているのです。そして今日の第二問はこれに続いて次のように語ります。「この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、あなたはどれだけのことを知る必要がありますか」。聖書がどんなにすばらしい慰めを語っていたとしても、その慰めが自分自身のものにならなければ、それは何の意味にもなりません。おなかがすいているのに、書店で料理本を買って、それを眺めてみても、お腹が満たされることはありません。そこで信仰問答はここから実際に私たちが聖書の語る「慰め」を自分のものにするためにはどうしたらよいのか、そのことを教えようとするのです。
神学生の時に改革派教会とは信仰の伝統が全く違うようなグループに属する教会の集会に出たことあります。そのとき集会を導いていた講師が「頭ではない。御霊だ」と大きな声を上げて、何度も叫ぶ言葉を聞いてびっくりしました。この人たちの見解では信仰と知識は対立するものだと考えられているようです。もちろん、私たちが救われるために聖書以外の知識をいくら身に着けても、それは何の役にも立ちません。しかし、神は私たちに聖書と言う書物を与えてくださいました。またその言葉を理解するために私たちに理性を与えてもくださっているのです。だからこそ私たちが聖書に基づく正しい信仰の知識を身に着けることは大切であると言えるのです。ハイデルベルク信仰問答は私たちが「ただ一つの慰め」を得るために、聖書が教えている「慰めへの道しるべ」を私たちが知る必要があると教えているのです。
2.私が抱える深刻な問題
ルカによる福音書は6章でイエスが語られた「貧しい人々は、幸いです」(6章20節)と言う言葉から始まる説教を記録しています。イエスはこのとき「どんな人が幸いか」といういくつかの条件を私たちに語っています。しかし、興味深いのはそのあと同じように「どんな人が不幸か」と言うことまで教えているところです。イエスは「不幸な人」について次のように語っています。
「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」(24〜26節)。
この言葉から分かるのは「不幸な人」とはすでに満ち足りていて「これ以上何の必要もありません」と思っているような人々であることが分かります。これに対してイエスが語る「幸いな人」は、貧しい人、つまり自分の人生が抱えている重大な不足を自覚している人であることが分かるのです。それはどうしてでしょうか。満ち足りている人は他の誰かに助けを求める必要を感じませんが、貧しい人は真剣になって自分を助けてくれる者の存在を求めることになるからです。
ハイデルベルク信仰問答の第二問の答えは「第一に、どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか」を知ることだと言っています。つまり、自分は誰か他の人から助けてもらわなければどうしようもない人間であることを知ると言うことです。大切なことは自分がイエスの語ってくださった「貧しい人」の一人であることを知る必要があるのです。
同じルカによる福音書が伝える物語の中に「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ(18章9〜14節)と言うお話があります。このお話に登場するファリサイ派の人は自分自身に満足しきっています。ですから彼が神殿でささげた祈りは、自慢話のようで、決して神に対する祈りとしては認められるものではありませんでした。一方の徴税人は自分の罪を嘆き、真剣になって神に赦しを求めました。そして神によって受け入られたのはこの徴税人の祈りだったと言うのです。ですから私たちもまず、自分の罪と悲惨の大きさを知る必要があります。それを知る者だけが神に真剣になって助けを求めることができるようになるからです。
もちろん、私たちが自分が罪と悲惨の大きさを知るためには聖書の示す基準に照らし合わせて自分を知る必要があります。なぜなら、私たちが他人と自分を比べても「みんな同じではないか…」と考えるだけで、神の助けを必要としている自分の本当の姿を見つけ出すことはできないからです。
3.私のために作られた神の処方箋
さて、私たちが神の助けを求めるためには確かに自分の罪と悲惨の大きさを知る必要があります。しかし、いくら自分が深刻な罪人であると言うことを知っても、それだけでは救いはありません。また、この自分の罪と悲惨の大きさを中途半端にしか自覚しないのも間違いです。案外私たちは「自分の力で何とかなるのではないか」と考えてしまい、大きな失敗を犯すことにもなるからです。だからもし私たちが「自分の罪は自分の力では解決することができない」と思えるなら、それは素晴らしいことであり、すでにその人には聖霊なる神の働きが始まっていると言うことができます。
19世紀にイギリスで活躍した有名な説教家チャールズ・スポルジョンは牧師の家に生まれ、子どものころから聖書の知識を身に着けた青年でした。彼は聖書の知識に基づいて「自分の罪と悲惨の大きさ」をよく知っていました。ですからスポルジョンは必死になってその罪と悲惨から逃れる方法を探したのです。しかし、何をしても彼は結局、自分の罪の深刻さと、自分の力ではそれを全く解決することができないことを痛感するばかりだったと言うのです。ですから彼は自分の抱える問題の解決を教える人を探して、有名な牧師の元を次々と訪ねその説教に耳を傾けましたがどうにも答えが見つかりません。
ある日曜日、スポルジョンはたまたまその日の朝に振った大雪のために出席を予定していた教会に行くことができなくなってしまいました。そこで彼は町でいままで気づくことなく通り過ぎていた小さなキリスト教会を見つけ、その礼拝に出席することになります。ところが、その教会でも礼拝で奉仕するはずの説教者が朝の雪のために来られなくなっていました。そこで、説教などあまりしたことのないようなその教会の一人の長老が説教壇に立って旧約聖書のイザヤ書からメッセージを語り始めました。しかし長老の即席説教のネタはすぐに切れてしまいます。そこでその長老はイザヤ書の言葉「地の果てのすべての人々よ/わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない」(イザヤ書45:22)と言う聖句を繰り返して連呼しはじめます。そして最後には説教壇の前に座っている青年スポルジョンを指さして「そこで暗い顔をして座っている青年よ、主を仰ぎなさい、そうすれば救われます」と語り出したと言うのです。このとき、スポルジョンはこの聖書の言葉を聞いて衝撃を受けます。そして「自分を見つめるだけでは絶望するだけだ、肝心なことは主を仰ぐこと、主を見上げることだ」と言うことに気づかされたのです。この後、スポルジョンは聖書が示す福音の真理に導かれ、それを受け入れて救いの確信を持つことができたと語っています。
ハイデルベルク信仰問答は続けて私たちに語ります「第二に、どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるか」を知ることですと。神は罪と悲惨の大きさに苦しむ私たちのためにぴったりの処方箋を準備してくださいました。それが聖書の教える福音の内容です。そしてその処方箋に従って魂の名医であるイエス・キリストが私たちのもとに遣わされたのです。だからもし、私たちが自分の深刻な罪の状態に悩み、絶望しているなら、この聖書が教える福音の内容を受け入れ、私たちを救うためにやって来てくださったイエス・キリストを受け入れる必要があるのです。
4.神をよろこぶ新しい人生
①神に感謝して生きる生活
ある男が死んで天国に行きました。男はそこで一日中何もせずに、食べたいものをたべ、飲みたいものを飲み、毎日安楽に過ごすことできたと言うのです。ところがそれもしばらくの間のことでした。時間が経つうちにこの男、毎日何も起こらない退屈な生活に飽きてしまいます。そしてついに我慢できなくなった男は神にその不満を語ります。「神様、こんな退屈なところが天国だと知っていたら、ここに来ようとは思わなかったはずだ…。どうして神様はこんな大切なことを私に教えてくれなかったのですか…」と。すると神はこの男にこう答えたと言うのです。「お前、ここが本当に天国だと思っていたのか…?」。
人間の救いについて多くの人は大変な誤解をしています。救いとは私たちが抱える問題が解決することだとだけ思っている人が多いからです。そこで私たちの先輩の改革派教会の信仰者たちは「神さまは私たちが何のするために救ってくださったのか」と言うことを考えました。神が私たちを罪と悲惨の状態からイエス・キリストによって救い出してくださったことには目的があると考えたのです。そこで彼らが聖書から得た答えは「神の栄光をあらわし。神を永遠に喜ぶこと」と言う真理です。私たちが救われるとは私たちの問題が解決すること、私たちの命が死から解放されることだけで終わるのではありません。私たちはそこで神からいただいた新しい命、新しい人生を使って神と共に生き続けることができるようになります。そのとき私たちは「生きていて本当によかった」と言う喜びを味わいながら新しい人生を歩むことができるようになるのです。 そして信仰問答は新しい人生は私たちが天国に行った後に始まるのではなく、神の救いを受け入れた瞬間からもう始まっていると教えます。それでは救われた私たちはどのように生きればよいのでしょうか。聖書はその手引きも私たちに教えています。私たちが「第三に、どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか」を知ることで、私たちの新しい命の過ごし方が分かって来るからです。
②私たちは神によって完全に救われている
ここで改めて私たちが心に覚える必要があるのは、私たちの信仰生活は神の救いを受けるために行われるものではなく、すでに救われた者が私たちの救ってくださった神に感謝して生きる生活であると言うことです。この点において私たち改革派教会の聖書の理解と見解が違う人たちは「自分たちが救われているかどうかは、自分が天国に行くまで分からない。だから、その救いに漏れないように頑張るのが信仰生活の意味だ」と教えるのです。しかし、このような理解に立つと私たちは救いの確信をこの地上で受けることができませんから、毎日の信仰生活は決して喜ぶことのできない、むしろ恐怖に支配されるようなものになりかねません。つまり、この信仰の理解に立てば、私たちの地上の信仰生活は自分たちの救いのために行うものとなるのです。 私たちの改革派教会の信仰の先輩たちの理解はこのようなものではありません。なぜなら、私たちの罪はイエス・キリストの十字架によって完全に赦されており、イエス・キリストによって与えられた私たちの救いの事実は何があっても変わるものではないからです。だからイエス・キリストは私たちに対して「思い悩むな」(マタイ6章31節)と言ってくださっているのです。なぜなら、私たち自身のことは私たちに代わって神がすべて心配してくださり、その問題を解決してくださるからです。聖書はこの神による確かな救いの事実に基づいて私たちの新しい人生の指針を教えています。それが神に感謝をささげて生きる生活です。そして聖書は私たちが神に感謝をささげるための方法を教えているのです。だから私たちはその方法に従って神に感謝をささげる生活をしていけばよいのです。
このように私たちの信仰生活は聖書が示す正しい信仰の知識に基づいて進められなければなりません。聖書は厳しく私たちの罪と悲惨の姿を明らかにします。しかし、その私たちのために神が救い主イエスを遣わしてくださったことを教えます。そしてこの確かな救いにあずかった私たちが、神に感謝して新しい人生を送る方法を教えているのです。だから私たちが聖書を正しく理解することは大切だと言えます。
改革派教会の大切にするもう一つの信仰問答である「ジュネーブ教会信仰問答」は私たちの人生の目的を「神を知ることです」(問1)と簡潔に教えています。この世の知識は私たちの心に一時的満足を与えることができますが、その満足はすぐに消えてしまいます。またその知識は私たちをかえって深い思い煩いへと誘うことも多いはずです。それはマスコミから提供されるコロナウイルスについての情報を考えてもよく分かります。コロナウイルスについての私たちの知識量は確かに増えています。しかし、私たちは相変わらず恐怖に支配されながら生きているのです。しかし、神を知ることは違います。私たちは神を知ることによって、この世の思い煩いから解放され、新しい希望を持って新しい人生を始めることができます。そして何よりも私たちはこの知識によって神を喜んで生きることが出来る者とされるのです。その上で神が私たちに遣わして下さる聖霊は私たちが得たこの知識を確かなものとするために働いてくださる方だと言えるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.あなたもハイデルベルク信仰問答の問2の文章を読んでみましょう。あなたはこの言葉から自分の信仰生活について新たに教えられたことがありますか。
2.どうして私たちは自分の罪と悲惨の大きさを知る必要があるのですか。
3.私たちがこの罪と悲惨の大きさから救われる道はどこに教えられていますか。
4.私たちの救いは私たちの問題がすべて解決したことで完成するのですか。それとも私たちの救いには他に目的があるのでしょうか。