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2022.2.20「あなたがたの父のようになりなさい」 YouTube

ルカによる福音書6章27〜38節(新P.114)

27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。

28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。

29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。

30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。

31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。

32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。

33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。

34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。

35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。

36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」


1.簡単だが難しいイエスの言葉

 以前、教会を会場にお貸ししている音楽教室の生徒の方に「目には目を、歯には歯を」(マタイ5章38節)と言う言葉について「聖書にそんな言葉が書いてありましたようね…」と尋ねられたことがあります。一部の人はこの言葉を誤解して「自分が他人から害を加えられたら、同程度の報復を他人にするように」と聖書は勧めていると勘違いしている方がいます。しかし、この言葉は自分が他人から害を加えられたら、それよりも大きな罰を相手に加えようとする人間の思いにブレーキをかけて、その問題をそれ以上拡大させないようにするために作られた防衛策だと考えられています。日本でかつて流行したドラマの主人公が語るセリフでも「倍返しだ!」と言うのがたぶんあったと思います。報復が繰り返されるたびにそれが倍になって行ったとしたら、その問題はいつまでも収拾されないばかりか、むしろお互いの犠牲だけが大きくなって行くことになります。

 しかし旧約聖書ではむしろ人間の復讐を禁じるような教えを語っています。たとえばレビ記19章18節にはこのような言葉が記されています。

「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」

 今日のイエスの言葉では自分の隣人ではなく「敵を愛せ」と言う言葉が登場します。この言葉はイエスの語られた言葉の中でもやはりとても多くの人に知られているものだと言えます。その理由はこの言葉が私たちにとってショッキングな言葉であると言えるからです。このイエスの言葉をさらに読み進めるとむしろ「敵を愛する」と言う言葉だけではなく、具体的にその敵からの暴力を甘んじて受けることまで勧めているように思えます。ここまで来ると多くの人は「イエスは無理なことを言っている。こんな言葉に従っていたら大変なことになってしまう」と思うはずです。

 もちろん、このイエスの言葉を法律のようなものとして現実に適応させようとすれば現実に困難な問題が起こるはずです。たとえば、世界でもまた日本でも不当な暴力に苦しみ、また傷つけられている人たちが今でもたくさんいます。その人たちに「その暴力に抵抗せず、甘んじて受けなさい」と勧めたなら、その人たちの苦しみを増し加えさせ、たくさんの命が奪われる可能性さえ生まれて来ます。ですから今日のイエスの言葉を理解するために大切なことは、この言葉がイエスを信じて新しく信仰に入った人々に語られている言葉であると言うことです。

 教会では今でもイエスを信じて新しく信仰に入る決心をされた人たちのために洗礼準備会などと言って勉強会を行うことがあります。この勉強会ではキリスト教の信仰の内容だけではなく、これから始まる信仰生活について、具体的にどのように送っていけばよいのかについても学ぶことになっています。聖書学者たちの見解では今日の個所に登場するイエスの言葉は初代教会が新しい信仰者を教育するためにそれまで伝えられて来たイエスの言葉を編集したものだと考えられると言っています。それではなぜ、私たちの信仰生活にとって「敵を愛する」と言うイエスの言葉が重要になって来るのでしょうか。私たちはそのことを今日の礼拝の中で少し考えてみたいと思います。


2.怒りの連鎖から逃れる道はあるのか

 たぶん、私が十代の頃だったと思います。私は日本の浄土宗の開祖と言われる法然の青年時代を紹介する伝記を読んだことがありました。私の記憶しているところでは法然は平安時代末期にある地方で働く役人の子として生まれました。ところがまだ法然が幼かったころ、彼の父親は政敵の恨みを買い、突然襲撃されて命を落とすという悲劇に見舞われます。そのとき、その父親は息を引き取る前に自分の息子を呼んで「わたしの仇を取ろうといてはならない。もしそうすれば、今度はお前が仇として狙われることになる。お前には敵討ちなど必要のない生き方をしてほしい」と語ったと言うのです。そして幼い法然はこの父親の願いに従って、出家して僧侶になる道を選んだとその本に書かれていたと思うのです。

 日本でも昔から「仇を討つ」と言う伝統が守られていて、それがむしろ美徳として賞賛される時代がありました。日本も明治になると西洋から近代法が輸入され、敵討ちのような「私刑」が禁じられることになりました。しかし現代でも「忠臣蔵」に登場する赤穂浪士を褒めたたえる日本人の心理には「敵討ち」は大切なことだと言う思いがどこかに残されているからかも知れません。

 それではイエスはなぜここで「敵を愛せ」と私たちに教えているのでしょうか。一つのポイントは私たちが「やられたらやりかえす」という無限の報復の悪循環から解放されて、新しい生き方を始めるためであると考えることできます。

 以前、教会に名前も知らない一人の婦人から突然に電話がありました。そして私は長時間に渡ってその婦人のお話を聞くことになったのです。その婦人は過去の近所付き合いの中で、たぶん「お金をごまかした」と言うような誤解を受けて苦しんだと言うのです。そしてその婦人は今でも、そのとき自分に誰がどのようなことを言ったかを覚えていて、それを思い出すたびにその人たちに対する怒りが心にこみあげて来てどうにもならないと言うのです。私はしばらくその婦人の話に耳を傾けて、その話が今から数十年も前に起こった話であることが分かって来ました。そして今はその婦人も別の場所に引っ越してしまって、自分を傷つけたと思っている人たちが今もそこに住んでいるのか、生きているのかさえ分からないと言うのです。つまりその婦人は数十年の間、ずっと自分を傷つけた人たちに対する怒りを持ち続けながら生きてきたと言う訳です。

 この婦人の話は極端なのかも知れませんが、結構多くの人が自分の心に自分の敵に対する怒りを持ち続けながら生きているという現実があるのではないでしょうか。しかし、そんな怒りを私たちが持ち続けても私たちの心にストレスを増させるばかりで、何の役にも立たないはずです。ですからイエスはこのような怒りのために私たちの大切な人生を使うことを禁じていると言えるのです。

 私たちが信仰を受けて初めて知ることは私たちの命はイエスの十字架の貴い犠牲によって贖われ、救われたと言うことです。ですから私たちの信仰生活の大切な時間はこのイエスの命によって買い取られた時間です。イエスはその時間をふさわしく用いるようにと私たちに求めておられるのです。そのためにはまず私たち自身が報復の連鎖から解放されなければなりません。敵に対する憎しみから解放されなければならないのです。そしてそのきっかけを作るのが「敵を愛せ」と言うイエスの勧めの言葉であると考えることができるのです。


3.神の国を信じて、新しい行動に踏み出す

 私はパソコンでよく猫の姿を映したYouTubeの動画を見るのが好きです。子どものころから家で猫を飼っていて、猫が好きだからです。YouTubeのではいろいろな猫の動画が公開されているのですが、最近よく見るのは野良猫を保護する動画です。最初、野良猫は人を警戒していてなかなか近くに寄って来てはくれません。そんな猫との距離をどのように縮めて、最後には保護することができるのか…そんな過程を映像は記録しています。

 ある動画ではいつもその家の主人が玄関の戸を少しだけ明けて、猫が入って来ることができるようにしていました。その上で、玄関に猫のための餌を置いたり、ストーブを置いて温めたり、猫がくつろぎやすい寝どこまで用意しています。しかし、そんな準備をしても野良猫の警戒心はとても強く、物音ひとつ聞いただけですぐに逃げ出してしまうのです。野良猫が生きていくためにはこの警戒心は必要なのでしょうが、その警戒心のあまり、野良猫に向けられた人の善意が届かないという姿が動画を見ると感じます。だから保護する人間はその野良猫に警戒心を持つ必要がないことを知らせる経験をさせて、教え込んでいかなければならないのです。

 聖書の語る福音によって明らかになるのは私たちに対する神の変わることのない愛がいつも私たちを守ってくださっていると言うことです。そしてイエス・キリストを信じる者はこの神に信頼して生きて行くことが求められるのです。ですからイエスは私たちが神を信頼して、神の国に生きるためには大切なことをここで教えていると言えるのです。

 イエスが語る私たちへの勧めの言葉の意味は、私たちが今までの生活で身につけた習慣を捨てて、神の恵みの中に入って行くことを促していると言うことができます。私たちが今までの人生で身に着けた警戒心を解いて、神の恵みに自分をゆだねて行くなら私たちは自分の警戒心を捨てることができる新しい経験するようになるのです。しかし、どんなに「神を信じている」と口では言って見ても、その人が古い生き方のままに警戒心だけを抱いて、一歩も前に進まないならば、また神の言葉に従って生きる決心をしてその行動をはじめなければ、その人の生き方はいつまでも変わらず、イエスが教えてくださったような神の恵みを経験することができないのです。

 私たちはイエスの言葉に従って生きることが自分の人生に苦しめたり、危険にさせるのではないかと心配することがあります。それは私たちの古い経験によって作り出された習慣がそのような判断を私たちにさせるからです。しかしもし、私たちがイエスに信頼して、イエスの言葉に従って生きるなら、私たちはその時から新しい人生を始めることができます。このように聖書の語るイエスの言葉は私たちが新しい人生を始めるための招きの言葉であることを私たちは覚えたいのです。


4.愛の勝利

 ①この言葉の通りに生きたイエス

 また、イエスは今日の個所で「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(31節)と言う言葉も語っています。この言葉はキリスト教国では「黄金律」と呼ばれていて、優秀なセールスマンになるためにもこの原理が大切であることが強調されています。日本でも「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」と言う孔子の言葉が有名です。両者の言葉は全く逆の立場から語っているように聞こえますが、最終的な意味は同じであると言えます。対人関係においてこの原則を私たちが守れば、私たちは人と人との関係を円滑に進めることができます。

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 しかし、イエスが私たちに「敵を愛せ」と言う勧めを語る意味はもっと別のところにあることがイエスがここで続けて語られる言葉から分かって来ます。「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(35〜36節)。イエスが「敵を愛せ」と私たちに教える理由は神ご自身が私たちにそのように接してくださるからだと言うのです。私たちはかつて神の敵として、神を蔑ろにする人生を送ってきました。ですからその私たちは神によって滅ぼされることがふさわしいものたちだったのです。しかし、神は私たちのような敵を滅ぼすことを喜ばれず、私たちを愛し、私たちを死から命へと救い出してくだいました。だから、その神によって救われた私たちも神と同じように生きるべきだとイエスはここで教えているのです。

 どんなに素晴らしいことを語ったとしても、言葉だけを口先で語ることは簡単なのかもしれません。しかし、私たちの神は違います。神は自らがこの言葉の通りに生きてくださったのです。そして私たちのために救い主として来られたイエスも同じように「敵を愛する」する人生を歩まれたのです。なによりもここで語られているイエスの言葉はそのイエスがご自身の生涯を通して示してくださったものなのです。イエスは人からの不当な取り扱を受けても、人から暴力を受けても抵抗しないで最期には十字架につけられて死なれました。彼は自分を苦しめた人たちに対して報復を望むことなく、かえって自分を害した人々の罪が赦されるようにと祈ったのです。


②イエスの勝利に従う

 イエスのここでの言葉は「厳しい現実を生きる者にとっては理想的すぎる」と多くの人は考えるかも知れません。しかし、人類の歴史は私たちに何を教えているでしょうか。今まで、人類の歴史の中には巨大な権力をもった支配者が何人も登場して来ました。彼らはその権力を使って多くの人を暴力で支配して来たのです。しかし、その権力者たちの力は一時的で、彼らは歴史の中で消えて行く存在でしかありませんでした。しかし、「敵を愛した」イエス・キリストは違いいます。2000年前に十字架で死なれたイエスは、今もその愛によってたくさんの人々の心を捕らえ、ご自身に従わせることができているからです。だから歴史の中で真の勝利者となったのは巨大な力を持った権力者たちではなく、敵を愛し続けたイエス・キリストであることを私たちは知っています。そのイエスはイエスを信じる決心をした私たちにもこの勝利の道に従うように招かれています。ですからイエスの「敵を愛しなさい」と言う言葉は法律のような規則を語る言葉ではありません。この言葉はイエスを信じる決心をして信仰生活を歩み始めたすべての信仰者に与えられているイエスからの招きの言葉なのです。私たちもこの招きに答えて、新しい人生を始めて行きたいのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスはここで私たちの敵や私たちを憎む者に対してどのように接しなさいと教えていますか(27〜30節)。

2.イエスは「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(31節)と教えています。あなたは人が自分のために何をしてくれることを望みますか。あなたはそのことを人にしてあげることができますか。

3.イエスの言葉に従えば神を信じない人々はどのような原理で人を愛するのでしょうか。またイエスは私たちの正しい愛の動機はどこにあると教えていますか(32〜34節)。

4.イエスの言葉によればいと高き方(35節)、つまり神はどのような人を愛してくださると言っていますか。

5.イエスがここで語られている勧めは、この世の法律のようにそれに従わなければ罰せられると言うものでしょうか。それともこの勧めはイエスによってどのような意味で語られていると考えることができますか(36節)

2022.2.20「あなたがたの父のようになりなさい」