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2022.2.27「イエスの願い」 YouTube

ルカによる福音書6章39〜45節

39 イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。

40 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。

41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。

42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

43 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。

44 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。

45 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」


1.盲人が盲人の手を引く

①恵みの世界への招待

 今日もイエスの語られたお話から皆さんと共に学びたいと思います。前回は有名な「敵を愛せ」と言うイエスが語られた言葉について学びました。この言葉はこれからイエスを信じて生きて行こうとする者たちに対して、イエスと共に歩む新しい人生に歩み出すための招待状のようなものだと言うことを私たちは前回学びました。

 私たちは普段、自分が今まで経験したことや学習したことを参考にして物事を判断し、また行動していきます。そのような方法を取れば、私たちは過去と同じ失敗を犯すことなく、リスクの少ない人生を歩むことができると考えています。しかし、私たちが招かれているイエスと共に歩む信仰生活では、この判断が返って私たちの足かせとなってしまう恐れがあります。だから私たちの信仰生活にとって大切なことはまず、神のみ言葉である聖書に耳を傾け、従うことだと言えるのです。なぜなら私たちが聖書の言葉に従って判断し、また行動するなら、私たちが今まで経験したことのないような神の恵みの世界に私たちが入って行くことができるからです。

 今日の個所でも前回の個所に引き続いてイエスの語られた言葉が記録されています。そしてここでもイエスと共に歩む信仰生活を送る私たちにとって大切なことがイエスの口から語られていると言えるのです。


②自分は目が見ない盲人

 私が牧師として最初に赴任したのは青森県にある教会でした。この青森は自然が大変に豊かな場所で、車で日帰りできる場所に有名な十和田湖があり、またその北側には八甲田山の山々が連なっています。この八甲田山の名前を有名にしたのはおそらくこの場所を舞台に描かれた「八甲田山」と言う映画であると思います。この映画は大変にヒットして、たくさんの人が目にすることになりました。この映画は実際に八甲田山で起こった日本軍による遭難事件を題材としています。今でも八甲田山に上ると雪の中で直立したまま仮死状態で発見された兵士の姿をモデルにした銅像が立っている場所があります。今から100年前にロシアとの戦争に備えるために雪中行軍を行った日本軍は兵士199名が犠牲になると言う大惨事を起こしました。そしてこの遭難事件はこの行軍を指揮したリーダーの判断のミスが原因であったと考えられています。そのミスを引き起こしたのはリーダーの持つ過信が判断のミスを生み出したと言えるのです。

イエスはここで私たちに「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか」(39節)と語っています。

 この言葉を通してイエスはまず私たちが「目の見えない盲人」であることに気づく必要があると教えています。その事実に気づかずに「自分には人生に対する確かな知識と経験がある」と過信してしますと、自分も自分に導かれた他の人も同じように穴に落ち込むような大失敗を犯すと教えているのです。もし私たちが八甲田山の雪中行軍のリーダーのようにたくさんの人々の命を犠牲にすることになったら取り返しがつきません。なぜなら、私たちには神の福音を語り、人々を救いに導く使命がゆだねられているからです。そのためにも私たちはまず自分が目の見えない盲人であること知る必要があります。それでは私たちが皆、本当は目の見えない盲人であるとしたら、私たちはどうしたらよいのでしょうか。答えは簡単です、誰か他の目が見える人の助けを借りることです。その目が見える人にちゃんと自分の手をつかんでもらって、道案内してもらえば安全です。

 私たちの主イエス・キリストは神の御子としてすべてのことを知っておられる方です。だから私たちはしっかりとこのイエスの手を握り締めて進む必要があります。そのために私たちはそのイエスの語られる言葉に耳を傾ける必要があります。そうすれば、私たちは自分が穴に落ち込むことから逃れることができるだけではなく、一緒に歩む信仰の友を救いへと導くことができるのです。

 自分の知識や経験に過信を置くものは「これ以上、誰かに教えてもらう必要はない」と思っています。そして、その過信を持って生きている人の特徴は神の言葉である聖書を読まなくなると言うところに現れるのです。だからイエスは私たちがそのようなことにならないように、まず自分が目の見えない盲人であることに気づきなさとここで教えているのです。


2.弟子は師にまさるものではない

 次に主イエスは「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」(40節)と言う言葉を語っています。私たちがこの言葉を理解するためには当時のユダヤ人たちの信仰生活を理解する必要があります。当時のユダヤ人は子どものときから聖書の知識を身に着けるために教育されて育てられました。ユダヤ人たちは聖書を学ぶためにその知識を教える教師の指導を受けることになります。この教育法で大切なことは、教師が口で教える内容を生徒が丸暗記すると言うところにあります。現在のように印刷技術が発達して自分に必要な書籍が簡単に手に入るような時代では当時はなかったのです。そのため生徒の知識量はその教師の知識量を超えることは決してありません。だから、ここでイエスが語っているように「弟子は死にまさるものではない」と言うことが当然であると言えるのです。

 弟子は師にまさることはありません。しかし、その師の語る言葉を一言も漏らすことなく聞いて、覚えれば弟子もその師のようになるのです。ですからこの部分でもイエスは私たちが私たちの信仰生活の真の師であるイエスの言葉に徹底的に耳を傾けることを求めておられると考えることができます。だからもし、私たちがイエスのように生きたいと願っているならば、なおさらイエスの言葉に耳を傾ける必要があるのです。


3.自分の目に入った丸太

①自分の作りだした勝手に基準

 次にイエスは続けて次のように語っています。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。」(41〜42節)。

 ここでは相手の目にあるおが屑には簡単に気づくのに、自分の目の中にある丸太に気づかないと言う人間の犯す過ちがイエスによって指摘されています。おそらく、この言葉には他人を裁くと言うことの愚かさ、その罪の深刻さが目の中にある「丸太」と言う言葉で表現されていると言うことができます。

 私たちはどうして人を裁くことを止めることができないのでしょうか。そこには私たちが相手に抱く勝手な期待が隠されていると言ってもよいかもしれません。なぜなら、私たちは通りがかりに会っただけで見ず知らずの他人を裁くことはほとんどありません。なぜなら私たちの裁きの対象はいつも私たちの身近で生きる人々、私たちと何らかの関係を持っている人に向けられているからです。

 私たちその人たちに対して自分が作り出した勝手な期待を抱いています。そして相手がその自分が作り出した期待に反した行動や言動をすることで腹を立て、その相手を厳しく裁くようになるのです。この場合、私たちが相手を裁く基準は聖書の言葉でも、この世の法律でもありません。私が作り出した勝手な基準です。そして、私たちに問題なのはこの私たちが作り出した基準が間違っていると言うところにあります。それが自分の目に入っている「丸太」であると言えます。だからもし、私たちの目からその丸太が取り去られて、私たちが正しい見方で相手を見ることが出来るなら、私たちの人間関係で起こるトラブルは軽減されていくはずです。だからこそ、私たちはまず相手を裁く前に、自分の持っている基準が正しいのかどうなのかを確かめる必要があるのです。そしてそれを確かめるためには私たちが真の基準である聖書の言葉に耳を傾けていることが大切になるのです。


②不満を感じ、人を裁いた放蕩息子の兄

 先日のフレンドシップアワーで私たちはイエスの語られた有名な「放蕩息子」のお話を学びました(ルカ15章11〜32節)。このお話では父からもらった財産を無駄遣いして生活破綻者となった弟息子が父の元に帰って来た時、その息子を咎めもせずによろこんで受け入れた父親の姿が描かれています。ところが深刻なのはその父親の喜びも理解できず、弟が帰って来たことも喜ぶこができない兄息子の不満です。この兄息子は財産を無駄遣いして帰って来た弟だけではなく、その弟のためにパーティーまで開いて喜んでいる父親を許すことができないのです。兄息子はその気持ちを次のような言葉で表現しています。

「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。」(15章29節)

 この兄息子の言葉から分かることは、彼はこれまでずっと我慢して父親の下で働いていたと思っているところです。だからそれが我慢できずに父親の元から出て行った弟を許すことができないのです。つまり、問題の根本にあるのは兄が自分の置かれた立場を正しく理解していないところにあると言えます。なぜなら、兄はこれまでずっと父親と一緒にいて、その父親の愛情の下で生きることができていたのに、それに気づいていないからです。

 もし、私たちが私たちを愛し、私たちを助けてくださる神の恵みに目を向けず、それを知らないままに信仰生活を送っていたとしたらどうなるでしょうか。その人が日曜日に休まずに教会の礼拝に出席して模範的な信仰生活をしていたとしても、それは喜びに基づく信仰生活ではなくなるはずです。そしてこの兄息子のように我慢に基づく信仰生活を送っていたとしたら大変です。そのような信仰生活の弊害はすぐに人を裁くという症状に現れて来るからです。そして「なぜ、あの人は自分と同じようにしないのか…」と不満を抱くことになるのです。

 ですから、もし私たちが人を裁く自分に気づいたなら、私たちの目の中にある丸太を取り除く必要があります。そのために私たちは神のみ言葉に耳を傾けることで自分がまず、神の愛の中に生かされていて、その恵みの中にあることを知る必要があります。そうすれば、私たちの心に喜びが与えられるからです。そしてこの喜びに満たされる者は、自分の信仰の友も自分と同じ喜びにあずかれるようにと祈り、また助け励ます者となれるのです。


4.良い木は善い実を結ぶ

 さて、今日の個所の最後でイエスが語るアドバイスは次のようなものです。

「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。」(43〜44節)

 それが良い木なのかそれとも悪い木なのかは、その木が結ぶ実によって判断できるとイエスはここで教えています。それではこの場合にここでイエスが言われている木とは何を意味しているのでしょうか。また実とは何のことを言っているのでしょうか。それを知るためにはイエスが続けて語っている言葉に注意する必要があります。

「茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」(44〜45節)

 イエスはここで「人の心」について語り、またその心からあふれ出る「言葉」について語っていることが分かります。つまりこのたとえ話で語られる木は私たちの心であり、実はその私たちが口で語る言葉だと言えるのです。この直前でイエスは人を裁く私たちの罪の深刻さを教えてくださいましたが、私たちが人を裁く場合に問題になるのは私たちが口にする「言葉」であると言えるのです。

 それでは私たちが人を冷たく裁く言葉ではなく、人を生かす言葉を語るためにはどうしたらよいのでしょうか。ここでのイエスの言葉から考えれば私たちの心の蔵がよい言葉で満たされていなければならないことが分かります。ですから、そのためにも私たちは聖書の言葉を読み続け、私たちの心にその言葉を蓄える必要があると言るのです。

 このように今日のイエスの言葉は私たちの信仰生活にとって最も大切なことは聖書の言葉に耳を傾け続け、その言葉に従い、またその言葉を心に蓄えて生きて行くことだと言えます。昔見たテレビの番組でそのとき100歳を迎えた男性が毎朝、必ず聖書を読んでから一日を始めるという話を思い出します。その男性はこれまで長い信仰生活を続けて来て、聖書を何度も読み返してきたはずです。しかし、その男性は「わたしは今でも、毎日新しいことを聖書から学んでいる」と語っていたのです。

 たとえ私たちが何十年と信仰生活を送り、また聖書を読み続けていたとしても、それで十分と言うことはできません。私たちはいつまでも聖書を学び続けて行く必要があります。そうすれば私たちは自分の古い人生では体験することができなかった神の恵みの世界を体験することができるようになります。だから私たちもこのイエスの語るアドバイスを受け入れて、聖書の言葉を読み続ける信仰生活を送って行きたいと思うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスは「盲人が盲人の道案内をすること」(39節)になればどのようなことが起こると言っていますか。私たちの信仰生活でこのような失敗を犯さないためにはどうしたらよいと思いますか。

2.またイエスの語られた「弟子は師にまさるものではない」(40節)の言葉から、私たちが自分の信仰生活で学ぶ点があれば、それを言ってください。

3.どうして、イエスは私たちの目の中にある丸太を気づくことが大切だと言ったのでしょうか(41節)。この丸太は私たちの信仰生活に起こるどのような問題を表していると思いますか。

4.イエスは木が結ぶ実によってその木が良い木かそうではなかがわかると語っています。それではこの木や実は私たちの信仰生活の中の何を表しているとあなたは思いますか(43〜45節)。

2022.2.27「イエスの願い」