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2022.3.13「本当の自分を知る」 YouTube

マタイによる福音書22章34〜40節


ハイデルベルク信仰問答書

問3 何によってあなたは自分の悲惨さに気づきますか。

答 神の律法によってです。

問4 神の律法はわたしたちに何を求めていますか。

答 それについてキリストは、マタイによる福音書二二章で次のように要約して教えておられます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

問5 あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか。

答 できません。なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです。


1.悲惨 故郷喪失

①ハイデルベルク信仰問答の構成

 今日も皆さんと共にハイデルベルク信仰問答の文章から聖書が伝える大切な福音の真理について学んで行きたいと思います。この世ではとかく遺産相続と言うと、今まで仲良くしていた兄弟がそれをきっかけに争い合うこととなり、その結果、兄弟の関係が疎遠となってしまったと言うことが起こります。しかし、私たちの改革派教会が私たちに残してくれた遺産はそのような性質のものではありません。このハイデルベルク信仰問答は代々の改革派教会の信徒たちが大切に守り、引き継いできた教会の「信仰の遺産」と言うことが出来ると思います。しかし、この遺産はこの世のやがては朽ち果てて無くなってしまい、また争いを引き起こすような遺産とは違い、私たちの心にキリストに対する強い信仰の確信を与え、それと同時に教会に集まる私たちを信仰によって一つとするような大切な役割を果たすものだと言えるのです。ですから、私たちもこのハイデルベルク信仰問答を学ぶことで私たちの信仰の確信を深め、互いに同じキリストへの信仰によって一つとされているということを確認して行きたいと思うのです。

 この信仰問答は今日の部分からいよいよ第一部「人間の悲惨について」と言う本文の箇所に入り行きます。この問答書は次の第二部では「人間の救いについて」、そして最後の第三部では「感謝について」を説明する構成で作られています。その中でもこの第一部はいくつかの短い問答で作られていて、むしろこの問答書で最も長く、また詳しく記されているのは次の第二部の「人間の救いについて」の個所となっているのです。しかし、この第一部の内容は私たちが次の第二部の救いについての内容を理解するためにも、大切な事柄を取り扱っている箇所であると言えるのです。なぜなら、この第一部で私たちが人間の悲惨について正しく理解できなければ、次に続く第二部が教えようとする救いについての知識も理解することができなくなるからです。


②向こう側とこちら側

 ところで皆さんは「あなたは今、悲惨な人生を送っていますか…?」と聞かれたら何とお答えになるでしょうか。おそらく今、深刻な問題にぶつかり苦しみの真っただ中にいる人とは違って、多くの人は「自分はそんなに悲惨な人生を送っているとは思えない」と答えられるかもしれません。毎日、生活の糧を得ることができ、日曜日には教会の礼拝に集まることができるのですから、私たちはむしろ「自分は恵まれている方だ」と考えるかも知れません。むしろ悲惨と言うのは、今、ロシアの侵略を受けて命からがら戦場となった故郷を離れて他国で避難の生活を送っているウクライナの人々のことだと私たちは想像するかも知れません。ウクライナの人々は今、大変な境遇に立たされ、世界の人々の助けを必要としています。私たちはこのことを他人事と考えないで、ウクライナの平和が回復され、他国に避難している人々も早く故郷に帰れるように積極的に祈り、また助けの手を伸ばす必要があります。

 ところで私たちの教会の集まりで、このウクライナのことが話題に上ったときに、「日本が太平洋戦争で戦場になったときのことを思い出す」と言われた方がおられました。日本でもかつて戦争でたくさんの人々が傷つき、そして多くの命が奪われると言う出来事が起こりました。ですから、そのような経験をした人々にとってテレビが伝えるウクライナの姿は自分の姿と二重写しになって、一層悲しく思えるのかも知れません。

 太平洋戦争が終結した後も、当時の中国東北部にあった満州や朝鮮半島で暮らしていた多くの日本人が避難民となりました。それは終戦によって今まで自分たちを守っていた日本軍が武装解除され、さらには自分たちを保護していた政府も法律も機能しなくなってしまったからです。ですから避難民はすべての保護を失って、命の危機を感じることとなったのです。そして、彼らは自分たちの故郷である日本を目指して逃避行の旅を続けました。

 今日のハイデルベルク信仰問答の内容を理解するために最大のキーワードとなるのは「悲惨」と言う言葉です。実はこの「悲惨」と言うドイツ語の言葉の由来となった言葉は「向こう側」と言う意味もつ言葉だと言われています。つまり、自分が本来いるべき場所である「こちら側」ではなく、「向こう側」にいると言うのがこの「悲惨」の原因だと言っているのです。私たちは今、本来いるべき場所ではところに住んでいます。そのためにその場所では自分を守る一切のものがなく、まるで戦果の中を逃げ惑う人々と同じように自分で自分を命の危機を感じながら生活を送っています。そしてそれがこの信仰問答が言う「悲惨」の意味であり、またその「悲惨」の理由でもあると言うのです。

 私たちは今、本来、自分たちがいるべき場所にいないのです。そして、私たちが今いる場所とは違うところに私たちが本来いるべき場所があるのです。その場所は神の愛と、人々の愛で満たされていて、私たちの心配を無用にするような場所です。そこには私たちが体験するはずの本当の平和があります。だからこそ、私たちは一刻も早く今いる場所から離れて、私たちの本来いるべき場所に帰っていかなければならないのです。ハイデルベルク信仰問答はそのことを「悲惨」と言う言葉を使って私たちに教えているのです。


2.愛 律法が示すもの

 ところでこのハイデルベルク信仰問答は私たちに「あなたは悲惨ですか?」とは問うてはいません。むしろ、信仰問答は「あなたは悲惨です」と当たり前のように断言していると言えます。なぜなら、人間は神から離れて生きている限り悲惨な状態に陥っているからです。旧約聖書が伝えるように私たちの先祖であるアダムとエバが楽園から追放された後、すべての人間は自分のいるべき場所から離れてしまったのです。そしてその結果、すべての人間が悲惨な人生を送らなければならなくなったのです(創世記3章17〜19節)。

 さて、この信仰問答は私たち人間の抱える問題についてさらに深刻なことを取り上げています。なぜなら、私たちは今、自分が悲惨な状態に陥っているのにそのことに全く気づいていないからです。最近、世間では児童虐待の問題がたびたび取り上げられています。たくさんの子どもたちがその両親に傷つけられ、また命さえ奪われると言う事件が次から次へとニュースになっています。このような場合の最大の問題は子どもに暴力を振るう親の側にあるということは疑いのない事実です。しかし、一方で児童相談所がせっかく被害者の子どもを保護しても、その肝心の子どもが「親のもとに帰りたい」と願うと言う事情があると言います。自分の親がどんなにひどい存在であっても、その子どもにとってはこの世で唯一自分が頼るべき存在であることには変わりはないのです。なぜならその子どもは自分の親以外の存在を知らないからです。

 また子どもに暴力を振るう親の側にも、実は自分自身が児童虐待の被害を受けて育って来たという経歴があることが多いと言われています。他人から見れば異常な両親であり、親子関係であっても、その当事者にはそれが当たり前の家庭の姿としか考えられいるのです。つまり、最大の問題は彼らが本当の家族の関係を知らない、また親の愛情を知らないというところにあると言えるのです。

 この信仰問答は私たちが「本当の関係、本当の愛を知らない」と言う人間の問題にメスを入れています。なぜなら、私たちにとってはたとえ悲惨であったとしても、その状態こそが自分が慣れ親しんでいる、当たり前の姿だと言えるからです。どんなにその人生が不都合であっても、それ以外の人生を知らないのですから、これはどうにもなりません。このままでは自分が誰か他の人の助けを必要としていることも分からないのです。


②神の掟が指し示すもの

 そこで信仰問答は、私たちが本来いるべき場所で経験することができたはずの、素晴らしい世界の姿を私たちに教えようとするのです。それでは、私たちが本来いるべき場所では私たちはどのような生活を送ることができたのできるのでしょうか。それを私たちに教えるのが「神の律法」の役割であると信仰問答は語っています。それではその神の律法は私たちにどのような生き方を教えているのでしょうか。旧約聖書には十戒を始めにして様々な神の律法が記されていることを皆さんもご存知であると思います。私たちの主イエスはこの律法が私たちに最終的に求めているものが何かを簡単な言葉で次のように説明してくださっています。

「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22章37〜40節)

 イエスがここで教えてくださっている掟、神の律法は私たちを縛り付けて、不自由な状態にするためのものではありません。むしろ、私たちが本来、いるべき場所で、つまり神の元で生きるときに味わうことのできた祝福された人間の生き方を私たちに教えているものなのです。そこでは私たちは、自分の命を守るために必死になる必要はありません。むしろ、私たちはそこで人間として本当の自由な生活を送ることができ、神を愛し、隣人を愛して生きることができようになるのです。しかし、神の元から離れて、本来いるべき場所にいない人間にとってはこのような生活を送ることは決して出来ません。だからハイデルベルク信仰問答は第五問で「あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか」と語って上で、「できません」とはっきりと答えているのです。


3.傾いている

 私たちはこの第五問が「あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか」と問うていることに気をつけるべきです。信仰問答は「少しでも守っていますか」とか、「最善を尽くして守っていますか」と言うような曖昧な問い方をしていません。はっきりと「すべてのことを完全に行っているか」と問うているのです。ですからまず、この問いの前提には「神に造られた人間は本当であれば、これらの掟をすべての掟を完全に守ることができる」と言う教えが語られているのです。神は私たち人間を完全なものとして創造してくださったのです。現在の私たち人間はこの完全さを失ってしまったと言うことが問題なのです。聖書はだから、今の悲惨な人生しか知らない私たちに、「それがあなたたちの本当の姿ではない」と改めて教えていると言ってよいのです。そして私たちに神に造られた本来の素晴らしい人間の姿を思い出すようにと促しているのです。

 さて、ここで信仰問答が「すべてのことを完全に行うことができるか」と質問する背景には聖書の中でしばしば問題とされる律法主義の過ちがあると言えます。そしてその律法主義の過ちから私たちを守るためにこのような問いが語られていると言えるのです。

 信仰問答が教えるようにもし、聖書の教える律法を知ることが自分たちの悲惨な状態に気づく道とすれば、この聖書を誰よりも深く学び、また日常の生活でその聖書が教える律法を実践することを心がけていたユダヤ人たちは真っ先にそのことを理解したはずです。そして自分が悲惨な罪人であることを知り、救い主イエスに助けを求めるようになったはずです。しかし、事実はそうではありませんでした。彼らはイエスを信じようとはしなかったばかりか、「自分たちにはこのような救い主は必要ない」と言って、イエスを十字架に掛けて殺してしまったのです。どうして、聖書の律法を誰よりも知っていたユダヤ人がこのような過ちを犯してしまったのでしょうか。ここにこそユダヤ人の律法主義の過ちがあらわされていると考えることできます。

 律法主義の過ちはまず「人間は自分の力でこの律法を守ることができ、それによって自分は正しい人間だと神から認めてもらえる」と考えたところにあります。実はこの「律法を守ることによって正しい者とされる」という考え方はまんざら間違ったものではないと言えます。しかし、彼らが見落としているのは今の自分たちが、本来いるべきところから離れて、不完全な者となってしまっていると言う点です。それではなぜユダヤ人は「自分は律法を守ることができる」と考えることができたのでしょうか。それは、律法の教えのすべてを完全に守るのではなく、その一部をまた不完全なりにも守ることができればよいと彼らが考えたところにあります。

 試験の合格点を高い水準に設定すれば、当然その試験の合格者は少なくなってしまいます。ましてやその合格点で満点が要求されたとしたら、ほとんどの人が不合格になってしまう可能性が生れます。それでは合格者を増やすためにはどうしたらよいのでしょうか。その試験の合格点を下げればよいのです。そうすればたくさんの合格者を作ることができます。ユダヤ人の過ちはこの合格点を勝手に自分たちで下げてしまったところにあると言えます。だからユダヤ人たちは「自分は律法を守ることができている」と考え、「救い主の助けなどなくても神に受け入れてもらうことができる」と主張するようになったのです。

 しかし、私たちは勝手に聖書が教える律法の要求を自分に守れる程度に下げることはできません。だからイエスも「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ5章18節)と私たちに教えているのです。そして私たちは神の律法をすべて完全に守ることはできないと信仰問答は語っているのです。

 そればかりではありません。この信仰問答がとても厳しく私たち人生の悲惨の姿を描きだしています。「なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです。」私たちがどんなに努力しても、私たちは神と自分の隣人を憎むという言う人生の結末を迎えると言うのです。

 傾いた家の床にボールを置くと、ボールはたちまちころころと転がり出して、その床の最も低いところに集まります。私たちの人生も同じだと聖書は教えています。私たちの心が傾いているから、いつでも私たちの思いも行動も最後には神と隣人を憎むことに行き着くのです。これが律法の教える私たちの悲惨な人生の現実です。しかし、私たちはここでがっかりして、とどまってはしまってはいけません。なぜなら、私たちには私たちが帰るべき本来の場所があるからです。だから、私たちは現在の悲惨な状態から離れて、本来の場所に帰らなければなりません。そしてハイデルベルク信仰問答は私たちの帰るべき場所、そしてその場所への帰り方を聖書の言葉を通して私たちに続けて教えようしているのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ハイデルベルク信仰問答はどうして私たちのことを「悲惨」だと言っているのでしょうか。また、私たちが自分の悲惨に気づくためにどうしたらよいと教えていますか(問3)。

2.主イエスは旧約聖書が教えるすべての律法をどのような掟で語ることができると言っていますか(問4、マタイ22章37〜40節参照)。

3.どうして信仰問答は「あなたはこれらのすべてを完全に行うことができますか」と尋ねているのですか。自分なりに努力したり、その一部を守ることではどうしていけないのでしょうか(問5)。

4.どうして誰よりも聖書を学び、律法の内容をよく理解していたユダヤ人たちは神が救い主として遣わしてくださったイエスを信じることができまず、彼を十字架に掛けることになったのですか。

5.あなたは「わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いている」と言う信仰問答の言葉を読んでどんな感想を持ちますか。

2022.3.13「本当の自分を知る」