2022.3.20「心の方向転換」 YouTube
ルカによる福音書13章1〜9節(新P.134)
1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。
2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。
3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。
5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。
7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
1.それは本当に悔い改めか?
今日の朝は受難節の第三週の礼拝となります。私たちの周りでも日ごとに花々が咲き始めていて春の訪れを知らせる季節になりました。私が中学生のころに学んだ英語の教科書に「スプリング・カムズ・ウィズ・イースター」と言う題名の文章があったことを思い出します。イエス・キリストの復活を祝うイースターは欧米では春の訪れを知らせる代名詞であることをその時、私は知りました。
私たちは今、イエス・キリストの復活を祝うイースターを準備するためにこの受難節の期間を送っています。これは私たちがイエス・キリストの復活を心からお祝いできるために行う準備との時と言ってよいものです。そして、この準備に必要なことは私たちの日々の信仰生活を顧みて、私たちが心からの悔い改めを行うことです。ところが、私たちはこの「悔い改め」と言う言葉の理解に対して誤解してしまって、むしろ自分の信仰を危うくするような過ちを犯してしまうことがあります。私たちがこの「悔い改め」についてまず理解しておかなければならないことは、聖書の中で何度も繰り返されて語られている「悔い改め」とは私たちと神との関係をさらに密接に深めていくために行われるものだと言うことです。だから、もし私たちが「悔い改め」をすることで返って自分の信仰の確信を失ってしまったり、神に対する信頼が薄らいでしまうようなことがあるとすれば、それは真の「悔い改め」と呼ぶことはできないと言えます。
たとえば、私たちはこの悔い改めによって、改めて自分の罪と向き合うことになるはずです。そして自分が神の御前で、望みのない罪人であること改めて痛感させられるのです。しかし、真の悔い改めとは私たちが自分の深刻な罪の状態を知り、自分に絶望するだけで終わってしまうものではありません。真の悔い改めとは自分の深刻な罪の状態を知る私たちが、その目を私たちの救い主イエスに向けることを意味しているからです。なぜなら、イエスは自分の罪によって絶望的な状態にある私たちを救うためにこの地上に来てくださり、十字架にかかって、私たちの罪を贖ってくださった方だからです。そしてイエスの復活と言う出来事は、私たちを支配していたすべての罪と悪にイエスが完全に勝利してくださったことを表すものだとも言えるのです。ですからこの救い主イエスによって私たちの罪はすでにすべて解決済みとなったのです。このように真の悔い改めとは私たちの信仰の目を改めてこのイエス・キリストに向させることだと言えるのです。
聖書の語る「悔い改め」と言う言葉は本来「方向転換」と言う意味を持った言葉であると言うことは有名です。だから私たちはこの悔い改めによって、今まで自分自身にだけ向けられていた心の向きを方向転換してイエスに向けることなります。そしてこの「悔い改め」によって私たちと神との関係はさらに深められ、私たちのキリストへの信仰の確信も深められて行くのです。
2.災いの意味
私の母は自分に不都合なことが身の回りで起こるとよく「バチが当たった」と言う言葉を口にしていました。そして「家の庭の土をいじったからだ」とか、「木を勝手に切り倒したからだ」と言う勝手な理由を見つけて来るのです。つまり、誰かが犯した失敗によって神さまの怒りを買い、不都合な出来事が起こったのだと考えているのです。しかし考えてみると、この考え方では結局、不幸の原因はすべて神様にあると言っているようになります。だから、母の話を聞いて育った私は「神様と言うのは、心が狭くて、すぐ何かで怒り出すような得体のしれない方だ」と思わざるを得ませんでした。もちろん私の母が口にする神とは聖書の語る真の神ではなく、私たち日本人の先祖が考え出した「八百万の神々」のことを言っているのですが…。
今日の聖書の個所で取り上げられているイエスの語られたお話の中にもこれと似たような出来事が取り上げられています。一つは「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたこと」(1節)と、もう一つは「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人」(4節)のお話です。そしてこの両方とも当時のエルサレムで実際に起こったショッキングな事件を題材にしています。
まず、「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたこと」と言う事件はおそらく、ガリラヤからエルサレム神殿にやって来た何人かの参拝客が、偶発的な事件に巻き込まれて、これもまた当時エルサレムを警備するために駐屯していたローマ総督ピラトの部下である兵士たちによって虐殺されたと言うことを表すものです。
また、「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人」はエルサレムの町に水を運ぶために作られていた水路の塔が何らかの理由によって崩壊して、その瓦礫の下敷きになって十八人が命を失ってしまうと言う事件です。どちらのお話でも犠牲者は、たまたまそこに居合わせただけで不幸にも命を失うということになってしまったのです。
人間は自分が体験した出来事の理由を探し求めると言う習性を持っています。それではこの事件の犠牲者たちの死の原因はどこにあったのでしょうか。当時のユダヤ人たちはそれは事件の犠牲者たちの抱えていた「罪」の問題にあったと考えたのです。人間の目には分からなくても、人のすべてをご存知の神が彼らの隠していた罪に対して厳しい罰を与えたのがこの事件の真相であり、彼らの理不尽な「死」は神によって引き起こされたと説明したのです。ところが、この考え方には一つの大きな落とし穴があります。それは、この事件に巻き込まれなかった者はそこで命を失ってしまった犠牲者たちとは違い、神から厳しく裁かれるべき罪を持っていなかったと言うことになるのです。つまり、その事件に巻き込まれなかったことこそが自分が神から「無罪判決」を受けている証拠だと考えたのです。だから、イエスはこのような落とし穴に陥った人々に次のような警告の言葉を語っているのです。
「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(5節)。
このイエスの言葉から分かることは第一に私たちはたとえ自分が不幸な事件に巻き込まれていなくても、すべての人間が神の厳しい裁きを受けて滅びるべき深刻な罪を持っているというと言うことです。さらに第二に分かることは、不幸な事件に巻き込まれた人の死の原因は決して神にあるのではないと言うことです。現在でも日々、事件や事故で命を失う人々はたくさんおられます。さらには戦争の犠牲になって命を落とす人たちもたくさんいることをテレビのニュースは私たちに伝えています。しかしこれらの人々の死の原因は決して神の裁きによるものではありません。むしろすべての事件や事故、また戦争の原因は何らかの形で人間が作り出したものと言えるのです。だからこそ、私たちはこの不確かな人間社会の現実の中で、確かな神に助けを求めるために、悔い改めを行う必要があるのです。このようにイエスの教える悔い改めとは、私たちが不確かな罪人の集まる人間社会の現実の生活の中で、確かな希望を与えてくださる神に私たちの心の目を向けることだと言えるのです。
3.今、私たちに悔い改めを求められる神
さて、イエスはこの話に続けてさらに「実らないいちじくの木」のたとえを語っています(6〜9節)。なぜ、ぶどう園にいちじくの木が植えられているのでしょうか。確か私は以前の礼拝でもこのことを説明した記憶があります。当時のユダヤ人の作るぶどう園は私たちが知るようなぶどう棚を作ってそこにぶどうの蔓を這わせて育てるようなものではありませんでした。当時の人々はイチジクの木のような別の木を植えて、その木にぶどうの蔓を這わせて育てるスタイルを採用していたのです。だからぶどう園に当然のようにイチジクの木が植えられたのです。もちろん、ぶどう園に植えられる木がイチジクになのは、農夫がぶどうといちじくの実を両方収穫できるからです。しかし、もしそのイチジクが実を結ばない木だとしたら、イチジクの木は地中に深く根を張って、ぶどうの木の成長を妨害することになってしまいます。この物語に登場するぶどう園の主人が「実のならないいちじくの木を切り倒せ」と園丁に命じたのにはそのような理由があったのです。
しかし園丁はこの主人の命令に簡単に従うことができません。おそらく実際にこのぶどう園にいちじくの木を植えて手入れをしたのはこの園丁だと考えられます。だからこそ、それだけイチジクの木に思入れのある園丁には実がならないからと言って、簡単にイチジクの木を切り倒すことはできなかったのです。そこで園丁はぶどう園の主人に「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」(8〜9節)と願い出ているのです。
このたとえ話、昔からぶどう園の主人は「父なる神」を表し、園丁は「救い主イエス」を表すと教えられて来ました。しかし、この解釈ではむしろ父なる神とイエスとの関係が対立的になってしまい、イエスが父なる神によって救い主として私たちの元に遣わされた理由が不明確になるような気がします。なぜなら、聖書を読めば理解できるように父なる神こそが私たち人間の滅びることを喜ばれず、むしろ私たちのために救い主イエスを遣わすことで私たちの命を救おうとされたからです。
また、このたとえ話を読む人は「この話の一年後にイチジクの木がやはり同じように実を結ばなかったら、切り倒されてしまうのだろうか」という疑問を抱きます。しかし、イエスのたとえ話はそのような結末を私たちに伝えていません。おそらく、このたとえ話の中心は私たちに「悔い改め」の大切さを教え、それを明日に引き延ばすことをしないで、今日、私たちが「悔い改め」て神の助けをいただくようにと勧めているところにあると考えることができます。なぜなら、私たちが今日「悔い改め」て、私たちの信仰の目をイエスに向けるなら、このイエスが働いてくださり、私たちの人生にすばらしい実を結ばせてくださるからです。
4.悔い改めとは心の方向転換
先日、リジョイス誌やまじわり誌に投稿した私の文章を読んだ何人かの牧師をしている友人からメールや電話をいただきました。原稿を書くのはとても大変でしたが、そのことで改めて友人たちとの関係を深められたことはとても感謝なことだと思いました。その中で、私の大先輩の牧師から私の書いた入船尊と言う私の神学校時代の先生についての思い出に対する感想が送られて来たのです。私は当時入船先生にとって決してよい生徒ではありませんでしたが、先生はその私を見捨てることをされなかったと言う話を書いて、その入船先生の語る言葉には愛の実体が伴っていたと言うことを私は記したのです。
その先輩の牧師からのメールには、すでに天に召された入船先生の死にまつわるお話を書いた文章が紹介されていました。私がその文章を読んで強く心惹かれたのは「入船先生にとって死の問題はすでにキリストにあって解決済みであった」と言う言葉でした。誰もが同じように自分の死の問題を抱えて生きています。自分に必ずやって来る死という現実を私たちはどのように受け止めることができるのか。しかし、私たちが必死になって自分で死の問題と格闘しても、解決を見出すことができないために私たちはさらに悩み続けているのです。しかし、聖書はこのことについて私たちに力強く語ります。私たちの死の問題はすでにキリストによって解決済みなのです。なぜなら、イエスは既に十字架の死に勝利され、私たちのために復活してくださったからです。だから、私たちは自分で解決のできないことで悩み続けるのではなく、その不安や悩みを持ったままで救い主イエスに信仰の目を向けることが大切なのです。なぜならすべての問題を解決できるのは私たちではなく、私たちの救い主イエスだけだからです。
「わたしは不信仰な人間なので、それを改めてから教会に伺うようにいたします」。私たちの語る教会へのお誘いに、このような丁寧な言葉で断られる方がいます。しかし、私はこのような言葉を聞くたびに「そんなことを言っていたら、いつこの人は教会に来られるのだろうか」と疑問を感じるのです。「悔い改め」を誤解して考えている人は、自分の抱える問題を自分が解決したうえで、神に心を向けようと考えます。しかし、私たちは自分が抱える問題を自分の力で解決できない罪人なのです。そして救い主イエスはその深刻な罪人である私たちの問題を解決するために十字架にかかって、命をささげてくださったのです。さらにそのイエスの復活は、イエスが私たちの抱えるすべての問題をすでに解決してくださったことを私たちに示すものなのです。だからこそ、私たちは自分の力では解決できない問題を抱えながらでも、また不安や恐れを抱えていても、そのままで「悔い改め」て私たちの信仰の目を救い主イエスに向けなければなりません。そうすればイエスが私たちの人生を通して働いてくださり、私たちの人生に相応しい実を結ばせてくださるからです。
イエスがこのお話の中でいちじくの木が一年後にどうなったかを語っていないことには私たちにとって深い意味があると思います。なぜなら、このいちじくの木が一年後にどうなっているかについては私たちが自分の人生を通して答えるべきものだからです。だから神は私たちも、今、悔い改めて救い主イエスの提供する私たちのための解決策を受け入れることでこの神からの問いかけに答えて行きたいのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスのもとに何人かの人がやって来て告げたことは何でしたか(1節)。またこの言葉にイエスはどのように答えられましたか(2〜3節)。
2.このイエスの言葉から当時のユダヤ人がこのような事件の被害者たちについて何を考えていたことが分かりますか。さらにイエスはそのようなユダヤ人たちの考え方をどのように見られていたこが分かりますか。
3.シロアムの塔が倒れて死んだ十八人の人たちについてイエスはどのような説明をされましたか。また、この出来事を通してイエスはどのような警告を語られましたか(4〜5節)。
4.ぶどう園の主人はなぜ園丁に「いちじくの木を切り倒せ」と言う命令を語ったのでしょうか(6〜7節)。
5.この命令に対して園丁はどのような言葉を語りましたか(8〜9節)。わたしたちがこのたとえ話から学べることはどのようなことですか。