1. ホーム
  2. 礼拝説教集
  3. 2022
  4. 3月6日「荒野で誘惑を受けるイエス」

2022.3.6「荒野で誘惑を受けるイエス」 YouTube

ルカによる福音書4章1〜13節

1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を"霊"によって引き回され、

2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。

3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」

4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。

5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。

6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。

7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」

8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」

9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。

10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』

11 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」

12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。

13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。


1.荒れ野の誘惑

①洗礼志願者を訓練する期間

 今週から教会の礼拝は受難節(四旬節)に入ります。この受難節はイエス・キリストの十字架に至るまでの苦しみ、そして受難を思い起こすことで、私たちのために実現した神の救いの御業の素晴らしさを心に覚えるために用いられます。現代では新しく信仰に入る人に施される洗礼式は教会や洗礼を受ける本人の都合に合わせて随時行われるようになりました。しかし、歴史を調べて見ると古代教会では一年に一回、特にキリストの復活をお祝するイースターの日の前夜に洗礼式が行われる習慣があったようです。

 さらにこの受難節は別名で「四旬節」とも呼ばれています。この「四旬節」とは「四十日間」の期間を表す名称です。古代教会ではこの四十日間に新しく信仰を得て教会に加わろうとする人たちを訓練する期間として用いられていたことが分かっています。現代でも、洗礼を志願する人に対して教会はその準備の期間を設けて、さまざまな教育を行っています。それは健全な教会生活を送っていくために重要な学びの期間であり、教会はその教育の責任を負っているのです。古代教会ではこの教育が現代の教会よりもさらに厳格に行われていたと言います。なぜなら、公に信仰の自由が認められている現代の社会とは違い、ローマ帝国の時代の信仰者たちはその信仰のゆえに厳しい迫害を受けていたからです。当時はキリスト者が信仰を貫くために命さえ奪われかねないという時代でしたから、洗礼を受ける者にはそれなりの決心が求められることになります。ですから、この決心を固めるためにもこの四十日間の訓練は大切な意味を持っていたのです。

 この受難節の礼拝の最初に私たちは「荒れ野の誘惑」と人々に呼ばれることの多い聖書の箇所を読むことになっています。救い主イエスの活動は彼がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたときから始まります(ルカ3章21〜22節)。そしてその出来事に続くのが今日の「荒れ野の誘惑」の出来事です。これはイエスの受けられた誘惑を紹介することで、これから新たに信仰に加わるために洗礼を受ける人々に「あなたたちもこのような誘惑に気を付けるよう」という警告を送り、同時にもし誘惑にあったらどのように対処すればよいのかを、イエスの姿から学ぶために書かれていると考えることができます。


②悪魔とは、悪とは何か

 「信仰に入れば人生はすべてうまくいく」。もしそのような期待を持って洗礼を受け、信仰生活を始めた人がいれば、その人は悪魔の誘惑を受けて簡単に信仰を捨ててしまう可能性があります。実は今日の物語に登場する悪魔はイエスに対してむしろたいへんに「都合のよい」話を持ちだして誘惑しています。私たちは悪魔の働きというとオカルト映画に描かれるように奇怪な働きするような存在として連想しがちですが、ここに登場する悪魔はそのような存在ではありません。悪魔はイエスに近づき大変に「都合のよい」提案を彼に持ち出して、誘惑したのです。

 私たちはいつも主の祈りで「わたしたちを誘惑から導き出して、悪よりお救いください」と繰り返し祈っています。私たちはこの祈りの言葉を誤解しないようにすべきだと思います。なぜなら私たちはこの祈りの言葉を「自分の人生で自分を苦しめるような都合の悪い出来事が起こらないようにしてほしい」と考えがちだからです。しかし、それは大きな誤解であると言えます。

 なぜなら、聖書の示す「誘惑」とは私たちを真の神から引き離そうとするすべての企みを指し示しているからです。これは「悪」と言う言葉の意味でも同じです。この「悪」とは私たちにとって都合のよくないことを言っているのでありません。むしろこれは私たちと神との関係に障害をもたらすようなすべてのことを「悪」と呼んでいるのです。

 たとえば私たちは誰の人生の上にも必ず起こる「老い」、「病」、そして「死」という出来事を自分にとって「不幸な出来事」、あるいは「悪い出来事」と考えています。しかし、このことも私たちと神との関係から考え直してみると違った見方ができます。なぜなら、多くの場合に私たちが「老い」や「病」、そして「死」という出来事に遭遇するとき、むしろ自分の弱さを感じたり、人生の不確かさを悟ることで真の神への信仰を求めることになって、神との関係を深める機会となるからです。しかし、例えばせっかくその人が病と向き合うことで神を信じるきっかけを得たとしても、その人の健康が回復されて、「もう神を信じる必要はない」ということになれば、その人にとって「健康」は神と自分の関係を破壊するような悪い出来事と解釈することができます。こう考えると私たちの人生に起こるどのような出来事でも私たちと神との関係を深めるためのものになりますし、その反対に私たちを神から遠ざける「悪」ともなりえる可能性があるのです。


2.試練の意味

 私たちは先ほどから今日の聖書の物語を「荒れ野の誘惑」と呼んでいますが、この物語は「荒れ野の試み」と呼ばれることもよくあります。この出来事を悪魔の働きから考えれば「誘惑」と呼ぶことができます。しかし、むしろこの出来事を神の視点から考えるならば「試み」、あるいは「試練」と私たちは呼ぶことができます。

 このことを理解するのによい聖書の箇所があります。それはかつて荒れ野を四十年間の間、旅することになったイスラエルの民に向けて語られた彼らの指導者モーセの言葉の中にあります。

「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。」(申命8章2〜5節)

 このようにモーセはイスラエルの民の四十年間にわたる荒れ野での出来事を彼らと神との関係を確かにさせるための訓練の期間であったと教えているのです。この訓練はこれから約束の地で生きていこうとするイスラエルの民にとって必要なものでした。なぜなら彼らがその地で神からの祝福を受けて暮らすためにこの訓練から得た経験は大切な役割を果たすことになるからです。

 これは私たちの信仰生活にとっても同じことが言えると思います。私たちも信仰生活を続ける中で、私たち自身が思ってもいなかったような様々な出来事を経験します。しかし、もしそれがたとえ私たちにとって都合のよくない出来事と考えられたとしても、その出来事を通して私たちが神に向き合うならば、私たちと神との関係を深めることができるのです。そしてその訓練を私たちが受ければ神が私たちの人生のために準備してくださった真の祝福を受けることができるようにもなるのです。


3.み言葉による勝利

 それでは私たちは私たちの人生に起こった出来事を誘惑という悪魔の観点から理解するのではなく、かえって私たちと神との関係を深めるための訓練として受け止め、それに対処していくためにはどうしたらよいのでしょうか。今日の物語に登場するイエスの姿はそのような疑問を持つ私たちのためによき模範を示し、私たちを助けるものと考えることができます。

 ここでの悪魔のイエスに対する誘惑は三回にわたって行われています。しかし、その三回の誘惑に対してイエスが対処した方法はみな同じものでした。なぜなら、イエスはすべての誘惑に対して旧約聖書に記されているみ言葉を使って悪魔の誘惑に勝利されているからです。

 最初の誘惑は「石をパンにしてみなさい」というものでした(3節)。聖書を読んでみるとここに記されている出来事は四十日間の最後に起こったことがわかります。このときイエスは四十日間の断食を終えられたところで「空腹をおぼえられ」いました。だからそこらに落ちている石をパンに変えれば簡単に空腹は解消されます。神の子イエスの力であればそれも可能なはずです。しかしイエスは『人はパンだけで生きるものではない』という言葉でこの誘惑に答えています。これは先ほど引用した申命記8章3節の言葉です。

 また、次に悪魔は「自分を拝むなら全世界をあなたに与えよう」とイエスを誘惑しました(6〜8節)。悪魔はイエスに「全世界を支配する王にしてやろう」と持ちかけるのです。そこでイエスはこの誘惑に対しは「あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ」というやはりこれも申命記6章13節の言葉を使って答えています。

 そして最後に悪魔はイエスに「エルサレム神殿の頂上から飛び降りて、神が天使を遣わしてあなたを守ってくださるかどうかを試してみよ」と誘惑しました。ところがイエスはこの誘惑に対しても「あなたの神である主を試してはならない」というやはり申命記6章13節の言葉を使って応戦されているのです。

 悪魔の力と働きには私たちの持つ力も知恵も太刀打ちできません。だから私たち自身は無力で悪魔と戦うことはできません。しかし、この悪魔に勝利することのできるお方がおられます。それが私たちの神であり、またその神が私たちのために遣わしてくださったイエス・キリストなのです。そしてその神は聖書のみ言葉を通して私たちの信仰生活に御業を表してくださるのです。だからこそ、私たちの信仰生活にとって聖書のみ言葉を読むこと、そのみ言葉を心に蓄えることは最も大切なことだと言えるのです。

 このように私たちが悪魔の誘惑に勝利して、その出来事を通して神との関係を深めていくためには私たちが聖書の言葉を信じて生きることが大切だと言えます。しかし、もし私たちが困難な出来事に直面したとき、そのときになってあわてて聖書の言葉から答えを探そうとしても簡単にそれを見つけることはできないはずです。イエスもここで手持ちの聖書を開いて、そのときに見つけた言葉を悪魔に語っているのではありません。イエスは自分が常日頃、繰り返し唱えている聖書の言葉をここで語ったと言えます。だからこそ、私たちの毎日の聖書の学びは大切になるのです。なぜなら、日々私たちの心の中にたくわえられて行く神のみ言葉が私たちが困難に直面したときに、私たちの信仰生活を助けるものとなるからです。

 ここでもう一つ注意すべきことがあります。それは聖書の言葉をその前後関係を無視して勝手に解釈することは大変危険なことだと言うことです。なぜなら、この「荒れ野の誘惑」の場面では悪魔も聖書の言葉の引用をしているからです(詩編91編11〜12節)。この言葉はもともと、詩編記者が持っていた神への信頼を力強く歌う言葉の一部です。ところが悪魔はこの言葉をむしろ信仰者に神への疑いを持たせるようにするために用いているのです。聖書の言葉をそれが書かれた文脈を無視して、勝手に自分の好きな言葉だけを選んで覚えることは大変危険です。ある牧師は「自分にふさわしいみ言葉が神から与えられない…」と嘆く信徒に、それは自分にとって都合のよい言葉がないということではないか、だからそのように考える人は神の言葉を正しく聞こうとする態度を持っていないと語っています。

 ですから、私たちが私たちの人生に語られる神の言葉を聞くためには、普段から選り好みせずに聖書の言葉を読み進めていく必要があるのです。


4.私たちに代わって悪魔に勝利されたイエス

 さて、私たちが悪魔の誘惑から守られ、それを神と私たちとの関係を深める機会とするためには今、申しましたように私たちが聖書の言葉に答えを求めることが大切です。神はそのみ言葉を通して私たちの心に働いてくださり、私たちの心に蓄えられている言葉から、そのときの私たちにふさわしい言葉を与えて、私たちを励ましてくださるからです。

 しかし、この「み言葉を覚える」と言う以上に私たちの勝利にとって大切なことがあります。それはこの「荒れ野の誘惑」の物語が私たちに示しているように、主イエスご自身が悪魔とたたかい、悪魔にすでに勝利しておられることです。確かに悪魔のイエスに対する誘惑はこの荒れ野で終わってしまったわけではありません。主イエスはむしろその生涯を通してて悪魔と戦い、また十字架の出来事を通して悪魔に勝利してくださったと言えるのです。

 主イエスはどうして私たちと同じように洗礼を受け、私たちと同じように悪魔の誘惑を受けられたのでしょうか。この誘惑は私たちの信仰の訓練のために与えられているものでもあると語りました。しかし、それならなぜ神の子であるイエスがこのような訓練を受ける必要があったのでしょうか。洗礼者ヨハネの施した洗礼は罪人が悔い改めて、神の許しを受けるためのものでした。それならば、なぜ罪のない神の子イエスがヨハネのもとで洗礼を受ける必要があったのでしょうか。それはイエスが私たちの代表者となってくださるためです。

 イエスは私たちの代表者として私たちの救い主としての使命を果たされました。そしてイエスを信じる者はすべて、イエスがその生涯を通して実現されたものすべてのものを受け取ることができるのです。だからこそ、誘惑に勝利したイエスの出来事は、私たちのためのものでもあって、私たちはこのイエスによって既に悪魔に勝利していると言えるのです。

 私たちがしばらく学んでいたヨハネの黙示録も悪魔に対する主イエスの戦いの勝利を強調していました。なぜなら、私たちはこのイエスによって悪魔からのすべての誘惑にすでに勝利しているからです。だからこそ、私たちは自分の人生に起こるできごとを悪魔からの誘惑と考えて恐れる必要はありません。むしろ、私たちはこの出来事を私たちの信仰生活のための訓練として、神と私たちとの関係を深める機会として信じることができるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスがヨルダン川で洗礼を受けられた後でどんなことが起こったと聖書は言っていますか(1〜2節)。

2.「石にパンになるように命じろ」と言う悪魔の誘惑にイエスはどのような言葉で答えられましたか(4節)。

3.悪魔がイエスに「すべての国々の権力と繁栄を与えよう」と言う誘惑したとき、悪魔はイエスにどのようなことを求めましたか(7節)。またこの悪魔の誘惑に対してイエスは何と答えられましたか(8節)。

4.神殿の上でイエスに「ここから飛び降りて見よ」と誘惑した悪魔の誘惑の狙いはなんですか。イエスはこの誘惑に何と答えられましたか(9〜12節)。

2022.3.6「荒野で誘惑を受けるイエス」