2022.4.17「イエスの言葉を思い出した婦人たち」 YouTube
ルカによる福音書24章1〜12節
1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。
2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、
3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。
4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。
10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
1.キリスト教と復活信仰
①教会の中心的な教え
今朝はイエス・キリストの復活を祝うイースター、復活祭の礼拝を皆さんと共にささげます。日本ではむしろこのイースターよりもイエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスの方がよく知られています。しかしキリスト教会の歴史を調べて見るとこのクリスマスは紀元4世紀ごろから一般的に祝われるようになったお祭りであることが分かります。イースターはこのクリスマスとは違いキリスト教会が誕生したときから祝われている祭日です。考えようによってはこのイースターの出来事こそがキリスト教会を生み出したものと言うこともできるのです。
「キリスト教会は何を信じ、何を伝えて来たのか」。その信仰の内容を簡単にまとめた文章を教会では昔から「信仰告白」と呼んでいます。この信仰告白の中でも最もよく知られているのは私たちの教会の週報にも毎週印刷されている「使徒信条」と言う文章です。さらに改革派教会が大切にしているハイデルベルク信仰問答も、またウエストミンスター信仰基準も同じように教会の「信仰告白」を表す文章と言うことができます。
それではキリスト教会の中で最も古い信仰告白の文章は何なのでしょうか。聖書を読んでいて思い当たるのは福音書の中で使徒ペトロがイエスに語った「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16章16節)と言う言葉かも知れません。しかし、聖書の成立順序から考えるとむしろこのペトロの信仰告白を記している福音書よりも使徒パウロが書いた手紙の方が古いものであること今では分かっています。つまりパウロの手紙の内容こそが最初の時代のキリスト教会の姿をよく示していると考えることができるのです。そのパウロの記した手紙の中に当時の教会が大切にしていた信仰の内容が記されている箇所があります。パウロの記したコリントの信徒への手紙15章で次のような言葉が残されています。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」(3〜5節)。
ここでパウロが語っているように「キリスト教会は何を信じて、何を伝えているのか」ということを簡単に表すとすれば、「キリストが私たちの罪のために十字架の上で死んでくださったこと」、そして「三日目に復活されて弟子たちに現れたこと」、この二つであると言うことが分かります。さらにパウロはこの文章のすぐ後でキリストの復活に対する信仰の重要性について強調して語っています。
「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」(17節)。
パウロはここでキリストの復活と言う出来事こそが、私たちの信仰の中心に据えられるべきことであることを述べています。なぜなら、キリストの復活と言う出来事こそが聖書に記されたすべての教えが真理であることを証明する大切な出来事であるからです。このように私たちはこのキリストの復活と言う出来事を「私たちを驚かす突飛な出来事」とだけ理解するのではなく、今も私たちの教会を支え、私たちの信仰を確かなものとするために出来事であると理解する必要があるのです。
2.開かれていた墓
①キリストの復活についての通常の反応
さてこの使徒パウロの活動を詳しく伝えている使徒言行録はパウロがギリシャのアテネで人々に福音を伝えていたときにどのようなことが起こったかを報告しています。アテネの人々は途中まではパウロの語る福音の言葉を興味津々に聞いていたのですが、パウロが「死者の復活ということ」について語り出した途端に彼らは態度を変えてしまいます。なぜなら、彼らは「死者の復活などと言う話は信じることのできない」と考えたからです。そしておそらくこの反応こそが聖書の語る「復活」と言う出来事を聞いた人々が取る普通の反応であると考えることができるのです。聖書を読むと、実はキリストの復活と言う出来事に出会った弟子たちも当初は同じような反応を示していたことが分かるのです。
「キリストの復活などと言う出来事は「死んだイエスが甦ってほしい」と願っていた弟子たちが作り出した架空の話だ」と批判する人がいます。しかし、聖書に登場する弟子たちはむしろ、キリストの復活と言う出来事に出会ったとき混乱し、それを信じることができないでいたことが分かるのです。そのような意味で聖書に登場する弟子たちの姿は、普通の人間と全く変わらない人々であったと言えるのです。それでは神はこのような弟子たちにどのようにしてキリストの復活と言う神秘的な出来事を受け入れさせ、また、それを信じる者たちに変えてくださったのでしょうか。私たちはそのことについて、今日の聖書箇所から少し考えてみたいのです。
②取り除かれていた石
イエスが十字架の上で死なれたのは金曜日の日、つまり土曜日の安息日前日の出来事であったと聖書は教えています。この後、イエスの遺体はアリマタヤ出身のヨセフというユダヤ人の宗教議会の議員に引き渡されています。なぜならイエスが逮捕された後、イエスの弟子たちは皆逃げだしてしまっていたからです。そしてイエスの遺体の引き取り手となったこのヨセフと言う人物について福音書は「善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった」(ルカ23章50〜51節)と説明しています。イエスを死刑にするためにローマ帝国の総督であるピラトに訴えたのはこの宗教議会のメンバーでした。その中で彼だけはその決議に加わらなかったと言うのですから、彼が信念と勇気を持った人物であることが分かります。このヨセフがイエスの遺体を自分の持っていた墓に葬ったのが、安息日の始まる直前です。この安息日は日没から始まります。ですから、イエスの遺体が葬られたのは金曜日の夕方であったことが分かるのです。
今日のお話は次の土曜日、つまり安息日が終わった後、日曜日の朝の出来事から始まっています。この朝、何人かの婦人たちがイエスの墓を目指していました。ルカは彼女たちについて「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった」(10節)と紹介しています。彼女たちはイエスが墓に葬られるときにもヨセフの後に着いて行き、遺体が墓に葬れたのを確認していました(23章55節)。この後、彼女たちは家に帰り、香料と香油を準備して安息日が終わるのを待ちました。それはイエスの遺体を自分たちの手で改めて丁重に葬るため、それをすることで彼女たちはイエスとの最後の別れの時を持つためでした。
当時のユダヤの墓は横穴を掘ってそこに遺体を安置して、入り口を大きな石でふさぐというようなものでした。ですから入り口をふさぐ石によって余計な人が墓の中に入って来て、内部を荒らすことがないようにされていたのです。ところが彼女たちがイエスの遺体が葬られた墓の前に到着すると、その石が墓のわきに転がしてあり、墓の入り口が開いていたと言うのです。そのため彼女たちは簡単にイエスの遺体が葬られていた墓の中に入ることができ、そこにあったはずの主イエスの遺体がなくなっていることを発見したのです。
さて、皆さんはこの場面で「墓をふさいでいた石が誰によって、どうしてそのようにわきに転がされていたのだろう」と考えてみたことがおありでしょうか。普通であれば、私たちはこう考えるはずです。「おそらく彼女たちの到着するずっと以前にイエスは甦られていた。だからその復活されたイエスが墓の入り口にあった石をどけて、外に出て行かれたのだ」と。これは復活の後でもイエスの体が生前の姿と全く同じだと考えるなら、納得できる答えです。しかし、私たちは聖書の他の個所で復活されたイエスの姿についてこんな記述が記されていることを知っています。ヨハネによる福音書20章19節は復活されたイエスの姿についてこう語っています。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」
復活されたイエスはこのとき鍵が掛けられて、戸が閉まっていた部屋の中に自由に入って来ることができました。ですから復活されたイエスには戸を開ける必要がなかったのです。このことを考えると「墓の石はイエスが外に出て行くために取り除いた」と考えるのは間違いであることが分かります。それではなぜ墓の石が転がされていたのでしょうか。それは今日の物語が教えているように、墓にやって来た婦人たちが中に入ってイエスの遺体がそこにないことを確認するためです。つまり、この石はイエス・キリストの復活と言う出来事を婦人たちに知らせるために神がどけてくださったと考えることができます。
マルコによる福音書を読むとこのとき墓に向かっていた婦人たちは「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」(16章3節)と語り合っていたことが分かります。この石はイエス・キリストの復活と言う出来事を知り、それを信じるために婦人たちに最大の障害となっていたものだと言えるのです。そしてこの障害は彼女たちの力では決して取り除くことができるものではありませんでした。だから、神はあらかじめ彼女たちのためにこの障害物を取り除いて、彼女たちにイエス・キリストの復活という出来事を知らせようとしたのです。
確かに私たち人間がイエス・キリストの復活と言う出来事を受け入れるためには様々な障害が存在すると言えます。「死んだ人間は決して生き返ることはない」と言うことを私たち人間は教えられて続け、自分でもそのことを体験を通して知っています。そして人間の経験から生み出された科学もそのことを裏付け証明してくれるのです。ですから私たちがこのような障害物を自分の力で取り除くことはできないと言ってよいのです。しかし、神は私たちがイエス・キリストの復活と言う出来事を受け入れるために障害物となっているものをすべて取り除いてくださるのです。ですから、私たちはこの神の御業に信頼して、イエス・キリストの復活という出来事に向き合うべきだと言えるのです。そうすれば、最初の日曜日にイエス・キリストの復活を知らされた婦人たちと同じように、私たちにもこの出来事が真実であることを確信できるように神はしてくださるのです。
3.イエスの言葉を思い出した婦人たち
①天使たちの勧め
さてこのときイエスの墓に入って、そこに遺体がないと言うことを知った婦人たちは途方に暮れて、どうすることもできなくなってしまいます。するとそこに「輝く衣を着た二人の人」が現れたと聖書は語ります。これは神のみ使い、天使の姿を示すために聖書が用いる表現です。そしてこの天使たちはイエスが甦って、生きておられることをそこにいた婦人たちに告げています。そのときに天使たちは彼女たちがイエス・キリストの復活を正しく理解するために何が必要であるかを次のように教えているのです。
「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」(6節)。
天使たちはここで婦人たちに「イエスが語ったことを思い出しなさい」と語っています。なぜならイエスはご自分の死と復活についてガリラヤにいた頃から弟子たちに何度も教えていたからです。そして天使はそのイエスの言葉を彼女たちに思い出させようとしたのです。
「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(7節)。
そして福音書はこの天使たちの言葉を聞いた婦人たちが「イエスの言葉を思い出した」とわざわざ記しているのです(8節)。
ここから分かることは、私たちがイエス・キリストの復活と言う出来事を信じ受け入れるために必要なことは、イエス・キリストの言葉を思い出すと言うこと、そしてそのために聖書の言葉に耳を傾ける必要であると言うことです。イエス・キリストの復活は神が実現してくださった驚くべき奇跡です。ですから私たちがその出来事を理解するために人間の知識や科学に頼っても正しく理解することはできません。しかし、神は私たちがイエス・キリストの復活を受け入れることができるようにと聖書の言葉を与えてくださったのです。だから、私たちはこの聖書の言葉に耳を傾け、その言葉を思い出す必要があるのです。
②助け主であり聖霊の働き
イエスはかつて十字架におかかりになる前に、弟子たちに対して助け主である聖霊を送ってくださると言う約束してくださいました(ヨハネ14章15〜31節)。そしてイエスはその聖霊の働きについてこのようなことを語っています。
「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(26節)。
このイエスの言葉によれば私たちがイエスの言葉を思い起こすことができるのは、私たちの力ではなく、神が私たちの上に遣わしてくださる聖霊の働きによるものであることが分かります。ですから、聖書が教える「イエスの言葉を思い出す」と言う行為は、私たちが忘れていたことを思い出すという単純なことを表しているのではありません。そうではなく、「イエスの言葉を思い出す」とは、私たちが否定することができないほど確かなものとして私たちの心にイエスの言葉が聞こえてくると言うことを表しているのです。そしてこれこそが復活されたイエス・キリストが私たちのために遣わしてくださる聖霊の働きであると言えるのです。
このことについて同じルカによる福音書の中に記されている復活されたイエスと二人の弟子との出会いの物語は私たちに興味深いことを知らせています。このときエマオと言う村に向かうために道を急いでいた二人の弟子のところに、復活されたイエスが近づいて来て話しかけられます。しかし、このとき心の目が閉ざされていた二人の弟子はこの方がイエスであることが分かりませんでした。やがて、彼らが自分たちに語りかけてくださった方こそが復活されたイエスであったとわかったとき、彼らは次のような自分たちの体験を語っているのです。
「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(ルカ24章32節)。
聖霊はこのときの二人の弟子と同じように、私たちの心の目を開いて聖書の言葉を思い出させてくださいます。そして私たちにイエス・キリストの復活を信じることができるようにしてくださるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.週の初めの日の明け方早く婦人たちは何をしに、どこに行きましたか(1節)。
2.婦人たちはイエスの遺体が葬られた墓でどうして「途方に暮れる」ことになったのですか(2〜3節)。
3.輝く衣を着た二人の人物は誰でしたか。彼らは婦人たちにどのようなことを伝えましたか(4〜7節)。
4.この人たちの言葉を聞いて婦人たちは何を思い出しましたか(8節)。
5.婦人たちからこの一部始終を聞いた弟子たちはどのような反応を示しましたか(9〜11節)。
6.この婦人たちの話を聞いたペトロは何をしましたか。彼はイエスの墓で何を確認して家に帰りましたか(12節)。