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2022.4.24「弟子たちの前に現れたイエス」 YouTube

ヨハネによる福音書20章12〜31節

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。

24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。

25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。

31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。


1.ヨハネの時代の教会の人々

 先日の礼拝では大会創立記念日のための献金を皆さんのご協力でささげることができました。これは1946年4月28日に私たちの日本キリスト改革派教会が創立されたことを記念するための献金です。歴史を調べて見ると日本の敗戦はこの年の前年の1945年8月となっていますから、改革派教会はまだ戦争が終わって一年も経たない内に創立されたことが分かります。この日本の地に宗教改革の精神に基づく改革派教会を作ろうと考えた創立者たちの思いは、彼らが記した「創立宣言」と言う文章にまとめられています。まだまだ、戦争の傷跡が残されている当時の日本の地で創立者たちは改革派信仰に基づく教会を立てることが、日本の再建はもとより、新しい世界を作っていくために重要であることをこの創立宣言の中で語っています。私がまだ神学生のときにはこの創立宣言に関わった先輩の信仰者たちが何人も存命中でいろいろな機会にその方々のお話を聞くことができました。しかし、創立から80年近い歳月が流れるとすでにそのような方々のほとんどが天に召されてしまいました。そのため今は改革派の創立時に生きた方々の証言を聞く機会はなくなっています。確かに創立に関わる人々の思いは今でも残されている数々の文章で確かめることができますが、創立者たちがそのとき抱いた信仰熱心を知ることは難しくなっているのかも知れません。

 先日のイースター礼拝ではイエス・キリストの復活が私たちのキリスト教信仰を支える重要な出来事であることを学びました。また、この時に復活された主イエスは今も私たちに対してご自身が生きておられることを恵みを持って証ししてくださっていることも学んだわけです。そこで今日の礼拝ではヨハネによる福音書が伝える物語から同じように復活された主イエスがその弟子たちの信仰の共同体に現れたことを学び、私たちが今ささげている礼拝と主イエスの復活と言う出来事がどのように結びついているかを学びたいと思います。

 先ほど、私たちの改革派教会も創立から80年近い年月が流れていると言うお話をしました。実は今日、私たちが読んでいるヨハネの福音書も福音書の中では最も後に書かれたものと考えられています。一説によれば早くても1世紀末に書かれた作品と考えられています。つまり、このヨハネによる福音書の成立したころには復活された主イエスに出会った人々のほとんどが世を去ってしまっていました。当時の教会では、直接に地上でのイエスの姿を知る人はいなくなっていたという実情があったようです。もちろん、彼らの証言は新約聖書の文書などを通して伝えられていました。しかし、復活の主に出会った人々が喜びに満たされ、感動を持ってはじめた日曜日の礼拝の本当の意味を知る人は少なくなっていたと考えることができます。ですからヨハネはこのような人々に教会で毎週ささげられている礼拝と復活された主イエスはどのように関係しているのかをこの福音書の物語を通して明らかにしようとしたと言えるのです。


2.復活の主との出会いの場

 そこでまず大切になってくるのは、「私たちが毎週日曜日の日に教会に集まって、信仰を同じくする兄弟姉妹と共にささげている礼拝では毎週いったいどんなことが起こっているのか?」と言うことです。ヨハネはそのことを私たちに教えるためにイエスが復活された最初の日曜日の出来事に戻って教えようとするのです。

 今日の物語は次のような言葉で始まっています。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(19節前半)。

 この「週の初めの日」とはイエスが復活された「日曜日」のことを指しています。この日曜日の早朝にイエスの遺体が葬られていた墓に向かった何人かの婦人たちが、イエスの遺体がそこからなくなっていること、そしてその墓に現れた天使たちから「イエスが復活された」と言うことを聞いたということを他の弟子たちに伝えました。ところが、この話を婦人たちから聞いた弟子たちの反応はむしろ主イエスの復活に対しては否定的なものであったことが聖書では報告されています(ルカ24章11節)。おそらく、彼らは婦人たちの話を聞いても混乱するばかりで、この日に起こった出来事を自分たちの力では理解することができかったのでしょう。むしろこのときの弟子たちの一番の関心は、イエスを逮捕して殺害した人々がそのイエスの仲間たちと思われている自分たちを捕まえに来るのではないかと言うことです。彼らはそのような心配から恐怖に捕らわれていました。そしてその恐怖に捕らえられた彼らにできることは自分たちのいる部屋の戸をしっかりと閉めて、鍵をかけることだけだったと言うのです。そして、福音書はこの鍵のかけられたエルサレムの一室の中に復活されたイエスが現れたと報告しています。

 ここで大切なのは復活されたイエスが日曜日の日に弟子たちが集まった場所に現れたという事実です。なぜなら、ここに記されている弟子たちの集まりこそが、私たちが今ささげている日曜日の礼拝の原型でありルーツであるとも言えるからです。つまり、ヨハネはこの福音書の物語を通して私たちに、今ささげている礼拝こそが私たちが復活された主イエスに出会う場所であることを教えようとしていると言えるのです。

 教会が毎週日曜日にささげている礼拝は人間が営む他の集団の集まりとは全く違うところがあります。それは復活されたイエスが今も、この礼拝に集まる人々と出会ってくださっているからです。このこと理解するために参考になるのはこの同じ聖書箇所に記されている弟子トマスについての物語です。トマスは残念ながら復活された主イエスが弟子たちの前に現れたときにそのイエスを見ることができませんでした。ヨハネはその理由を彼が「イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」(24節)と語っています。つまりトマスだけは日曜日の礼拝に出席していなかったのです。だから彼は復活された主イエスに出会うことができなかったのです。しかし、やがてこのトマスも復活された主イエスに出会う時が訪れます。ヨハネは「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた」と言う言葉を使って私たちに報告しています。(26節)この「八日の後」とは最初の日曜日の日を数に入れていますので、ちょうど一週間後の日曜日を表しています。ですからトマスは日曜日に他の弟子たちと共にいたときに復活されたイエスと出会う機会を得ることになったのです。

 私たちが教会に毎週日曜日の日に集まって礼拝をささげる本当の意味は、そこで私たちが復活されたイエスと出会うことにあることをヨハネはこの物語を通して私たちに明らかにしようとしているのです。


3.主イエスの「平和」

①復活された主イエスが与えてくださる平和

 さて、それでは私たちはこの日曜日の礼拝で復活されたイエスと出会うことによって、そこでどのような体験をするのでしょうか。ヨハネの語る物語はさらにそのことも私たちに明らかにしようとしています。

「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた」(19節後半)。

 この福音書や新約聖書の文章は皆ギリシャ語で書かれています。しかし、ここで実際に主イエスが語った言葉はおそらくヘブライ語で「シャローム」と言う言葉であったと考えることできます。この「シャローム」はユダヤ人の間では日々交わされる挨拶の言葉として用いられますが、元々の意味は「平和」はあるいは「平安」と言う意味を持っていました。ですからここでは主イエスが実際にその「平和」を弟子たちに与えたと言うことになるのです。なぜならイエスはこの少し前の聖書の個所で弟子たちに「平和を与える」と約束されているからです。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14章27節)。

 私たちは「平和」と言うと、自分たちがこの世に起こる様々な災いや問題から守られることで実現すると考えています。だから自分の人生にそのような災いや問題が起こらないように必死になって、自分を守ろうとするのです。しかし、このような「平和」はなかなか実現することはむずかし上に、自分の人生に何かが起こるとすぐ壊れてしまうものだと言えます。この時にエルサレムの一室に閉じこもって内側から鍵をかけていた弟子たちはこの平和を失いかけていました。なぜなら彼らの持つ平和は自分たちを捕まえに来る者たちによって簡単に破壊されてしまうものだからです。しかし、イエスの与える平和はそのようなものではありません。この平和はむしろ問題の中にある者の上にも主イエスから与えられるものであるとも考えることができま。そして、この平和は簡単に誰かに奪われてしまうようなこの世の「平和」とは大きく違うのです。

 今も復活されたイエスはこの礼拝に集まる私たちと出会ってくださり、この平和を与えてくださると言うことをヨハネはここで教えています。私たちの教会堂には「シャローム・チャペル」と言う名前が記されています。実はこの名前の由来はこの復活の主イエスが語られた言葉に由来しています。そしてこの教会堂に集まって礼拝をささげる私たちに主イエスからが約束してくださった「平和」が豊かに与えられることを表すために、この名前が付けられたのです。


②示された傷跡

 さてそれではこの主イエスが与えてくださる「平和」は私たちにどのようにして与えられるのでしょうか。ヨハネはそのことについて続けて次のように語っています。

「そう言って、(主イエスは)手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」(20節)。

 主イエスが弟子たちにこの時に見せたご自身の「手とわき腹」には十字架で負った傷がはっきりと残されていました(27節)。ですから主が与えて下さる平和は主イエスの十字架の傷跡が示されるところ、つまりこの礼拝で朗読される聖書の言葉とその聖書の言葉を解き明かす説教を通して私たちに与えられるのです。なぜなら、主イエスの与えてくださる「平和」は主イエスの十字架を通して実現したものだからです。この主イエスの十字架の贖いを通して私たちの罪は完全に赦されました。そして主イエスの十字架を通して私たちに与えられた「平和」はどんなことにも揺るぐことないものなのです。だから、この「平和」を私たちから奪うことができるものは誰もいないと言えるのです


4.復活の主イエスから与えられた使命

 さて、ヨハネは主イエスによって「平和」を与えられた私たちには、その主イエスから新しい使命が与えられたことも教えています。なぜなら私たちの救いは自分の人生に主イエスからの「平和」が与えられることで終わってしまうものではないからです。イエスはこの「平和」を私たちに何のために与えられたのかについてもヨハネは続けて教えようとしているのです。

「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」」(22〜23節)。

 「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と言う言葉は私たちに主イエスが与えてくださった大切な使命を語っています。カトリック教会では教会が任職した一部の聖職者たちを通して「罪の赦し」が人々に与えられると今でも考えています。しかし、この箇所のイエスの言葉は明らかにこのときイエスの言葉を聞いていた弟子たちに語られていると共に、この福音書を読んでいる信仰者たちすべてに語られていると考えてもよいでしょう。ですから私たちプロテスタント教会では「万人司祭」と言う言葉を使って、すべての人に「人の罪を赦す」と言う大切な使命が与えられていると教えるのです。それでは、どうして私たちにそんなことができると言っているのでしょうか。それはその使命を全うするために主イエスが私たちに聖霊なる神を送ってくださるからです。つまり、人の罪が私たちを通して実際に赦されることになるのは、主イエスが遣わしてくださる聖霊の働きであると言えるのです。  ヨハネはこの聖霊が教会で働く一部の聖職者だけにではなく、毎週の礼拝に集い、復活されたイエスと出会うことのできるすべての信仰者に与えられると教えています。だからこそ私たちはこの聖霊によって、主イエスが私たちに与えてくださった使命をこの世で行っていくことができるのです。

 福音書を読むと主イエスによって伝道旅行に派遣された弟子たちが、その旅先から喜びに満たされて主イエスの元に帰って来た出来事が報告されています。それは彼らが旅先で主イエスから与えられた使命を遂行することができたからです。彼らはこの体験を通して主イエスご自身が自分たちを通して働いてくださっていることを知ることができたのです。そして主イエスはこのときとの弟子たちと同じ体験を私たちにもさせようとしてくださるのです。

 このようにヨハネはここに記された主イエスの物語が今でも、私たちが日曜日のごとにささげている礼拝を通して実現していることを私たちに教えているのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.復活されたイエスはいつ、弟子たちがどのような状況に置かれていたときにご自身の姿を現わしてくださいましたか(19節)。

2.復活されたイエスは弟子たちにどんな言葉をかけられましたか(19節、21節)。

3.復活されたイエスは弟子たちにどのような大切な使命を与えられましたか。また彼らがその使命を行うために主イエスは何をされましたか(22〜23節)。

4.ディディモと呼ばれるトマスはどうして復活されたイエスに会うことができなかったのですか(24節)。

5.そのトマスが復活されたイエスに会うことができたのはなぜですか(26節)。

6.復活されたイエスはトマスにどのような言葉をかけられましたか(27節)。トマスはこの言葉に何と答えましたか(29節)。

2022.4.24「弟子たちの前に現れたイエス」