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  4. 4月3日「イエスに許された女性」

2022.4.3「イエスに許された女性」 YouTube

ヨハネによる福音書8章1〜11節

1 イエスはオリーブ山へ行かれた。

2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。

3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、

4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。

5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。

7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。

9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」

11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」


1.誤解された物語

 今日の物語もおそらく、たくさんの人に知られている物語だと思います。姦通の現場で捕らえられた一人の女性がイエスの前に連れて来られました。イエスは姦通の罪を犯した女性をどのように取り扱うのか、緊張した雰囲気の中でこの物語は進んで行きます。ところで、今日の聖書個所は私たちが持っている新共同訳聖書でも7章53節から8章の11節まで括弧で囲われて記されています。これは近代の聖書学の発展によって本来のヨハネによる福音書には記されていなかった部分、つまり後代になって福音書記者以外の誰かが付け加えたものだと判断が下されたことを示しています。いくつかの聖書の写本ではこの物語はこの箇所ではなく、ヨハネによる福音書やルカによる福音書の巻末に付録としてつけられているものもあると言います。

 ただ、古代教会が残した聖書以外の文書の中にはかなり古い時代から多くの人たちにこのイエスの物語が知られていたという痕跡が残されています。ですからこの物語は誰かが勝手に作った創作ではなく、人々によく知られていたイエスにまつわる実話であったと考えることができるのです。現代の聖書学者たちはおそらくこの物語はルカの福音書の一部として最初伝えられていたが、初代教会の都合で後になって福音書から削除されたのではないかと説明しています。それはこの物語の話題の中心に初代教会が厳しく戒めた「姦通」、あるいは「姦淫」の罪の問題が取り上げられているからです。そして初代教会の指導者たちはイエスがこの姦通の罪を犯した女性を赦した物語の内容から人々にその罪の重大性が軽視されたり、容認されてしまうことを恐れてこの物語を福音書から外してしまったと言うのです。

 しかし、この物語を正しく読もうとするなら、イエスがこの女性の犯した姦通の罪を軽視したり、容認しているのではないことが分かります。むしろこの物語はイエスの赦しのすばらしさ、そして確かさを表す大切な出来事として記録に残されたと考えてよいのです。だから後代になって教会はこの物語の本当の意味を理解して、今度はヨハネによる福音書の大切な一部として取り扱われることになったのでしょう。


2.邪魔者は消せ

 イエスの時代に生きたユダヤ人たちが「英雄」と考えたいた人物の一人に旧約聖書の民数記25章に登場する祭司ピネハスがいました。ピネハスが活躍した時代にイスラエルの民の一部はカナンの先住民の娘たちに惑わされて、彼女たちと交わり、彼女たちが拝む偶像であったバアルを礼拝すると言う罪を犯しました。そのとき義憤にかられたピネハスは先住民の娘と密通を交わしたイスラエルの男をその娘もろとも鋭い槍で突き刺して殺害するという事件を起こします。そして聖書はこのピネハスの勇敢な行為によってイスラエルの中から災いが取り除かれたと記しているのです。

 今日の物語では「姦通の現場で捕らえられた女」がファリサイ派の人々や律法学者たちによってイエスの元に連れて来られています。きっと彼らは自分たちが「祭司ピネハス」と同じような気持ちになって、「このような女性は自分たちの共同体の中から取り除かれなければならない」と考え、行動したのかも知れません。そして、それこそが神に対する自分たちの信仰の熱意を表す証拠だと考えたのです。

 ところで、彼らはなぜ、このとき、この女性の問題を自分たちだけで対処するのではなく、わざわざイエスの元にこの女性を伴ってやって来たのでしょうか。ここにももう一つ隠されたファリサイ派の人々や律法学者たちの狙いがありました。それは、この女性を使って、自分たちが普段から邪魔者と考えているイエスを陥れ、この女性もろとも自分たちの共同体からイエスを取り除いてしまおうと考えていたからです。なぜなら、このときイエスが「この女性を処刑しなさい」と命じれば、イエスを「ユダヤ人には人を死刑にする権限はない」と定めたローマの法律を犯した者として訴えることができます。また、もしイエスが「この女を赦してあげなさい」と言えば、「イエスはユダヤ人がたいせつにする神の律法に背くことを教えている」と人々に訴えることができました。そうすれば、イエスの元から多くの人が離れて行くことになると考えたのです。


3.罪のない者は一人もいない

 さて、このような事情の中でこの物語は進んで行きます。このとき、ファリサイ派の人々や律法学者たちは姦通の現場で捕らえられた女と共にイエスをも陥れ、ともに邪魔者として自分たちの前から葬り去ろうとしたのです。しかし、イエスは彼らの魂胆を知ってか知らずか、かがみ込んで「指で地面に何かを書き始められた」(6節)と言うのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは「これでイエスを追いつめられる」と興奮していたのかも知れません。しかし、イエスのこの態度から彼がこの事態の中でも冷静さを失っていなかったことが分かります。

 旧約聖書の外典に「ダニエルとスザンナ」と呼ばれる書物があります。外典は私たちが知っているヘブライ語旧約聖書には収録されていない書物ですが、ヘブライ語をギリシャ語に翻訳した七十人訳旧約聖書に収録されていて、現代でもカトリック教会では礼拝の中で聖書の一部として用いられています。この書物ではスザンナという婦人に横恋慕を抱いたユダヤ人の裁判官二人が自分たちの言うことを聞かないスザンナを姦通の罪を犯した罪人として訴え、処刑しようとしています。ユダヤ人の決まりでは姦通の罪を目撃した二人の証言があれば、その罪は確定されます。ましてやここに登場する二人は裁判官ですから、スザンナの処刑は簡単に決まってしまうのです。しかし、このスザンナのピンチにダニエルという青年が現れてこの二人の裁判官の偽証を暴き立て、彼女の命を救ったという物語がこの書物に記されています。

 イエスの前に連れてこられた女性はスザンナと違い自分の無罪を訴えることをしていませんから、姦通の罪を犯したことに相違ないのかもしれません。しかし、不思議なことにもし彼女が姦通の罪を犯したとすれば必ず相手の男性がいるはずです。ダニエルとスザンナの物語では事件自身が完全に二人の裁判官が作り出し冤罪でしたから、当然のように相手の男性は最後まで登場していません。おそらく、今回の場合に想定されるのはこの事件はこの女性の夫が妻を離縁する理由を作り出すために計画した罠ではかったかと言う点です。ですから相手の男性も目撃者も皆グルであって、ここには登場して来ないのだと考えることができるのです。

 イエスはこのときスザンナの無罪を証明したダニエルと違い、そこに集まった人々に向けてこのように語りかけました。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(7節)

 このイエスの言葉で分かるのは、私たちに必要なことは他人の罪を暴きだし、それを裁くことではないと言うことです。大切なことは私たち自身が神の前で自分が罪を犯している罪人であることを認めることなのです。この後、「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(9節)と語られています。なぜなら、神の前では「自分は罪を犯したことがありません」と胸を張って言える人はこの世に誰一人もいないからです。私たち人間はすべてこのままでは神から裁きを受けて、死ななければならない罪人でしかないのです。

 しかし、この事実を私たちが知ることはとても大切です。なぜなら、自分が罪人であることを知る者は、自分に神の赦しが必要であることを同時に知ることができるからです。私たちはこの受難節の季節に私たちの信仰生活における悔い改めについて学んでいます。この「悔い改め」は私たちの心の方向転換を表していて、今まで自分の絶望的な状態にだけに向けられていた心の目を、その私たちを救うためにやって来てくださった救い主イエスに向け直すことが真の悔い改めと言えるからです。つまり私たちが悔い改めるために必要なことはまず私たちが皆、神の前で罪人であることを認めることです。そしてその次にすることは私たちの心の目を私たちを罪から救うためにやって来られた主イエスに向けることだと言えるのです。


4.あなたを罪に定めない

①私たちの罪を解決したイエスの言葉

 この後で、そこに一人だけ残された女性とイエスとの間に次のような会話が交わされて行きます。

「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」」(10〜11節)

 ここで最後に女性に語られたイエスの言葉を私たちは誤解しないようにしなければなりません。「わたしもあなたを罪に定めない」と言う言葉はイエスが女性の犯した罪を曖昧にしたり、見逃していると言う意味ではありません。この女性も確かに神の前で裁きを受けるにふさわしい重大な罪を犯していました。しかしイエスはこの女性がその罪を断罪され、処刑されることを望まないのです。どんなに重い罪を犯した者も死ぬのではなく、生きることを望んでおられる、そのイエスの意志がこの言葉に表されていると言えます。  旧約聖書のヨナ書では、罪を犯して滅ぼされる運命にあったニネベの町に預言者ヨナが遣わされています。神はヨナを遣わしてニネベの町の人が悔い改めることを望まれたからです。しかし、この物語の主人公のヨナはそうではありませんでした。彼は誰よりも強くニネベの町の人々が神の裁きを受けてこの世からすべていなくなってほしいと望んでいたのです。ヨナは最後までその意志を変えず、丘の上からニネベの町が滅びる光景を見ようと待ち構えています。そしてそのヨナに神は次のように語ったのです。

「すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」(ヨナ書4章10〜11節)。

 神は私たちのような罪人が滅びることを喜ばれないのです。むしろ神は私たちが心から悔い改めて生きることを望まれているのです。イエスの「わたしもあなたを罪に定めない」と言う言葉はこの神の御心を私たちにあらわす言葉だと言えるのです。そして、この言葉は救い主であるイエスだけが私たちに語ることが出来る言葉であると言えます。なぜなら、イエスは私たちの罪をご自分が十字架にかかることによって引き受けてくださったからです。私たちの罪は決して曖昧にされるのではありません。むしろイエスが十字架で私たちの罪をすべて引き受けてくださったので、その罪は解決され、私たちは赦されたと言えるのです。だから私たちはもはや「罪に定められる」ことはないと言えるのです。


②イエスと共に歩む新しい人生

 また、イエスがこの女性に語られた「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言う言葉を正しく理解することも大切です。この言葉はイエスがこの女性に抱いた単なる期待や努力目標を語っているのではありません。なぜなら私たちの抱える罪は私たちが「もう罪を犯さないぞ」と決心して努力しても、それで解決できる問題ではないからです。しかし、この罪に勝利する力を持っておられる方がただ一人おられます。それが私たちの救い主イエスです。

 ここからこの女性の人生はイエスからの赦しを受けて新たな出発を遂げます。今まで、自分の力や努力ではどうにもならなかった人生をイエスが変えてくださるからです。なぜなら、イエスは罪を赦した者と共にこれからも歩んでくださるからです。そしてその証拠にイエスは信じる私たちに天から聖霊を送って私たちの信仰生活を助けてくださるのです。ですから、「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言う言葉は「これからは私が一緒にいるから大丈夫だ。あなたはその罪から解放されて新しい人生を送ることができる」と言うイエスの語る約束の言葉でもあると言えるのです。

 私たちのイエスは信じる私たちが抱える罪の問題をすべて解決されるために十字架にかかってくださいました。このイエスの御業によって私たちは自分の人生で抱えていたすべての罪から解放されて自由にされたのです。その上で、主は救われた私たちの人生の責任を持って導いてくださるのです。だから、私たちはこのイエスの言葉を信じて、自分の力では罪に打ち勝つことのできないと言う事実に絶望するだけではなく、悔い改めて、救い主イエスを見上げて新しい人生を歩む必要があるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスが神殿の境内で座って人々に教えていると、そこにどのような人が連れて来られましたか(3節)。

2.この人を連れて来た人々はイエスにどのような質問をしましたか。彼らがこうイエスに尋ねた理由は何でしたか(4〜6節)。

3.このような質問を受けたときイエスは何をされましたか。さらにイエスはご自分に向かってしつこく問い続ける人たちに答えてどのような言葉を語られましたか(6〜7節)。

4.このイエスの言葉を聞いた人々はどのような反応を表しましたか。どうして人々はイエスの言葉を聞いてそのような反応を示したのでしょうか(9節)。

5.イエスはそこに一人残された女に対して何を語りましたか。イエスがこの女に語られた言葉にはどのような意味があるとあなたは思いますか(11節)。

2022.4.3「イエスに許された女性」