2022.5.1「わたしを愛しているか」 YouTube
ヨハネによる福音書21章1〜19節(新P.211)
15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
1.挫折を経験したペトロ
今日も復活されたイエスと弟子たちとの出会いの物語から皆さんと一緒に学んで行きたいと思います。前回にもお話しましたように福音書の作者であるヨハネがこのような物語を伝えようとしたのは教会の人々に単なる自分が知っている昔話を伝えようとしたからではありません。ヨハネは今も生きて自分たちと共に働いてくださる復活の主イエスが、今どのような形で自分たちの信仰生活に関わってくださっているかを教会の人々に知らせるためにこの物語を紹介したと考えることができるのです。ですから、私たちはこの福音書の伝える物語を過去に起こった出来事として読むのではなく、今私たちが体験している現実の信仰生活における出来事として読む必要があると言えるのです。
さて、ヨハネの福音書は前回に学んだようにエルサレムの一室に集まる弟子たちに復活されたイエスが現れてくださったお話を私たちに伝えています。その上で今日の物語は舞台をティベリアス湖、つまりガリラヤ湖に移して語られています。前回の部分では復活されたイエスに出会い喜びに満たされ、イエスから託された使命を果たすために聖霊を受けた弟子たちの姿が紹介されていました。ところが今日の物語はどういう訳かペトロをはじめとする何人かの弟子たちがガリラヤ湖の漁師に戻ってしまうと言うお話から始まっています。実はこのヨハネの福音書を読むとすでに20章の最後のところで福音書の結びのような言葉が記されていることが分かります。つまり、本来ヨハネはこの20章で福音書を終わらせるつもりであったと言えるのです。ですから今日の物語はヨハネが福音書を書いた後、何らかの理由で福音書の付録としてこの物語が付け足したものと考えられるのです。
そして今日の物語はイエスの弟子の一人であったシモン・ペトロが発した「わたしは漁に行く」と言う言葉によってはじまっています(3節)。ある人はこの「行く」と言う言葉には「離れる」と言う意味もあると考え、ペトロはイエスの弟子としての使命を離れて元のガリラヤ湖の漁師に戻ろうとしていたと解説するのです。それではなぜ復活されたイエスに出会って喜んだペトロたちがそのイエスの弟子を辞めようとしたと言うのでしょうか。
それは今日の聖書箇所の後半部に記されている物語、イエスとこのペトロとの会話から想像することが出来るかも知れません。イエスはここで三度に渡ってペトロに「わたしを愛しているか」(15〜17節)と言う問いを繰り返しています。かつてペトロはイエスが逮捕されたとき大祭司の庭までその様子を伺おうとしてついて来ていました。ところが、その大祭司の庭でペトロはこともあろうに「お前もイエスの仲間だろう」と他の人から尋ねられて三度も「わたしはイエスを知らない」と否定してしまったのです(18章15〜18、26〜27節)。おそらく、この出来事はペトロに自分では立ち直ることができないような深刻な挫折感を与えたと考えることができます。ですから、せっかく復活されたイエスに新しい使命を与えられても「自分はその使命に答えることができない」、「その資格はない」とペトロは思い込んでしまったのかも知れません。そんな挫折を経験したペトロにとって唯一残されている道は自分がかつて営んでいたガリラヤ湖の漁師に戻ることだけだったと言えます。だからペトロはここで「わたしは漁に行く」と言って他の弟子たちと一緒に舟に乗ったのです。
私は今から三十年以上前に五人の同級生と神戸改革派神学校を卒業しました。そのうち、今も牧師をしているのは私ともう一人の仲間の二人だけになってしまいました。私も牧師になっていろいろな失敗を経験し、時にはペトロと同じように大きな挫折感を味わったりもしました。それでも私が続けて牧師として働くことができたのは特に自分に牧師としての才能があったとは考えていないのです。なぜなら、私の同級生の中でも牧師として働くことを止めて行った仲間たちの方がむしろ私よりも才能があり、たくさんの賜物を持っていたからです。それを証明するように彼らは牧師を辞めた後にすぐに社会で責任を持つ他の仕事に着くことができました。
ペトロは「イエスの弟子としてもはや生きていくことはできない」と言う挫折を感じ、別の道で生きる方法を探していたのです。しかし、そのペトロは自分の得意分野であるガリラヤ湖の漁の場面で懸命に働いても何も捕れないという経験をここでしています。だからペトロにはガリラヤ湖の漁師に戻る道も閉ざされてしまったのです。しかし、それはある意味で神がペトロに与えて下さった恵みであると考えることができます。なぜなら、ペトロはこのガリラヤ湖での出来事を通して再びイエスの弟子と生きる道へと戻されていくからです。
2.あれは主だ
しかし、ペトロは単に漁師になる道を閉ざされたから、元のイエスの弟子に戻ろうとしたのではありません。ペトロが弟子に戻ることができたのは復活されたイエスとの出会いの物語があったからです。
この時代、ガリラヤ湖の漁は夜行うことが漁師の常識とされていました。しかしペトロたちはこの日、夜通し漁を行ったのにまったく何も捕れないという体験をしています。そしてそのとき、復活されたイエスがガリラヤ湖の岸辺に立って、弟子たちに語り掛けて下さったのです。しかし、このとき弟子たちは自分たちに語り掛けて来る人物がイエスとは気づいていなかったようです。復活のイエスを知るためには私たちの心の目が開かれていなければならないのです。しかし、深刻な挫折を体験してイエスの弟子としての生き方を離れようと考えていたペトロたちの心は閉ざされていてその人物がイエスだとは分からなかったのです。
彼らがその人を復活されたイエスであると気づくのは、彼らがイエスの言葉に従って、再び網を降ろして漁をしたことによってです。彼らがそこでイエスの言葉通りに従って網を湖に投げると、大量の魚がその網に入ると言う奇跡が起こります。実はこれと同じ奇跡を弟子たちはすでに別のときに体験していました。そしてその出来事こそが彼らがイエスの弟子になるきっかけを作ったものでした(ルカ5章11節)。つまり、イエスはかつて弟子たちが体験した奇跡をここで再び彼らに体験させることで、彼らが岸辺に立って自分たちに語りかけてくれた人物が復活されたイエスと気づくことができるようにされたのです。
ここで興味深いのは弟子たちがこのときも、また以前に体験した同じような出来事でも主イエスの語られる「網を降ろしてみなさい」と言う言葉に素直に従ったと言うことです。もしこの時、弟子たちが自分たちの経験を絶対化して、「何度やっても無理」と結論づけていたら、この奇跡も起こりませんでしたし、自分たちに語り掛けて下さる方がイエスであることにも気づくこともできなかったでしょう。
私たちも自分の信仰生活の中で様々な体験をします。その中で「何をしてもダメ」、「結論は分かっている」と考えてしまうこともあるでしょう。しかし、それでも大切なことは私たちが聖書の言葉に耳を傾け続けること、その言葉に従って生きることだと言うことをこのお話は私たちに教えています。そうすれば私たちも自分たちの信仰生活の中で主イエスが共に働いてくださっていること、そのイエスが自分と共に生きてくださっていることを知ることができるからです。
3.岸辺の食事会
この後、福音書は非常に印象深い物語を私たちに続けて紹介しています。まずここで「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った」(7節)と言う話が語られています。この弟子はおそらくこの福音書の著者とされるヨハネ自身であったと考えることができます。
先日、私は執筆を依頼されたリジョイス誌の聖書日課の中で私が神学校時代にお世話になった一人の牧師のお話を紹介しました。なぜなら、その先生は劣等生だった当時の私を見捨てることなく指導してくださったからです。私はそんな経験から誰よりもその先生に愛された生徒だったという思いを持っているのです。ところが私がその話をすると意外にも「わたしもそうだった」と言う人がたくさん現れます。つまり、その牧師に指導を受けた人は皆、「自分こそ、先生に愛された弟子だ」と言う思いを抱くようになってしまうのです。だからおそらくイエスの弟子たちもヨハネだけではなく、皆「自分こそイエスに愛された弟子」と胸を張って言うことができたのではないでしょうか。イエスの愛はそれを体験する人をすべてにそう確信させることができるような不思議な力を持っているからです。
岸辺に立っている人が自分たちの主イエスだとペトロが気づくと、彼はすぐに上着をまとって湖に飛び込みました。ペトロは誰よりも先にイエスの元に行こうと考え、行動したのでしょう。他の弟子たちは力を合わせて大漁の魚がかかった網を引いて、舟で岸辺に戻って来ました。ところが彼らがすべて岸辺に上がると、そこでイエスは既に弟子たちのために炭火を起こし、魚を焼き、パンまで準備してくださっていたと聖書は記しています。福音書はここで主イエスによってすでに食卓が整えられていたことを私たちに教えているのです。
何人かの説教者たちはこの主イエスが準備して下さった食卓を私たちがこの礼拝でもあずかろうとしている聖餐式の原型を示すものだと教えています。なぜなら、弟子たちが主に従って生きるためにはこのイエスの食卓にあずかる必要があったからです。つまり、ここで提供されている魚やパンはイエスが私たちのために与えてくださるすべての恵みを表していると言うことができます。私たちがこの世において信仰生活を送って主に従って行くと言うことは容易なことではありません。なぜなら、この世では様々な試練が私たちを繰り返し襲うからです。そしてその試練に打ち勝つ力を私たちは持っていないのです。しかし、主イエスはそのような私たちに恵みを与えて、私たちの信仰生活を導いてくださる方なのです。
そして私たちが聖餐式にあずかるのは、そのイエスの恵みにあずかることを進んで自分の態度で表明する機会と言うことができると思います。この聖餐式にあずかる者に復活のイエスは聖霊を送って、その信仰生活を助けてくださるのです。ですから、この世の信仰生活の中で自分の力に絶望している者、また自分の弱さを感じている者は進んでこの聖餐式に参加する必要があります。聖餐式の式文では「自分自身を吟味して」この聖餐式に参加するようにと私たちに勧めています。この場合の自己吟味とは「主イエスの恵みがなければ、自分は信仰生活を保つことができない」という自覚を持っているのかと言うことだと思います。なぜなら、自分の力を過信する者は主に恵みを熱心に求めることは決してできないからです。
4.そのままのペトロを受け入れられた主イエス
さて、このように自分に絶望して、イエスの弟子とした生きることに挫折してしまったペトロを最終的に立ち直らせたることができたのは、最初に触れたように、主イエスの三度に渡るペトロへの問いかけであったと言えます。ここで「主イエス」は三度も繰り返して「わたしを愛しているか」とペトロに質問しました。先ほども触れましたようにこれは三度、「イエスを知らない」と否認したペトロの失敗を思いおこさせるような行動であると言えるでしょう。しかしそれと同時に、主イエスが三度もペトロに同じ質問を問い繰り返したのにはもっと大切な理由がありました。実はこれは日本語翻訳の聖書では分からないものです。
イエスはこの時ペトロに「わたしを愛しているか」と「アガペー」と言うギリシャ語の言葉を使って自分に対する愛をペトロに尋ねました。ところがその答えでペトロが使った言葉は「アガペー」ではなく、「フィレオ」と言うギリシャ語で、これも「愛」を意味する別の言葉です。それではこの二つの言葉にはどのような違いがあるのでしょうか。聖書学者たちは「アガペー」は神の愛のような完全な愛を表しているのに対して、「フィレオ」は「あの人が好き」と言うような人間が日常の生活の中で用いる「愛」についての表現だと説明しています。ですからこの「フィレオ」と言う言葉を「友愛」と言う日本語で訳す人もいます。 イエスはこのときペトロに「わたしをアガペーで愛しているか」と問いました。しかし、ペトロはイエスに「アガペー」とは違った愛を表す言葉、つまり日本語に訳せば「はい、わたしはあなたのことを好きです」と答えたと言うことになるのです。この理由はペトロがこの時に抱いていた挫折感に原因があったと考えることができます。かつてはイエスに最後まで従うと決意していたペトロが、その決意とは裏腹にイエスを置き去りにして逃げてしまうという出来事を経験しました。だから「どんなに決心しても、同じことが起こったらどうなるのか」とペトロは不安を感じていたのです。だから、自分に自信のないペトロはアガペーと言う言葉を使うことができなかったのです。
しかし、さらにここで興味深いのは主イエスが三度目にペトロに問うた時に、「アガペー」ではなく今度は「フィレオ」と言うペトロが使った同じ言葉を使って質問してくださったと言うことです。自分に自信のないペトロは「アガペー」と言う愛の言葉を使うことできませんでした。すると、今度はイエスの方がペトロと同じ「フィレオ」と言う言葉を使ってくださったのです。ここではイエスの方がペトロの気持ちを察して、その上でペトロが答えやすいようにその言葉を変えてくださったと考えることできます。
今でも主イエスを信じて信仰生活を始めることや、信仰生活を忠実に続けられることに自信が持てないと言う人がいるはずです。そのような人はどうしたらよいのでしょうか。そのような人はどこかで厳しい修業して、自信を持つことが出来た後で信仰生活に入るべきなのでしょうか。そうではありません。イエスは自分では自信を持つことが出来ない私たちをそのままで受け入れてくださる方なのです。なぜなら、そのような弱い私たちを助けて、イエスの弟子として生きることができるようにしてくださるのも主イエスの働きだからです。
そしてペトロは彼をそのままで受け入れてくださる主イエスの愛によって、立ち直ることができたのです。このように主イエスはその人がたとえどんな弱さを持っていても、「イエスの弟子として生きたい」、「信仰生活を送りたい」と願うなら喜んで受け入れてくださるのです。そしてその生涯にわたって導いてくださり、私たちがイエスの弟子として生きることが出来るのようにしてくださるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.シモン・ペトロが他の弟子たちと一緒にいたときに「自分はこれから何をする」と彼らに説明しましたか。またペトロのこの決断に基づいてなされた弟子たちの行動はどのような結末を迎えましたか(3節)。
2.このとき岸辺に立ったイエスは弟子たちに何と語られましか。どうして弟子たちはこの方がイエスであると分かることができなかったのでしょうか(4〜5節)。
3.弟子たちが岸辺から語り掛けてくださった方がイエスだと分かったのはどうしてですか(6〜8節)。
4.陸に上がった弟子たちのためにイエスはどのような準備をされていましたか(9〜13節)。
5.食事の後、イエスは弟子のシモン・ペトロにどんな質問をしましたか。どうしてイエスはこのとき同じような質問をペトロに繰り返し尋ねたのでしょうか(15〜17節)。
6.あなたはヨハネによる福音書が伝える復活されたイエスと弟子たちとの出会いの物語から、どのようなことを学ぶことができると思いますか。