1. ホーム
  2. 礼拝説教集
  3. 2022
  4. 5月15日「互いに愛し合いなさい」

2022.5.15「互いに愛し合いなさい」 YouTube

ヨハネによる福音書13章31〜35節(新P.195)

31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。

32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。

33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。

34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」


1.主イエスの残された遺言説教

 私たちの所属する改革派の大会や中会に出席していると、ときどき引退を間近にした先輩の牧師が「これが最後だから、是非言わせてほしい」と言って、発言する姿を目撃することがあります。そこで先輩の牧師の経験に基づいた貴重なお話を聞くことができればよいのですが、案外、「最後だから今まで我慢してきたことを、ここで言いたい」とばかりに大会や中会の運営や後輩の牧師たちに対する批判を口にする人がいます。私はそんな話を聞くと「今までせっかく我慢して来たのだから、最後まで我慢したほうがいいのにな…」と思ってしまうことがあります。なぜなら、これらの発言の多くは自分の言いたいことを言った上で、「自分はもう引退するのだから関係ない…」と言ったような無責任な発言が大半だからです。発言者は少なくともその責任の一部を背負う覚悟を持つ必要があるのにそれがないのです。

 今日、私たちが聖書から学ぶ言葉は主イエスによる「遺言説教」とも呼ばれる箇所の一部として記されているものです。この13章の31節は「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた」と言う言葉から始まっています。ここでユダがなぜ「出て行った」のかと言えば、主イエスを裏切るためです。ですからこの後、ユダの案内によってユダヤ人の宗教指導者たちから遣された者たちがイエスを逮捕しにやって来ることになります。この「ユダが出て行く」と言う言葉は主イエスの十字架の死が直前に迫っていることを暗示していることになります。主イエスはこのとき、自分が十字架につけられることをすでによく知っておられました。そしてその主イエスが自分の弟子たちに語ったのがこの「遺言説教」と呼ばれる主イエスの語られたお話なのです。しかし、イエスは自分がこれから弟子たちの前から去って行くからと言って「言いたいことを、今のうちに言っておく」と無責任な発言をされた訳ではありません。

 聖書はこのお話が主イエスの口から語られたときの状況を13章の冒頭で詳しく説明しています。

「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(1節)

 自分の死を間近にした主イエスの一番の関心は「世にいる弟子たち」つまりペトロたちのことでした。なぜなら、イエスは彼らを愛しておられたからです。そして地上を去る最後の時まで、主イエスはその弟子たちへの愛を貫き通されたと言うのです。ですから、ここに語られている主イエスによる「遺言説教」は、主イエスの弟子たちへの愛が豊かに示されているものだと言えます。さらにこの説教は直接にはペトロたち地上のイエスの生涯に寄り添った弟子たちに語られている形式で語られていますが、それだけではなく「世にいる弟子たち」つまり今、主イエスの弟子として生きようとしている私たちにも語られている言葉であると考えてよいと思います。ですから私たちはこの主イエスの説教を私たちのためのものとして学んで行く必要があります。


2.十字架を通して表された神の栄光

 主イエスの十字架を前にして、弟子達が知っておくべきことは大きく分けて三つありました。一つ目は主イエスの十字架の意味です。この出来事を主イエスの弟子たちはどのようなこととして理解する必要があるのでしょうか。第二に主イエスはこれから一体どこに行ってしまうのでしょうか。そしてこれから主イエスと弟子たちとの関係はどのようになってしまうのでしょうか。第三にはこれから十字架にかかろうとされている主イエスは、この世に残る弟子たちに何を望んでおられるのでしょうか。主イエスはこの三つの疑問に答える形で弟子たちに「遺言説教」を語られているのです。

 まず、第一の問題について、つまり主イエスの十字架の意味は何かということです。なぜなら、十字架の死と言う出来事は一般的な考えでは、主イエスの人生が敗北に終わったことを意味するようなものだからです。聖書を読むと、主イエスの十字架を目撃したユダヤ人たちは彼が自分の力を使ってこの窮地から自分を救い出すことを最後まで期待していたようです。「もし主イエスが本当のメシアなら、それができるはずだ」と彼らは考えていたからです。そんな彼らにとって十字架の上で何もできずに死んで行ったイエスの姿は「彼が本当のメシアでなかったことを証しするものだ」と考えられたのです。

 しかし、主イエスはここではっきりと自分が十字架にかかって死ぬことで「栄光を受ける」ことができると言っています。またこの出来事を通して自分だけではなく神も栄光を受けることができると説明しているのです。それではなぜ、十字架の出来事が主イエスにとって栄光を受けることになるのでしょうか。

 オリンピックに出場する選手は誰もがそこで金メダルを獲得したいと願います。なぜなら、彼らにとって金メダルを受賞することは、選手としての最大の名誉、自分がこの金メダルを受けるにふさわしい人間であることが証明することになるからです。ですから彼らが金メダルを受けることはまさに栄光の時だと言えるのです。しかし、主イエスの十字架は犯罪者がその罪を償うために受ける処刑でしかありません。それはむしろ、それを受ける本人にとって「不名誉」なことと考えられるのです。だからユダヤ人たちは十字架にかけられて死んだ者は「呪われた者」と考えました。その十字架がなぜイエスにとって「栄光を受ける」ことになるのでしょうか。

 そのことを知るためにはこの「栄光」と言う言葉が聖書ではどのような意味で使われているかを確認する必要があります。実はこの言葉は「そのものの持っている本当の姿が外に現れ出る」と言う意味を持って使われていると言えるのです。ペトロたちはかつて自分たちが見ている前で、主イエスの姿が変化して、栄光に輝く姿になったことを目撃しました(ルカ9章28〜36節)。この出来事はイエスが本来持っている神の子として栄光が一時的に彼らの前に表されたことを意味していると考えることができます。つまり、聖書が語る「栄光を受ける」とは主イエスが本来持ている神の子としての本当の姿が現れたと言う意味を持っているのです。主イエスの十字架によって彼が神の子であることが誰の目にも明らか示さえれたのです。またこの出来事を通して神も栄光を受けることができるとは、主イエスの十字架の出来事を通して神の本当の姿も私たちに明らかにされたと言うことを語っているのです。

 宗教改革者のマルチン・ルターは私たちに「神を正しく知るためにはいつも主イエスの十字架を通して神を知るべきだ」と教えたと言われています。主イエスの十字架を通さない神に関する知識はすべて誤っていて、私たちを深刻な誤解へと導く可能性があるからです。このような意味で、主イエスの十字架の出来事は神の本当の姿が私たちに明らかになることを意味していると言えるのです。


3.私たちとともにいてくださるために

 それではこの十字架の出来事によって主イエスはこれからどこに行ってしまうのでしょうか。また、その主イエスと弟子との関係はどのように変わってしまうのでしょうか。

「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」(31節)。

 今は、主イエスと弟子たちは一緒にいることができてもしばらくしたらその弟子たちは主イエスのことを必死になって捜すようになると言われています。つまり、主イエスが弟子たちの知らないどこかに行ってしまうことが起こると言われているのです。これも直接にはイエスが十字架にかかって死なれることを意味していると言えます。なぜならそのとき、「主イエスと共に死のう」と言う決心を抱いていた弟子たちは、その決心にも関わらずイエスを置き去りにして逃げてしまうしかなかったからです。しかし、このような出来事はあくまで一時的なものにすぎません。なぜなら、イエスはこの後で弟子たちに次のような言葉を語っているからです。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(14章1〜3節)

 この言葉でも分かるように弟子たちが主イエスの姿を見失ってしまうのはわずかな間だけです。しかも、イエスの十字架の出来事は主イエスが弟子たちとこれからもいつも一緒にいるために、その場所を用意するために起こると語られているのです。このように主イエスの十字架の出来事を通して実現するのは主イエスと主イエスを信じる弟子たちとの関係が永遠に変わることがなく、彼らがいつも共にいることができるようになると言うことです。主イエスの十字架の出来事は私たちの人生にたとえ何が起こったとしても、私たちが主といつも共にいることができるようになるために実現した神の御業です。そしてこの主イエスとの関係は私たちの地上の死と言う出来事を通して決して変わることがないと言えるのです。


4.主イエスが弟子たちに与えられた「新しい愛の掟」

 この間、テレビドラマを見ていてとても印象に残った出演者のセリフがありました。このドラマの内容は男女の心の内に起こる微妙な感情のすれ違いを描いています。そして主人公の女性の愛情を自分に引き留めたいパートナーの男性は懸命になってその女性にプレゼントをしたり、相手が気に入るようなことをして努力します。しかし、主人公の女性はパートナーの急な態度の変化を怪しみ、なかなか信じることができません。それに気づいた男性は主人公の女性に向かって「君に気に入ってもらうために、僕は一生懸命に努力した…」と訴えます。するとその話を聞いた主人公の女性は「あなたはわたしのためにしたのではない。結局、みんな自分のためにしたことでしょう…」と言う捨て台詞を語って、その場を出て行くのです。

 考えてみれば私たちが普段考えている人の「愛情」とは、「あなたを愛している」と口では言っていても、結局は「自分のため」にそれをしているに過ぎないのではないでしょうか。その証拠は、私たちは自分が愛情を示した相手から意外な反応が帰って来るといきなり腹を立てて、「わたしはこんなに努力したのに…」と語るようになるのです。

 主イエスはここで弟子たちに「あなたたちは互いに愛し合いなさい」と勧めています。これが十字架の出来事を前にして主イエスが弟子たちに望んでおられることだと言えます。しかし、ここで私たちが勘違いしてはならないことは、主イエスは「あなたはみんなに愛されるために、まずあなたから他の人に愛情を示してあげなさい」と教えている訳ではないと言うことです。つまり、主イエスが私たちに求めている「愛」は自分のために行うものではないと言えるのです。

 ここでの主イエスの言葉で一番問題となるのは「互いに愛し合う」ことが「新しい掟」と言われている点です。この「掟」とはその共同体に属する人たちに共通して求められる生き方を表していると言えます。ですから主イエスを信じ、主イエスに従って生きて行く弟子たちの生き方で共通して求められているのがこの「掟」であると言えるのです。しかし、ここでさらに問題になるのはこの掟が「新しい」と言われている点です。「愛し合う」ことは聖書がいつも人に求めていることであって決して新しいものではないとも言えます。それに聖書にとどまらず、この世の様々な宗教も、また哲学者たちの教えも「愛し合う」ことを私たちに勧めていると言えます。

 なぜ、この主イエスが弟子たちに与えた掟は新しいのでしょうか。この「掟」の新しさとは主イエスが語られたものであるから新しい、つまり他の宗教や哲学者たちが教える「愛の掟」とは根本的に違うものであることを表していると考えることができます。それではこの「新しい掟」は他の「愛の掟」とどこが違うのでしょうか。まず、この掟の根拠は主イエスが十字架で表された神の愛から出ることで全く違っています。ですから主イエスがその弟子たちに示された愛に答える方法がこの「新しい掟」と言えるのです。また、他の「愛の掟」はその愛に励む人間が修行を積んだり、努力することによって実現するものと考えることができます。しかし、この「新しい掟」が教える愛は私たちの力ではなく、主イエスの力によって実現するものと言えます。だから、主イエスは「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(35節)と言っているのです。なぜなら、もしその愛が人間の努力によって示されたものなら、そこに明らかになるのは人間の力でしかありません。しかし、主イエスが教える「新しい掟」に私たちが従えば、そこで主イエスの力が私たちを通して実現して、私たちが主イエスの弟子であることが他の多くの人々に分かるようになるのです。

 この主イエスが教える「互いに愛し合う」と言う掟は自分一人で決して実現することはできません。私たちがこの掟に従うためには信仰の仲間の存在が必要となるのです。ですからキリスト教信仰は一人で信じて、一人で満足するというところでは決して成り立たないことをこの掟は私たちに教えているのです。この掟に私たちが従って信仰生活を送るためには必ず教会に加わり、そこに集う兄弟姉妹たちと共に信仰生活を送らなければなりません。そしてもし、その教会生活の中で私たちが「互いに愛し合う」ならば、私たちの教会を通して主イエスの御業がこの世に豊かに表されるのです。しかし、そこに集う人々が憎しみ会ったり、批判し合ったりしていては主イエスの御業は決して現れることがありません。これは大変に興味深いことを私たちに教えていると言えます。私たちは日本伝道のためにとか、教会の成長のためにとかいろいろなことを考えてみたり、試みたりしています。しかし、主イエスが私たちに求めておらえるのは私たちが「互いに愛し合う」ことだけだと言うのです。なぜなら、主イエスはその兄弟姉妹が「互いに愛し合う」教会を通してこの世に豊かにご自身の御業を表してくださるからです。私たちはこのことをもう一度覚えて、「互いに愛し合う」と言う主イエスの与えてくださった新し掟に従って行きたいと思います。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.食事の席からイエスの弟子のユダが出て行くと、イエスはどのような発言をされましたか(31〜32節)。

2.イエスはご自分に従う弟子たちにやがてどんなことが起こると預言されましたか(33節)。

3.イエスは弟子たちにどのような掟を与えられましたか(34節)。どうしてこの掟に弟子たちが従うなら「あなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とイエスは言われたのでしょうか(35節)。

2022.5.15「互いに愛し合いなさい」