2022.5.22「イエスの願い」 YouTube
ヨハネによる福音書17章20〜26節(新P.203)
20 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
22 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
23 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
24 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。
25 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。
26 わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」
1.私たちのためにささげられたイエスの祈り
以前、何かの本でこんなお話を読んだことがあります。その文書を記した方がまだ幼かったころの思い出話です。まだ夜も明けない深夜にその人が目を覚ますと、自分の寝ている部屋の隣から何やら低いつぶやきのような声が聞こえてくるのに気づきます。その人はすぐにその声の主が自分の年老いた祖母であることが分かりました。そこでその人は静かな夜のとばりの中で続くつぶやきのような祖母の声に耳を傾けます。よく聞いてみるとその声は祖母がささげる祈りの言葉でした。夜の暗がりの中で自分の祖母はたくさんの人の名前をあげて、その一人一人のためにとりなしの祈りをささげていたのです。そしてその祖母のとりなしの祈りの中には自分を含めたたくさんの孫たちの名前も挙げられていたと言うのです。おそらくこの思い出話を語った本人は、自分もその祖母と同じような年齢になっていたのかも知れません。すでに長い年月が経って、それでもその人はその夜の自分の祖母の声を忘れることができないと語るのです。
主イエスは「天に宝を積みなさい」と私たちに教えてくださっています。私はとりなしの祈りほどすばらしい宝物はないと思うのです。なぜなら、私たちがこの地上でささげた祈りはそのまま天におられる神に届けられます。そしてふさわしいときにふさわしい答えが年月を超えて、神からこの地上に与えられるのです。私たちが神にささげたとりなしの祈りの答えは、たとえ私たちが地上からいなくなってしまっても、決してなくならず、神からその答えがずっと送り届けられるのです。そのよう意味で私たちのささげるとりなしの祈りは決して、不良債権になることはないのです。
今日の聖書の個所には十字架に掛けられる前に主イエスがささげてくださった祈りの言葉が記されています。それでは主イエスはこの祈りをいったい誰のためにささげてくださったのでしょうか。それは今、主イエスを信じて生きる私たちのためです。イエスは遥か2000年以上も前に、今を生きる私たちのためにとりなしの祈りをささげてくださっていたのです。そして私たちはこのイエスの祈りに対する答えを日々の信仰生活の中で恵みとして受け取っているのです。ですから私たちはこのイエスの祈りを単なる過去の事柄としてではなく、今を生きる私たちを導き、また支えるための祈りとして学ぶ必要があると言えるのです。
2.信じる者たちが一つになるように
①弟子たちの言葉によって信じた者
前回は主イエスが十字架に掛けられる前にその弟子たちに語られた「遺言説教」と呼ばれる長いお話の一部を私たちは学びました。このイエスのお話は前回学んだヨハネによる福音書の13章21節から16章まで続いて記されています。今日の聖書箇所はこの主イエスの長いお話が終わった直後に、イエスがささげられた祈りの内容が記 されています。つまり、この祈りはイエスの語れた「遺言説教」と密接な関係を持っていると言えるのです。
さらに、この17章のイエスの祈りは昔から教会の中で「大祭司の祈り」と呼ばれて来ました。聖書の中で「大祭司」と呼ばれる存在は神と民との間に立って、神に生贄と祈りをささげて、民たちの犯した罪の赦しと祝福を願う大切な使命を担っていました。ご存知のように主イエスは私たちの罪が赦されるために十字架でご自身の命をささげられました。つまり、主イエスはご自身の命を神に生贄としてささげてくださった大祭司だと言えるのです。そしてその大祭司である主イエスはその生贄と共にとりなしの祈りをもささげてくださっているのです。ですから「大祭司の祈り」と呼ばれるこの祈りは主イエスを信じて生きているすべての人たちのためにささげられた祈りとして重んじられて来たのです。
実はこの祈りは大きく分けて、三つの部分で構成されていると考えられています。最初にイエスはこれから十字架であらわされるご自身の栄光、そして父なる神の栄光ために祈っています。さらにそれに続いて主イエスはご自分の弟子たちのために祈っておられるのです。そして最後の三つ目の部分が今日の礼拝で取り上げる個所となります。この部分は「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」(20節)と言う言葉で始まっていることが分かります。ここで主イエスが語る「彼ら」は直前までイエスのとりなしの祈りの対象となっていた弟子たちを示しています。そしてこの部分は「彼ら」つまり「イエスの弟子たち」の「言葉によってわたしを信じる人々のため」のための願いとなっています。つまり弟子たちの言葉を通して信仰に導かれたすべてのキリスト者のためにささげられている主イエスの祈りがこの箇所であると言えるのです。
②弟子たちの言葉の上に立つ教会
ご存知のように私たちが読んでいる新約聖書の言葉はかつてイエスと地上の生涯を共にし、その十字架の死と復活を経験した弟子たちの証言をもとに記されています。つまり、新約聖書の言葉は「弟子たちの言葉」と言ってよいのです。ついでに私たちの知っている旧約聖書はこの弟子たちの言葉の正しさを裏付けるものとして教会では大切にされているのです。つまり、私たちにとっては旧約聖書の言葉も弟子たちの言葉と考えてよいと言えるのです。ついでに教会が自分たちの信仰の内容を告白するために使われて来た有名な文章には「使徒信条」と言う名前が記されています。この文章は使徒たちの言葉のエッセンスを伝えるものとして「使徒」と言う名前が付けられていると言えます。つまり、教会が最も大切にしているのはこの弟子たちの言葉であると言うことが分かります。それではなぜ教会においてこの弟子たちの言葉が一番大切であると言えるのでしょうか。それは彼らの言葉が主イエスの言葉、つまり主イエスご自身に基づいて語られているからです。主イエスご自身が弟子たちに語るべき言葉を与えてくださったからこそ、その弟子たちの言葉は教会にとって大切なものと言えるのです。
この部分では「弟子たちの言葉によって信じた人々」つまり、この弟子たちの言葉を福音として語り継ぐ教会の伝道によって導かれた者たちの存在が対象となっています。弟子たちの言葉が主イエスに基づくように、教会が伝える言葉が弟子たちの言葉に基づいているなら、教会の伝える言葉も主イエスに基づくものと考えることができます。ですから私たちは教会を通して伝えられた主イエスの言葉によって信じる者とされたと言うことができるのです。
③信じる者たちを一つにしてください
主イエスは弟子たちの言葉を語り伝える教会の伝道を通して信じた者、つまり私たちのためにここでとりなしの祈りをささげていると言えます。それでは主イエスは私たちのために何を祈ってくださっているのでしょうか。第一に私たちが一つとなることができるようにという願いです。第二にそのわたしたちが主イエスのいる所にいることが出来るようにと言う願いです。イエスはこの二つの願いをこの祈りの中で明らかにされているのです。
私たちが一つとなること、これは先日の主イエスの「遺言説教」の中でも取り上げられた大切な課題です。なぜなら前回の個所で主イエスは世に残る弟子たちに「互に愛し合うように」と言う新しい掟を与えてくださったからです(13章34節)。それでは私たちが主イエスのこの掟に従って互いに愛し合うならそこでいったい何が起こるのでしょうか。その答えは私たちが一つとなると言うことです。ですからイエスは弟子たちの言葉を信じた者たちが「互に愛し合い」、一つとなるようにと願っていることが分かるのです。そして主イエスは「私たちが互いに愛し合うなら、(私たちが)イエスの弟子であることを世の人が知るようになる」と言われました。ここでも主イエスは「私たちが一つとなるなら、主イエスが神から遣わされたメシアであることを世の人々が信じるようになる」と言われているのです(21節)。
ですから私たちが主イエスの福音をこの世の人々に有効に伝えるためには、何よりも私たち自身が互いに愛し合い、一つとならなければならないと言えます。そのためにも教会の一致は何もよりも大切であり、教会の活動はこの「一致」のために行われる必要があると言えるのです。もちろん、この一致はこの世の世界で行われるようなものとは大きく違うことを私たちは心がける必要があります。戦争の渦中にある国は国民すべてが一つとなって戦いに力を注ぎこむことができるように国民の一致を訴えます。そのような国ではこの一致のために都合の悪い存在があれば、それを力で抑え込んだり、抹殺するということが行われています。しかし、教会の一致は邪魔者を消すことで実現するようなものではありません。お互いが愛し合ってこそこの一致は成立するのです。教会に集められたすべての人は神によって選ばれており、またその人たちの持つ賜物もみな神から与えられているものと言えます。その一人一人は神が教会を一つにするために選ばれた者と言えるのです。だから、私たちが新しい戒めに従って互いに愛し合うならば、教会は一つとなることができのです。
かつてオランダの改革派神学者のアブラハム・カイパーは民族や文化が違う者たちはそれぞれが別々に集まって礼拝をささげることが大切であると言うことを教えました。ですからこのカイパーの考えが南アフリカでの人種隔離政策アパルトヘイトを生み出した元凶と批判されることもあります。しかし、カイパーがこの主張をしたのはそれぞれの民族に与えられた文化や歴史は皆、神に由来する大切なものだと言う前提があるからです。だからそれを無視して私たちが一つとなろうとするとき、教会は画一的で無味乾燥な礼拝をささげることになってしまいます。そしてさらには、教会が一つのかたちに当てはまらない人々を批判したり、排除する恐れが生れます。しかし、このカイパーの教えに従えば、私たちは国家や民族においても、また個人においてもそれぞれが持っている文化や個性を大切にする必要があるのです。なぜなら、それらの違いは皆、神から与えられた賜物と言えるからです。教会はその賜物が十分に生かされることにより、神の栄光をあらわすという目的を果たすことできます。そして教会に集まる人々のそれぞれの生き方は違っていても、神の栄光をあらわすと言う点で私たちは一つとなることができるのです。だからイエスはこの一致が実現することができるようにと祈ってくださったのです。
3.私とともにおらせてください
また主イエスは「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください」(24節)とも祈っています。この祈りは私たちがいつも主イエスと離れることなく共に生きるためにささげられています。私たちは自分の人生がこれからどうなってしまうのか不安を感じることがあります。しかし、主イエスは私たちの人生がたとえどうなったとしても、決して私たちから離れることがありません。いつも私たちと共にいてくださると、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(14章18節)と言う言葉を通して約束してくださっているのです。さらにこの約束を成就するためにも主イエスは天に昇ってくださり、私たちのための場所をそこに準備してくださったとも言っておられるのです(14章2〜3節)。
私たちの地上での命が終わったら私たちはどうなってしまうのでしょうか。そのことについて聖書は詳しい説明をしてはいません。しかし、たとえ私たちどこに行ったとしても安心して良いのは、「そこは主イエスがおられる所だ」と言うことです。主イエスが共にいてくださる所であれば、そこは私たちにとって確かに「天国」と言うことができるのです。だからこそ、この主イエスのとりなしの祈りは私たちを世の様々な不安から解放し、生きる力を与えることができるものだと言えるのです。
4.私たちを支えるイエスの祈り
最後に私たちが誤解してはならないのはこの祈りが、私たちに対して主イエスが抱いている単なる願望を表しているものではないと言うことです。私はこの説教の題名を「イエスの願い」としましたが、むしろ今は「イエスの祈り」とつけた方がよかったと思っています。なぜなら、私たちは人が祈る祈りの言葉をその人が自分に期待している「願望」だと考え、勝手にプレッシャーを感じてしまうことがあるからです。
この教会の創設時期に関わってくださった一人の姉妹とあるときこんなことを話したことがあります。信仰者の両親のもとで育ったその姉妹はいつも自分のためにささげられる両親の祈りの言葉を聞いてあまり気分がよくなかったと言うのです。その姉妹の両親は自分たちの期待通りに娘が良い子に育ってくれるように祈っていたのでしょう。でも、その姉妹は両親の祈りの言葉を聞くたびに居心地が悪くて仕方がありません。なぜなら、その祈りを聞くたびに自分がその通りになっていないことを感じるからです。そして神さまからも自分はそのことで責められていると感じたのです。その話を聞いた私は「そのご両親の祈りはあなたに対して抱いている願望であって、神さまの願いとは別かも知れないね…」とその姉妹は言うとその姉妹は安心したように「あれは私に対する神様の願いではないのですね」と言ったことを思い出します。
主イエスはこの姉妹の両親のように祈りを通して私たちにプレッシャーを与えようとしているのでは決してありません。むしろ、私たちが互いに愛し合って一つとなれるように祈ってくださっているのです。だからこそ、私たちが教会の兄弟姉妹と愛し合い、一つとなって神の栄光をあらわすために生きることができるとしたら、それは私たちがそのようになれるように祈ってくださった主イエスの御業によるものだと言えるのです。
私たちはたとえ現実の自分たちの生活がこのイエスの祈りと違っていると感じても決して絶望する必要はありません。なぜなら、主イエスはすでに私たちが愛し合い、一つとなれるように祈ってくださっているからです。この主イエスのささげてくださった祈りは必ず私たちの上に実現するはずです。だから私たちは希望を捨てることなく、主イエスを信じて、信仰生活を送って行くことが出来るのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスがここで祈っている「彼らの言葉によってわたしを信じる人々」とは誰のことを言っているのでしょうか(20節)。
2.主イエスはすべての人が一つとなり、父なる神とイエスの交わりの中にとどまって生きるなら世の人々はどうなると言っていますか(21節)。
3.信じる者が一つとなるために、イエスはどのような掟を私たちに与えてくださいましたか(13章34節)
4.わたしたちがイエスのおられる所に共にいることができると言う祈りの言葉(24節)は私たちにどのような希望を与えますか。