2022.5.29「天に上げられるイエス」 YouTube
ルカによる福音書24章46〜53節(新P.161)
46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
1.天国はどこにあるのか
今朝は主イエスが天に上げられた出来事を記念する礼拝をささげます。使徒言行録では「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(1章3節)と記しています。ですからキリスト教国ではイースターが行われる日曜日の日から数えてちょうど40日後の木曜日に「主の昇天を」記念する礼拝がささげられています。そして日本のような非キリスト教国ではこの日を次の日曜日にずらしてささげるようになっています。
昔、宇宙ロケットに乗って大気圏から宇宙空間に飛び出したソ連の宇宙飛行士が「自分はどこにも神などいないことを確認した」と豪語したと言います。彼がそう語ったのは聖書の語る「天」と言う言葉を読み間違えているところから起こったと考えることができます。なぜなら多くの人は聖書が語る「天」あるいは「天国」と言う言葉を空の上のどこかにあると考えてしまう傾向があるからです。しかし、ここで誤解してはならないことは聖書の言う「天」と言う場所は宇宙空間の中のどこか限られた場所を指す言葉ではないと言うことです。それでは聖書の語る「天」とはどのような場所を語るのでしょうか。もっとも簡単にこの聖書の言葉を解釈すれば「神がおられる場所」を「天」と呼んでいると考えることができます。
昔、教会学校の子どもに聖書を教えていたときに「天国って、死なないと行けないの…?」と質問されて、すぐに答えを言うことできずに困ってしまったことがあります。神はキリストを信じる私たちといつも一緒にいてくださると約束してくださっています。ですから、神を信じた者はすでに「天国」の住民とされていると言うこともできるのです。だから、パウロは「私たちの国籍は天にある」(フィリピ3章20節)と語っているのです。しかし、そのパウロも他の場所では「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」(フィリピ1章23節)と自分の願いを語っています。
このようなパウロの言葉を参考にして考えてみると「天」はどのようなところと言えるのでしょうか。私たちはイエス・キリストの十字架の御業によってすでに救われた者となりました。しかし、私たちの救いはキリストによって確実なものになりましたが、まだ完成されている訳ではありません。やがてキリストによって私たちの救いが完成されるときがやって来ます。パウロはそのとき私たちはキリストと共にいることができる、神と共にいることができると言っているのです。つまり、聖書が言う「天」とは神がおられる場所であると共に、キリストによって救われた私たちの救いが完成される場所であると考えることができるのです。
2.イエスの昇天の意味
かつてこの地上で活動された主イエスは今から遡って2000年以上前に天に昇られたと言うことが聖書には記されています。この昇天の出来事を詳しく取り上げているのは私たちが今日テキストとして使っているルカによる福音書と同じ作者によって記された使徒言行録と言う二つの書物です。ルカは使徒言行録を先に記した福音書の続編として記していると考えられています。そしてルカの福音書は主イエスの昇天で終わり、使徒言行録はその昇天の出来事から始まっています。ですからその二つの書物を分ける出来事としてルカはこの「主イエスの昇天」の出来事を用いていることが分かるのです。
主イエスはこの地上で行うべきすべての業を終えて神のおられる天に帰られました。そしてイエスが天に昇られることによって始まるのが、イエスの弟子たちによって行われる活動、イエスを信じる者によって作られる教会の活動です。ですから、使徒言行録はイエスの弟子たちによって作られた教会の歩みを記録した書物と言うことができます。
しかし、誤解してはならないのは、ルカはこの二つの書物の間で「主役の変更が起こった」とは語っていないと言うことです。なぜなら、使徒言行録の物語の主役も福音書と同じように主イエス・キリストであると言うことができるからです。確かに、使徒言行録はイエスの弟子たち、ペトロや、そしてダマスコへの道の途中で復活されたイエスに会い、その弟子となったパウロなどの活動を記録しています。しかし、この使徒言行録を読んで分かって来るのは、彼らは主イエスに用いられた人々であって、実際にそこで働いたのは主イエスご自身であると言うことです。
ですから、主の昇天の出来事は主イエスとの弟子たちとの関係の変化を語っていると言えるのです。この昇天の後、主イエスは新たな形でご自分の弟子たちと関り、そしてその関りを通して地上で働きを継続されて行ったのです。つまり、私たちがこの主イエスの昇天の出来事から学ぶことができるのは、主イエスは弟子たちの時代から私たちの住む現在まで教会とどのように関わってくださり、また教会を通してどのように働いてくださるかということなのです。
3.弟子たちは何の証人なのか
①聖霊降臨の約束
今日の聖書箇所では私たちが主イエスの昇天の出来事を理解するために、主イエスが復活された最初の日曜日にエルサレムの町にあった部屋の一室に集まっていた弟子たちの前に現れた出来事を取り上げ、そこで主イエスが弟子たちに語られた言葉を記録しています。
「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(46〜48節)。
ここにはイエスの昇天の後、弟子たちが何をしなければならないかと言う主イエスから弟子たちに向けられた指示が語られています。ここで主イエスは弟子たちに対して「あなたがたはこれらのことの証人となる」と言ってくださいました。また弟子たちがその証人の使命を全うするために「都にとどまりなさい」とも彼らに命令されているのです。
まず、この「都にとどまりなさい」と言う主イエスの命令について考えてみましょう。主イエスはなぜ弟子たちが「都にとどまる」ことを求められたのでしょうか。その理由は次のように説明されています。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは…」。ここで語られているのは聖霊が弟子たちの元に送られると言う出来事です。これは私たちが次週の日曜日にお祝いする聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事を示しています。弟子たちが主イエスから与えられた使命を全うするためにはこの聖霊を受けなければなりませんでした。それはどうしてでしょうか。主イエスはこの後、弟子たちの上に送られる聖霊を通してこの地上での業を継続されるからです。つまり、弟子たちに聖霊が送られるという出来事は、昇天後の主イエスと弟子たちとのかかわりが新たな段階に入ったことを説明するものなのです。
②悔い改めは神の御業
さてここで重要になるのが弟子たちは何を伝える証人となるのか、聖霊を受けた弟子たちが何をこの世に対して証しすることになるのかと言うことです。そのことについてもう一度主イエスの言葉を読み返してみましょう。
「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』」(46〜47節)
この時代に弟子たちが神からメッセージが記された書物として大切に読んでいたのは、私たちが今、「旧約聖書」と言う名前で呼んでいる書物です。旧約聖書はユダヤ人が大切にして来た信仰の書物です。しかし、キリスト教会はそれまでのユダヤ人の読み方とは違い、この旧約聖書を特別な目的を持って読み解きました。それは主イエスを指し示す書物としてです。そしてその読み方が正しいことはここでの主イエスの言葉が教えています。聖書の研究家はよく新約聖書と旧約聖書の間にある違いを強調しています。しかし、私たちが旧約聖書を読むときに大切なのはいつでも主イエス・キリストを通してそれを理解すると言うことです。私たちがその視点を守って旧約聖書を読んでいくなら、私たちは旧約聖書の言葉を通して主イエスの福音を確かにすることができるのです。
主イエスは旧約聖書が書いているように神の計画に従って十字架で死に、そして三日目に復活されました。それではこのイエスの十字架の出来事を通して何が実現したのでしょうか。それが「わたしたちの罪の赦し」です。この罪の赦しとは私たちと神との関係の中で障害となり、私たちを神から引き離していた根本的な原因である罪が取り去られたと言うことを意味しています。ですから、わたしたちは主イエスの十字架と復活の出来事によって神との関係が回復され、神と共に生きることができる「天の国籍」を持つ住民と変えられたのです。
私たちはどちらかというと「悔い改め」と言う言葉の意味を人間の努力や修行によって実現するものと考える傾向があります。しかし、このイエスの言葉を読むと罪の赦しも、悔い改めも皆同じ神によって実現するものであると言うことが分かります。つまり「悔い改め」とは神によって私たちに与えられた「罪の赦し」を喜んで受け入れるようにしてくださる神の御業を語っているのです。だから、「主イエスなど自分の人生には関係ない、自分は赦してもらわなければならなに罪などない」と語る人は「悔い改め」をまだ体験していないことになります。しかし、そのような人であっても天から送られて来る聖霊が働けば、必ず「主イエスは私の罪のために十字架につけられた、このイエスによって私の罪は完全に赦された」と言えるようになる「悔い改め」が神から与えられるのです。
③主イエスの御業を証しする教会
ところで弟子たちがここで証しなさいと命じられているのが「イエスの十字架と復活」の出来事だけではなく、この「罪の赦しを得させる悔い改め」までも含まれることに注意を向けるべきです。なぜなら、私たちは「罪の赦しを得させる悔い改め」は「イエスの十字架と復活」を通して示された福音を伝える弟子たちによって実現するものと考えているからです。しかし、ここでは「罪の赦しを得させる悔い改め」も弟子たちが証しするべき対象として語られているです。
このことは「罪の赦しを得させる悔い改め」、つまり弟子たちによって実現したキリスト教会の歩みは、彼らの活動によるもののように見えますが、結局は主イエスの御業であって、弟子たちはその主イエスの御業を世に証しする使命が与えられて者でしかないことを表しているのです。
使徒言行録には確かにイエスの弟子たちのなした歩みが語られています。しかし、実は使徒言行録が記している出来事は、弟子たちではなく弟子たちに聖霊を送って、彼らを通して働いてくださった主イエスの御業を記録しているのです。そしてこの関係は今でも私たちの教会の上に続いています。ですから私たちの教会の歩みも主イエスの御業であると言えるのです。そして私たちは私たちを通して働く主イエスの御業の証人として教会の一員とされているのです。だから私たちがこの使命を担う証人として生きようとするなら、私たちも主イエスが送ってくださる聖霊を受ける必要があるのです。
4.弟子たちの喜び
さてルカによる福音書は主イエスの昇天の出来事を次のように報告しています。
「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(50〜52節)。
ここで注目すべきことは、主イエスの昇天の出来事を体験した弟子たちが「イエスをひれ伏した」と言うことです。実は聖書の世界に生きる者にとって「ひれ伏す」つまり「礼拝する」と言う行為は決して神以外のものにささげることはできない行為であったと言えるのです。つまり、弟子たちがこの時にイエスに「ひれ伏す」ことができたのは、彼らが主イエスを神として公に認めたことを表しています。弟子たちは今まで主イエスを自分たちの導く教師として考えて来たのかも知れません。しかし、その弟子たちはイエスの十字架と復活、そしてこの昇天の出来事を通してはっきりとその方を神ご自身であると言うことを認めることができたのです。
そしてこの弟子たちの変化は次に記されている彼らの「喜び」と言う言葉にも豊かに表されました。弟子たちは今まで自分たちの教師であるイエスに従うために様々な努力をしてきました。しかし、その努力もイエスの十字架の死を前にして行き詰まり、崩壊したのです。彼らはこの出来事を通して、自分たちの力では主イエスに従うことはできないと言うことを知らされたのです。
それでは弟子たちは主の昇天を体験して、なぜ喜んだのでしょうか。主イエスは「天」に昇られることを通してご自身が「神」であることを彼らに示してくださいました。そして主イエスはこれからその神として弟子たち一人ひとり関わってくださることを教えてくださったのです。主イエスは弟子たちがどこにいても、どんな状況の中でも彼らに聖霊を送り、彼らと関り続けてくださるのです。だから私たちはかつての弟子たちが体験したようにもはや主イエスを見失うことはりません。なぜなら、主イエスは神の御子として天におられ、そこから私たちの人生を導いてくださるからです。このように主イエスの昇天は私たちと神との確かな関係が始められたことを私たちに示しているのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスの言葉によれは旧約聖書の言葉は神のどのような計画を私たちに教えていると言うことが分かりますか(46節)。
2.この神の計画に従ってイエスの十字架と復活が実現しました。またこの出来事を通して弟子たちは神のどのような業を伝える証人となるとここでは言われていますか(46〜47節)。
3.イエスはどうして弟子たちに「都にとどまっていなさい」と命じたのでしょうか(49節)。
4.イエスが天に昇られたとき、その出来事を目撃した弟子たちはどのような反応を示しましたか。イエスが天に昇れば弟子たちはかつてのようにイエスの姿を見ることできなくなるはずです。それなのに弟子たちはイエスが天に昇ることをなぜ「大喜び」したのでしょうか(50〜53節)。