1. ホーム
  2. 礼拝説教集
  3. 2022
  4. 5月8日「言い逃れはできない」

2022.5.8「言い逃れはできない」 YouTube

ローマの信徒への手紙1章18〜23節(新P.274)

18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。

19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。

20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。

21 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。

22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、23 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。


ハイデルベルク信仰問答書

問9 御自身の律法において人ができないようなことを人に求めるとは、神は人に対して不正を犯しているのではありませんか。

答 そうではありません。なぜなら、神は人がそれを行えるように、人を創造されたからです。にもかかわらず、人が悪魔にそそのかされ、故意の不従順によって自分自身とそのすべての子孫からそれらの賜物を奪い去ったのです。

問10 神はそのような不従順と背反とを罰せずに見逃されるのですか。

答 断じてそうではありません。それどころか、神は生まれながらの罪についても実際に犯した罪についても、激しく怒っておられ、それらをただしいさばきによって、この世においても永遠にわたっても罰しようとまさるのです。それは、「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守り行わない者は皆、呪われている」と神がお語りになったとおりです。

問11 しかし、神はあわれみ深い方でもあるのではありませんか。

答 確かに神はあわれみ深い方ですが、またただしい方でもあられます。ですから、神の義は、神の究極の権威にそむいて犯される罪が同じく究極の、すなわち永遠の刑罰をもって身と魂とにおいて罰せられることを要求するのです。


1.牧会者が作ったハイデルベルク信仰問答

 このハイデルベルク信仰問答は題名の通り問答の形式でキリスト教信仰の内容を説明しています。牧師がこの信仰問答を使って信徒たちを訓練するように作られています。そしてこの文章がなぜ問答形式で書かれているのかと言えば、それは信徒がここに書かれて文章を暗記するためであると言えます。そして牧師が信仰問答に記された問いの部分の言葉を読んで、信徒が覚えている信仰問答の答えの部分を語ると言うのが正しい信仰問答の用いた方だと考えられています。

 現在でも教会では新たに洗礼を受けて教会に加入しようとされる方のために試問会と言うものを行います。その席で牧師や長老が洗礼を受けようとする人に質問をするのです。私たちの教会では牧師や長老はどちらかというと洗礼を受ける人が答えやすいような質問をする傾向がありますが、もし、その席でこのハイデルベルク信仰問答が用いられたら、改革派教会の行う試問会として最も理想的なものだと言えるのではないでしょうか。

 この信仰問答を作った人はウルジヌスと言うドイツ人の牧師であったことが分かっています。彼は優秀な神学者であったと同時に、実際に教会で奉仕をし、人々にキリストの福音を伝えた伝道者でした。私たちは人に福音を伝えようとすると実際にそこでいろいろな人からさまざまな質問を受けることがあります。「神がおられるのなら、なぜ世界には深刻な問題が山積みのままなのか」とか、「天国はどこにあるのか」とか多種多様な質問を受けます。私たちはこれらの質問に自分の考えではなく、聖書がどう教えているのかを伝える必要があります。おそらくこの信仰問答を記したウルジヌスと言う牧師も伝道していていろいろな質問を受け、その質問に聖書の言葉を使って答えることをしていたのだと思います。だのであったかも知れないと私は思うのです。

 「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何か」と言う第一問の質問があります。牧師は病床で死を間近にしようとする人にも福音を伝える必要があります。この信仰問答の答えは死の不安を抱いている人に「大丈夫、あなたはもうイエス・キリストのものだ。そのイエスがすべてのことをしてくださるのだから、怖がる必要はない」。そのように人々を励ますことができた牧師たちの実際の働きから生まれたものであったとも考えることができます。そのような意味でこのハイデルベルク信仰問答の内容は私たちの実際の信仰生活の中から生まれて来る様々な問いに、聖書に基づいて答えようとしているのです。


2.神は不正を犯しているのか

 前回、私たちは人間の悲惨さを取り上げて、神に造られた人間がなぜこのような状態になってしまったのか、その原因について調べました。本来、神に造られた人間は悲惨な存在ではなく、すばらしい存在であったのです。神は人間を神に似せて創造されました。それによって人間だけが神と交わることができ、その神の命にあずかって生きることができたのです。ところが神によって創造された最初の人間は自ら罪を犯してしまいます。そのとき人間は神に似せて造られた、「神のかたち」の機能を損なってしまったのです。そして人間の悲惨さはこのときから始まったと聖書は教えるのです。

 聖書は最初の人間が罪を犯してしまったときの反応を次のように記しています。

「神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」(創世記3章11〜13節)

 アダムとエバの神に対する答えを読むとすぐに分かります。彼らは自分で罪を犯したのに、その自分の責任を棚に上げて、他人のせいにしようとしています。アダムは「エバが食べろといったから」と答えました。そしてエバは「蛇に騙された」と言っているのです。どうも人間と言う生き物は最初から責任転嫁が得意であったようです。しかし、問題の責任を誰かのせいにすることは簡単ですが、それでは本当の問題の解決を得ることはできません。私たちが問題の責任を社会や他人のせいにしても、その社会や他人は私たちの責任を変わって受けることはしてくれません。ましてや私たちが社会や他人を自分に都合のいいように変えることも簡単にはできないのです。

 ハイデルベルク信仰問答の問9は神の律法を私たち人間が守ることができないとしたら、そもそもそんな実行不可能な律法を作って人間に与えた神に責任があるのではないかと言う、人間が得意な責任転嫁の論理を語っています。しかし、すでに私たちが学んで来たように、神に造られた人間はこの律法を守ることができる賜物を始めは持っていたのです。ところがその人間が罪を犯すことによってこの賜物が失われてしまったのです。つまり、問題の責任はやはり賜物を失ってしまったわたしたち人間に求められるべきなのです。


3.神の怒り

 続いて問10では問題の責任は人間にあることを認めています。しかしどうしてもその罰から逃れたいという人間の心理がここにも示されています。まるで、今まで怒って抗議していた人が、その抗議が受け入れられないと悟ると、一転して泣き落としに入って「見逃してほしい」と相手願うようなものです。しかしこの「何とか見逃してほしい」と願う人間に対して、信仰問答は「だんじてそうではありません」と「それはできない」と語ります。そして神がどこまでも人間の犯した罪の責任を追及されるということを教えているのです。ここで「神は生まれながらの罪についても実際に犯した罪についても」と二種類の罪が語られています。これは私たち人間の最初の祖先が犯した罪の責任と同時に、その性質を受け継ぐ私たち自身が神に対して犯している現実の罪のことが取り上げられているのです。つまり、私たち自身もこの罪の責任者の一人であることを信仰問答ははっきりと語っているのです。

 ところでここで信仰問答は神が私たちの罪に対して「激しく怒っておられる」と言う言葉を使っています。最近、私は「アンガーマネージメント」に関する本を購入して読みました。これは私たち人間が抱く「怒り」と言った感情を上手にコントロールする方法を教える書物です。なぜなら、私たちは一時的に燃え上がる怒りの感情のせいで対人関係において取り返しのつかない失敗を犯してしまうことがあるからです。むしろ、私たちはその怒りと言う感情をコントロールすることで、冷静に物事を判断して問題解決の道を探る必要があるのです。

 宗教改革者のマルチン・ルターはこの神の怒りを非常に恐れていました。なぜなら、彼の父親は癇癪もちで、自分が気に入らないことがあると急に感情を爆発させて、家族に当たり散らすような人だったからです。ルターは神を自分の父親と似たような存在と思っていたのです。だからこそ、ルターは神の怒りが突然に自分に向けられるのではないかと心配でならなかったのです。

 聖書には「神の怒り」と言う言葉が確かに度々登場します。私たちが誤解してはならないのは、これは私たち人間の抱く「怒り」と言う感情と同じものではないと言うことです。むしろ、神はどこまでも冷静な方であり、私たち人間の犯す罪に対していつでも適切で、ふさわしい対処を行われるのです。神は人間の犯した罪を神の掟に基づいて裁き、その罪に対してふさわしい罰を与えられるのです。

 このように「神の怒り」と言う表現は人間の犯す罪に対する神の正しい反応を示す言葉であって、一時的な感情の爆発のような現象を表すようなものではありません。人間の場合、このような感情に支配されてしまうと正しい判断ができなくなり、新たな問題を引き起こす原因となる可能性があります。しかし、神の怒りはそうではありません。神はいつでも公正で正しい裁きを行うことのできるお方だからです。


4.正しい神

①憐み深く、正しいお方

 人間は怒って見ても、泣き落としに入っても駄目だと分かった場合、次に何をしようとするのでしゅうか。もしかしたら相手をおだてて、いい気持にさせて自分を赦してもらおうとするかもしれません。ハイデルベルク信仰問答の問11では「神さまは憐み深いかたではありませんか」と言う言葉を使います。辞書を調べてみると「憐み」言う言葉には「人の悲しみや痛みに同情をしめすこと、人に対して深い愛情を抱くこと」と言った意味があると説明されています。確かに聖書が語る神は「憐み深い方」であると言えます。

 リジョイス誌ではこのところ毎日、旧約聖書の士師記の物語が紹介されていました。この士師記に登場するイスラエルの民は繰り返して、神に対して罪を犯しています。そしてそのたびに厳しい罰を彼らは神から受けて苦しみます。ところがその彼らが神に対して助けを叫び求めると、神は彼らを助けるために士師を送られるのです。そして神は罪を犯したイスラエルを決して見捨てないのです。ここに神の「憐み」がよく示されていると言えます。

 しかし、信仰問答が紹介する「憐み深い方」は同時に「ただしい方」であると教えられています。私たちはここでも誤解してはいけないことがあります。なぜなら真の「憐み」とは問題を見過ごしたり、その問題についていい加減な判断をすることではないからです。むしろ、私たちの世界では人間の方がいつもいい加減な態度をとって、さらに問題を深刻化させています。そのために私たちはどうにもならなくなってしまうことがよくあります。神の憐みとはこのような人間のいい加減な態度と違って、人間を本当に愛し、その人間を本当に救おうとする神の性質を語っているとも言えます。もし、人間の罪がそのまま見過ごされていたらこの世界はどうなってしまうのでしょうか。世界は滅びへの道をまっすぐに進むしかありません。だからこそ、この世界をそして私たち人間を本当に救うためには「神のただしさ」と言う御性質が必要なのです。


②どうしたらよいのか

 「神の義は、神の究極の権威にそむいて犯される罪が同じく究極の、すなわち永遠の刑罰をもって身と魂とにおいて罰せられることを要求するのです」(問11)と言う厳しい言葉でこの問いは結ばれています。つまり、今私たち人間は絶対絶命の状態に置かれているのです。

 どんな人間でもこのような立場に自分が追い込まれると、必死になって「どうしたらよいのか」ということを考えるかも知れません。信仰問答はこの問いに答えて次の部分から「第二部 人間の救いについて」の教理を語り出します。普通、誰かに「どうしたらよでしょうか」と聞かれる人は「これをこうしなさい」と何かの指図を与えるはずです。ところが、この信仰問答の内容はそうではありません。私たちが何かをするのではなく、神が私たちのために何をしてくださったのかをこれから教えようとするからです。

 私たちはこの信仰問答が語るように、自分たちの犯した罪によって「永遠の刑罰」を「身と魂」で引き受ける必要があります。しかし、私たちはここでこの信仰問答の第一問の答えを思い出してみましょう。そこでは私たちのただ一つの慰めについて「わたしが私自身のものではなく、体も魂も、生きてにも、死ぬにも、わたしたちの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と書かれていました。

 永遠の刑罰を免れることができない私たちの体と魂が「イエス・キリストのもの」となったとはどのようなことなのでしょうか。神は私たちのために何をしてくださったのでしょう。そのことを私たちは続けてこの信仰問答から学んで行きたいと思うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.人間が「どのような善に対しても全く無能であらゆる悪に傾いている」(問8)のは誰の責任ですか。この点に関して神が不正を犯していなことはどこで分かりますか(問9)。

2.神は人間の犯した罪に対してどのような態度で臨まれますか。律法に書かれているすべてのことを守れない者はどうなりますか(問10)。

3.神は「憐み深い方」であると共に、どのような方だと信仰問答は答えていますか(問11)。

4.神の義に基づくなら私たち人間の犯した罪にはどのような罰が要求されていますか(問11)。

2022.5.8「言い逃れはできない」