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2022.6.12「人間の救いについて」 YouTube

ローマの信徒への手紙8章1〜4節(新P.283)

従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。


ハイデルベルク信仰問答書

問12 わたしたちが神のただしいさばきによってこの世と永遠との刑罰に値するのであれば、この刑罰を逃れ再び恵みにあずかるにはどうすればよいのですか。

答 神は、御自身の義が満足されることを望んでおられます。ですから、わたしたちはそれに対して自分自身によってかあるいは他のものによって、完全な償いをしなければなりません。


1.教会に何を求めてやって来たか

①教会はキリストの福音を提供するところ

 以前、アメリカ独立運動のリーダーの一人だったベンジャミン・フランクリンの書いた日誌を読んだことがあります。彼はある時、教会に行ってそこで牧師が語る説教があまりにも退屈でつまらない話だったと言う感想を残しています。そのときフランクリンが聞いた説教は教会の伝統に基づいて語られたお話で、フランクリンにとっては「それは時代遅れの、あまりにもつまらない話」としてしか聞えなかったのです。おそらく科学者でもあったフランクリンはこのとき自分の知的な満足を満たす何かを牧師の説教に求めていたのかも知れません。だからフランクリンはその期待が裏切られたことをわざわざ日記に記したのです。

 教会には様々な動機を持った人々がやって来ます。しかし、教会は必ずしもその人たちの期待に答えるものを提供できるとは言えないのです。だから、せっかく教会にやって来た人が、その後は来なくなってしまうことも起こるのです。

 それでは教会はいったい何を人々に提供することができるのでしょうか。それはキリストによって示された福音、良き知らせであると言えます。教会以外の場所でも人々の期待に答える何かを提供することは可能です。しかし、キリストの福音だけは教会に行かなければ受けるとることのできないものだと言えます。ところが、多くの人は教会で語られる福音が自分にとって良き知らせであると言うことが分かりません。そのため、教会に続けて通う必要を感じることができず、自分の期待に答えてくれる他の場所を求めてどこかに行ってしまうのです。


②福音のすばらしさを理解するために

 私たちが今学んでいるハイデルベルク信仰問答書は今日から第二部の「人間の救いについて」の個所に入って行きます。この部分はキリストによって示された福音の内容を説明する箇所であり、この信仰問答の中でも一番大切な箇所であると言えるのです。もし、教会の牧師の語る説教がこの部分で語られている内容と違っていたり、また反対のことを言っていたとしたら、そのお話は正しい意味で神の言葉を伝える説教とは言えず、人間の語る作り話になってしまうことになります。ですからこの第二部を学びは教会で説教を語るものにとっても、またその説教を聞くものにとってもとても重要になって来るのです。

 私たちはこの信仰問答に従って今まで第一部の「人間の悲惨について」と言う短い箇所を取り上げてきました。この箇所はある意味でこれから語られる第二部の内容が自分にとってどんなに大切であるかを気づかせる箇所であったと言えます。つまり、私たちは第一部の内容を理解することで、聖書が示すキリストの福音がどんなに自分にとって大切なものであるかが分かるようになるのです。フランクリンのように教会で語られる説教が退屈で無意味だと考える人のほとんどはこの第一部が教える内容、つまり自分が今どんなに悲惨な状態に置かれているかが分からないからだと言えます。そのような意味で、私たちはこの第一部の教えをしっかりと受け取ることで、これから始まる第二部の教えが自分にとってどんなに素晴らしい神の福音、よき知らせであるかが分かって来ると言えるのです。


2.不安な人生

①最初は理解できなかった

 実はこんな話をしている私も最初から聖書の教える福音をよく理解した上で教会に通っていた訳ではありません。それでは何を求めて私が教会に行ったかと言えば、それは「心の平安を求めて」と言うことが出来るかも知れません。当時の私は心に大きな不安を抱えながら毎日を送っていました。その時自分の人生に漠然とした不安を抱えていた私は、何とか自分がその不安から解放される方法がないかと考えて生きていました。そのために古代の哲学者や宗教家の語る言葉を記した本で読み、また最新の心理学が説明されているたくさんの本を買い集めて読んでいました。しかし、それらの書物を読んでも私は何の解決策も見出すことができずに苦しんでいたのです。そのような私がやがて不思議な導きでキリスト教会に行き、その門を叩くことになりました。もちろん、教会に行ってもそこで牧師が語るお話は自分にとってチンプンカンプンな内容で、まるで外国語を聞いているように聞こえるだけでした。


②「不安」と「恐怖」の違い

 ところで皆さんは自分が感じている「不安」と言う問題について考えてみたことがあるでしょうか。「不安」はその原因となるものが漠然としていてよく分からないために、その解決策を見出すことが難しいと言えます。人間が抱える同じような問題の中に「恐怖」というものがあります。この「恐怖」は「不安」と違いその原因が最初からはっきりしていると言えます。ですから、その原因を見極めて正しく対処するならば「恐怖」はある程度は解決することができるのです。高所恐怖症ならば高いところに登らなければその恐怖を味わうことはありません。対人恐怖症ならば人に会わなければよいわけです。もちろん、このような解決策も「完全なものである」とは言えません、それでもわずかひと時であってもその人から恐怖を取り除くことは可能となるはずです。

 しかし、「不安」は違います。「不安」はその原因となる対象がはっきりとしていないために、対処の方法を見出すことはできません。哲学者のパスカルは「いつもでも自分の横にはぽっかり穴を開けた深淵がある」と言ったそうです。考えてみれば私たちの人生には自分でも対処できない深刻な不安でいつでも付きまとっているように思えます。

 たとえば、私たちは自分の「死」を恐れています。確かに私たちも人間の「死」について一般的な知識は持っています。しかし、私たちは自分の死をまだ一度も体験していません。自分の死は私たちにとって未知の対象であり、自分はどうしたらよいのかが分からないのです。だから私たちは刻一刻と自分に迫って来る自分の死を考えるとき不安でどうにもならなくなってしまうのです。


3.律法による検査とその結果

 かつて宗教改革者の一人であるマルチン・ルターも自分の人生に大きな不安を抱えて生きていました。ルターはその不安から自分が解放されることを願って、修道院に入る道を選びました。そこで彼は戒めに従って厳格な修道士としての生活を送ろうと心がけます。しかし、彼は結局、そこでも不安から解放されることがありませんでした。いえ、彼の不安は修道院の生活の中でさらに増し加えられて行ったと言えます。なぜなら、ルターは修道士のとして神の掟に従って生きようとすればするほど、その掟に自分が完全に従うことのできない人間であることを知るようになったからです。彼はそこで自分の力では自分を救うことができないことを痛感したのです。

 私は求道中にこのルターの信仰を現代に引き継ぐルーテル教会と言う教派で信仰の教育を受けました。この教会ではルターの作った小教理問答書という書物を使って信仰の教育が行われます。この小教理問答書は最初、かなりの時間を使って聖書の教える十戒の掟を学ぶようになっています。今、考えてみるとこの学びはルターが修道士として経験したことを信仰問答の学習者に追体験させるような役目を持っていたと言えます。なぜなら、私もこの十戒の学が進むほど、自分はこの十戒を守る力を持たない人間であること痛感させられることになったからです。私は今でもこの学びをして希望を見出すのではなく、自分に絶望するという体験を味わったことを忘れることはありません。まさに私はこの体験を通じて使徒パウロの語った次のような言葉が自分のことを言っていることを確信することができたのです。

「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」(ローマ7章19節)

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ7章24節)

 ハイデルベルク信仰問答の第一部「人間の悲惨について」はルターが経験したことと同じように私たち人間がこのままでは悲惨で、望みのない存在であることを明らかにしています。そこで次の第二部の最初の問12では「そんな悲惨なわたしたちはどうしたらよいのか」と言う内容を取り扱っているのです。


4.神の義を満たすもの

①自分自身か他のものによって

 私たちはすでに第一部でこの人間の悲惨の原因が私たち人間の犯した罪によって、神との正しい関係を失ってしまったことにあると言うことを学びました。そして私たちの抱える不安の本当の原因もここにあると言えるのです。なぜなら私たちと神との関係が破壊されてしまったことにより、人間は本当だった神にお任せしなければならないことまで自分でしなければならなくってしまったからです。しかし、私たち人間が神に代わることは決してできません。だから私たちは不安から解放されることがいつまでもできないのです。

 だから必要なのは私たちと神との破壊された関係が回復されることです。そうすれば私たちは神の正しい導きを受けて人生を送ることができます。しかし、どうしたら私たちと神との破壊された関係は回復されることができるのでしょうか。信仰問答は「神は御自身の義が満たされることを望んでおられる」とここで答えています。そしてこの信仰問答の最後のところにはそのために「完全な償いをしなければなりません」と言うことが語られています。つまり、この言葉から考えると神の義は満たすことができれば私たちと神との関係は回復されるのです。そしてその義が満たされるためには私たち人間は償いをして埋め合わせをしなければならないと言うのです。

 ところでこの信仰問答はその償いを「自分自身によってか他のものによってか」誰かがしなければならないと教えています。信仰問答がここで自分自身だけではなく「他のもの」と言う言葉を使っています。なぜならこの信仰問答が第一部で教えるように私たち人間は自分の力では償いをする能力を持っていないのです。だから、私たちは自分に代わって償いをしてくれる「他のもの」を必要としていると言えるのです。


②罪人の招く主イエス・キリスト

 先ほど引用した使徒パウロの言葉には続きがあります。パウロは自分自身に絶望する声をあげながら、次のように言葉を続けています。

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(7章24〜25節)

 ですからこの第二部はこれから私たち代わって償いをしてくださり、私を救ってくださる方について、主イエス・キリストの御業を私たちに教えて行くのです。その主イエスは福音書の中で次のようなことを語っています。

「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5章31〜32節)

自分は健康だと思っている人は医者に行きたいとは決して思いません。医者に行くの人は「自分は病気だ」と言う自覚がある人、あるいは自覚はないが健康診断で異常が見つかった人であると言えます。ハイデルベルク信仰問答の第一部はまさにこの健康診断の役割を果たしています。私たち人間は神の掟を基準に考えると皆、罪人であり、悲惨な状態に置かれていることが分かるようになるからです。

 それでは私たちはどうしたらよいのでしょうか。私たちを罪から解決し、私たちを悲惨な状態から助けてくださる方のところにすぐに行って、助けを求めることです。救い主イエスは私たちのような「罪人」を救うためにやって来られた「魂の名医」です。そして教会で語られる説教はいつも私たちをこの「魂の名医」に導くためになされます。フランクリンが教会で語れる説教を「時代遅れのつまらない話」としか考えられなかったのは、自分が罪と言う深刻な病に侵されていることを自覚していなかったからだと言えます。だから、彼は救い主イエスが自分のためにこの地上に来てくださったことを理解できなかったのです。そして、マルチン・ルターのように自分は自分を救う力を持たない罪人であることを知る人は幸いであると言えます。その人は、聖書に語られる福音の内容がすべて自分に与えられた神からプレゼントであることを知り、喜んでその福音の言葉に耳を傾けることができるようになるからです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.既に私たちが学んだようにハイデルベルク信仰問答の第一部は私たちに何を教えていると言えますか。

2.今日、取り上げている信仰問答の問12の言葉を読み返してみましょう。ここには何が語られていますか。

3.どうして私たちが救われるためには神の義が満たされる必要があるのでしょうか。

4.どうして信仰問答は償いをするものを自分自身によってか「他のもの」によってなされなければならないと教えているのですか。

5.ハイデルベルク信仰問答が教えることを私たちが日常の信仰生活で忘れてしまうと、私たちの信仰生活にどのような影響が及ぶとあなたは思いますか。

6.神の掟で自分の人生を判断する時、「自分は救いについて自分の力では何もできない罪人である」と悟る者は、次に何を求める必要があると言えますか。

2022.6.12「人間の救いについて」