2022.6.19「命のパン」 YouTube
ルカによる福音書9章10〜17節(新P.121)
10 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。
11 群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。
12 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」
13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」
14 というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。
15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。
16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。
1.異なる聖餐式の理解
①聖体?
今日はこの礼拝で神戸改革派神学校のための献金をささげます。私が学んでいたとき、神学校は現在の場所ではなく神戸市の六甲という場所にありました。この神学校から山の方に歩いて登っていくと改革派の神港教会があります。そしてその道をさらに上っていくと六甲カトリック教会という建物がありました。残念ながら神港教会も六甲カトリック教会も現在では新しい建物になり私が知っている教会の姿は無くなってしまいました。私は神学生のときに何度かこの六甲カトリック教会に行ったことがあります。その建物の中に入ると私たちの知っているプロテスタント教会の雰囲気とは全く違う光景がそこにあったことを思い出します。
何やら小さな小部屋があって「ここは何だろう」と思った場所が、カトリックの信徒が神父に罪の告白をする「告解室」であったりします。礼拝堂に並べられている長椅子に座ると丁度、自分の足元に前列の長椅子に取り付けられた形で長い板が付けられています。椅子に座った姿勢から考えると足置き場のように思えるものですが、決してそこに足を置いてはいけません。これは礼拝堂に入って来た信徒たちがひざまずいて祈るときにもちいる「膝置き」と言ったらよいものです。カトリック教会では私たちと違って礼拝堂の前に十字架につけられたイエスの像が飾られる祭壇が設けられています。ですからカトリックの信徒はこの祭壇に向かって祈りをささげることが多く、そのために礼拝堂でひざまずくと言う姿勢が求められるのです。
私が不思議に感じたのは礼拝堂の前の祭壇のところに赤いランプが点灯している場所があることでした。おそらく扉のついた箱のようなものがそこに置かれていたと記憶しています。その場所を見て「あれは何かな」と私は疑問に思いました。これも後でわかったことですが、そこは「聖体」が置かれている場所で、赤いランプが点灯しているときはその中に「聖体」が入っているということを示しています。
「聖体」と言う言葉は「聖なる体」と言う意味を持っています。カトリック教会では私たちのプロテスタント教会の理解とは違い、礼拝の場で神父が祈りをささげると聖餐式で使われているパンとぶどう酒がイエス・キリストの体に変わると考えるのです。つまり、礼拝で使われたパンとぶどう酒は司祭が祈った後はイエス・キリストの体そのものに変わっていると言うことになります。そうなるとそれが礼拝で残ったものであっても粗末に捨てることはできません。キリストの体なのですから大切にしなければならないのです。ですからカトリック教会ではこれを「聖体」と呼んで崇め、祭壇に安置すると言うことをしているのです。
②信仰が無ければ意味がない
私たちの改革派教会のルーツを作った宗教改革者たちはこのカトリック教会の聖餐式の理解は誤りであると強く主張しました(ハイデルベルク信仰問答 問78〜79)。おそらくカトリック教会の聖餐式の理解が危険な点は、これでは聖餐式における「信仰」と言う大切な要素が抜け落ちてしまうところにあると考えたからではないでしょうか。なぜなら、聖餐式のパンとぶどう酒が神父の祈りでキリストの体に変わってしまうことになれば、たとえば信仰のないものがそれを食べても、キリストの体を食べたことになり、つまりキリストから恵みを受けることができると言うことも可能になるからです。これでは聖餐式に参加する者たちにとって信仰のあるなしは全く関係がないと言うことになってしまいます。宗教改革者たちは「信仰」と言うことを大切に考えた人たちでした。そして聖餐式はその私たちの信仰を強めるためにイエスが定めてくださったものだと理解していましたから、信仰がない人がそれにあずかることには意味がないと主張したのです。
ですから宗教改革者たちは聖餐式のパンとぶどう酒はキリストの体に変わるのではなく、パンとぶどう酒はそのままであってもこれを信仰を持って受ける人には聖霊が働いて、キリストの恵みを豊かに受けることができると教えたのです。
2.五つのパンと二匹の魚の奇跡と最後の晩餐
今日の礼拝ではイエスのなされた有名な奇跡、五つのパンと二匹の魚が増えて五千人の群衆を満腹させたと言う物語を学びます。実はこの奇跡の物語はそれぞれの内容には多少の違いはありますが、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書が共通して取り上げているとても珍しい出来事なのです。つまり、四つの福音書はそれぞれこの物語が主イエスとその福音を理解するために見逃してはならない大切なことを教えていると考えていたと言うことが分かります。
私たちはまず、この物語の中に示されているイエスのなされた動作に注目する必要があると言えます。なぜなら福音書はイエスのなされた動作を次のように紹介しているからです。
「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。」(16節)。
多くの学者たちはこのイエスの動作は最後の晩餐のときの主イエスがなされた動作を思い出させるものだと言っています。同じルカによる福音書は最後の晩餐でのイエスの様子を次のように伝えています。
「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』」(ルカ22章19節)。
もちろん物語の順序から言えば今日私たちが学んでいる「五つのパンと二匹の魚の奇跡」の方が先に起こった出来事で、最後の晩餐はこの後、福音書の最後に紹介される出来事です。しかし、この福音書を記した著者とってはすでにこの二つの出来事は過去に起こった出来事であり、そのお話をよく知っていました。ですから、福音書記者はこの五つのパンと二匹の魚の奇跡の物語が最後の晩餐の際に主イエスが定めてくださった聖餐式の意味を伝える大切な出来事と考えていたと言えるのです。だから福音書記者はわざわざ同じような主イエスの動作を書き記したと考えることもできるのです。そう考えると、この物語は私たちが毎月、教会で受ける聖餐式にはどのような恵が隠されているのかを私たちに教える大切な物語と言うことができます。また、ある意味では私たちは今、この聖餐式にあずかることによって五つのパンと二匹の魚の奇跡を体験した弟子たちと同じような恵みな受けていると考えることできるのです。
3.イエスの与えてくださる豊かな恵み
このとき主イエスの元に集まっていたのは五千人あまりの群衆たちだったと聖書は記しています。ただし、聖書はこの時代の風習に従って人数の計算に婦人や子供たちの数を入れてはいなかったと考えられています。そうなると実際にはここに集まっていた群衆は男女や子どもたちを合わせて一万人近い人たちであったとも考えられているのです。
この物語の中心に登場するのは五つのパンと二匹の魚です。他の三つの福音書と違ってヨハネの福音書だけはこのパンと魚の出所を次のように説明しています。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(ヨハネ6章9節)。このパンは少年がここまで持って来ていたものだと言われています。もしかしたら母親が少年にお弁当として持たせてくれたものなのでしょうか。そしてこのパンは小麦ではなく大麦で作られていると語られています。当時、大麦は通常は家畜の餌として用いられるもので、大麦のパンは小麦のパンを食べられない貧しい者たちの代用食物だったと言われています。
イエスの弟子たちは自分たちが直面している問題に対して最初から「こんなものは少しも役に立たない」と考えていたようです。だから彼らは一刻も早く群集を解散させて、おのおの自らが食料を得るようにしてほしいとイエスに願い出たのです(12節)。しかし、弟子たちの目には何の役にも立たないと考えられた五つのパンと二匹の魚もイエスの目には全く違うものとして映っていたようです。なぜなら、イエスはこの五つのパンと二匹の魚を使ってそこにいた群衆のすべてを満腹させることができたからです。
そのためにイエスはどうしたのでしょうか「(イエスは)賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡し、群衆に配らせた」(16節)と語られています。まずイエスはここで「賛美の祈りを唱え」て神に感謝をささげています。イエスは「これっぽっちでは何の役にも立たない」と不満を漏らしたのではありません。神はその御心を私たちに行わせるために十分なものを与えて下さる方です。だからイエスのように神に信頼して、それがたとえわずかなものに見えたとしても神に感謝して使っていけば、そこから驚くべき神の業を実現することができるのです。
また、主イエスはこの五つのパンと二匹の魚を「裂いて」弟子たちや群衆に分け与えました。この裂くという言葉のギリシャ語は「クラスマ」と言う言葉で元々は「分裂」と言う意味を持っています。一つのものが二つに分かれ、それがさらに分かれて、たくさんの数になっていくことを意味する言葉です。私たちの経験では一つのものを二つに分ければその分だけ小さくなります。それをまた分ければ、さらに小さくなってしまうはずです。しかし、主イエスの「クラスマ」は違うのです。数はどんどん増えていきます。しかし、むしろその量は増えていって群衆を満腹させるほどになり、あまりのパンくずが十二の籠にいっぱいになったと言うのです。
これは主イエスの与えてくださる恵みの豊かさを表していると考えることができます。主イエスの恵みが無きなって空になってしまうことは決してありません。だから、私たちは心配することなく、主イエスからの恵みを求め続けることができるのです。
4.主イエスが共にいてくださる
①私たちの信仰生活を助けるものとして
私たちが毎月、礼拝の場であずかる聖餐式はこの主イエスの恵みを私たちがいただく機会であると言うことができます。私たちが信仰を持ってこの聖餐式に参加するなら、主イエスは聖霊を私たちに遣わしてくださり、私たちの信仰生活を恵みで満たしてくださるのです。
日本で「無教会主義」という独特の考え方を持った人々がいます。彼らは最初に語ったカトリック教会の考えた方の全く反対の考え方を主張している人たちです。なぜなら彼らは「信仰さえあれば、洗礼も聖餐式も受ける必要はない」と主張しているからです。しかし、私たちは主イエスが聖書の中で洗礼を奨め、また聖餐式を定めて、それに信仰者が進んであずかるように教えてくださったことを無視したり、軽視してはいけないのです。
なぜ、主イエスは洗礼式や聖餐式を私たちの信仰生活を助けるために定めてくださったからです。私たちのことを一番よく知っている主イエスが、わざわざ私たちの信仰生活を助けるためにこれらのものを与えてくださったのです。「信仰さえあれば」と言ってもそれはある意味で自分の独り善がりの自己満足の言葉になってしまう可能性もあります。また、「信仰さえあれば」と言っている人が次の日には「信仰がなくなってしまった」と絶望してしまうことも私たちの信仰生活には起こるのです。人の心は日々変わり、そこに確かなものを見出すことはできないからです。
だからそんな私たちに自分の信仰を確かめることができるものを主イエスは与えてくださったのです。それが洗礼式であり聖餐式であると言えます。ですから、私たちは聖餐式にあずかることで自分たちの信仰を確信することができるようになります。聖霊は聖餐式に参加する私たちに働いてくださり、主イエスが私たちと共にいてくださることを確信できるようにしてくださるからです。そして、その主イエスは決して尽きることのない恵みを私たちに与えて下さる方だと今日の聖書の物語は教えているのです。
②豊かに生きる秘訣
イエスの弟子たちは主イエスによってこのとき「人里離れた所」(12節)に導かれていました。そこには自分たちの必要は満たすものは何もありません。しかし、彼らはここで主イエスの奇跡を体験することができ、自分たちと共におられる主イエスが尽きることのない豊かな恵みを与えることが出来る方であることを知ったのです。そして福音書記者はこの体験を私たちは聖餐式にあずかることを通してすることができると教えているのです。
私たちは普段自分の生活が豊かになり、幸せになるためには様々な条件が必要であると考えています。そして、今の自分にはそれがそろっていないからダメなのだと思ってしまうことがあります。しかし、聖書は私たちに教えます。私たちを幸せにするのはそれらの条件ではなく、私たちと共に生きて下さる主イエスなのです。この事実を知る使徒パウロは次のように語っています。
「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」フィリピ4章11〜13節
パウロがここで言っている「秘訣」とは豊かな恵みを私たちに与えてくださる主イエスが共にいてくださると言うことです。そして聖餐式はこの主イエスと私達との関係を教え、さらにその絆を深めるために私たちに与えられているものだと言えるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.このとき弟子たちはイエスによってどのようなところに導かれましたか。弟子たちはそこでどのようなことを心配し始めましたか(10〜12節)。
2.弟子たちはこのときどんなものを持っていましたか。彼らは自分たちが直面する問題に対して、どう考えていたことが分かりますか(13〜14節)。
3.イエスは弟子たちが持っていたものをどのように取り扱いましたか。そうするとどのようなことがそこで起こりましたか(16〜17節)