2022.6.26「イエスに従う」 YouTube
ルカによる福音書9章51〜62節(新P.124)
51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。
52 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。
53 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。
54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。
55 イエスは振り向いて二人を戒められた。
56 そして、一行は別の村に行った。
57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。
58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」
62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
1.エステルの選択
①ハマンの陰謀
私たちが毎日聖書を読むための助けとなるリビングライフ誌ではしばらくの間、旧約聖書のエステル記という書物が取り上げられていました。エステル記はペルシャの王が絶大な権力を持つ時代に起こった一つの事件を取り上げています。当時、ペルシャ王の信頼を受けて巨大な権力を手に入れたハマンと言う人物はユダヤ人であったモルデカイを嫌い、ペルシャ王の権力を使ってペルシャ帝国内のすべてのユダヤ人を絶滅するという計画を立てて実行しようとしました。この結果、絶体絶命の状態に陥ったユダヤ人がどのようにその危機を回避し、またむしろ形勢を逆転するような出来事が起こったのかと言う物語が記されています。そしてこの物語の中で一番重要な働きをした人物こそがエステルというユダヤ人の女性です。
聖書を読むとこのハマンは「アガク人」であったと紹介されています。つまり彼は長い間、イスラエルの民と対立関係にあった「アマレク人」の子孫であったことが分かります。ハマンは自分がペルシャ王の次に偉い地位に上り詰めると、国中の人々が彼にひれ伏すのを見て有頂天になります。ところがただ一人だけハマンに頭を下げなかったのがユダヤ人のモルデカイと言う人物です。だからハマンの恨みはモルデカイ一人を無き者にすればよいはずなのですが、それでは収まりません。おそらくハマンの思いの背後には長い間対立し合う「アマレク人」と「ユダヤ人」との民族問題が隠されていたのかも知れません。ハマンはペルシャ王に「ユダヤ人は危険な民族だから、根絶やしにしないと国のためにならない」と訴え、まんまと王の勅令を出させることに成功します。
②すべてはこのときのために
ところでこの物語の主人公であるエステルはユダ王国の滅亡によって遠い外国に連れてこられていた捕囚の民に属する人物でした。この物語では彼女の両親はすでにこの世を去っていて、彼女は親類のモルデカイの家に引き取られ、その家族として成長していたとされています。ところがある時、ペルシャ王のお妃選びの候補にエステルが選ばれてモルデカイの元を離れて一人で王宮に行くことになりました。やがてペルシャ王は美しいエステルを見初めて自分の王妃として選びます。そして、そこで起こるのが先ほどから語られるハマンによるユダヤ人虐殺計画の陰謀です。
モルデカイはユダヤ人の危機をエステルの手を借りて解決しようと考えました。彼は王宮にいるエステルにペルシャ王に申し出て、その命令を取り消すようにしてほしいと願ったのです。ところが当時のペルシャの決まりでは王が招いていない者が勝手に王の前に出れば死刑とされるという決まりがありました。つまり、エステルはその禁止事項を破って王の前に出て行かなければならないのです。ここでエステルはユダヤ人のために命がけの行動を求められることになります。
一方、エステルがユダヤ人であることは今まで秘密にされていて誰も知りませんでした。つまり、モルデカイの申し出を彼女が断っても、エステルに直接害が及ぶ訳ではなかったのです。ここでエステルは人生における重大な決断を迫られます。そこでモルデカイはエステルに次のような言葉を語ったと言うのです。
「この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」(エステル記4章14節)。
ここでモルデカイは「このときのためにあなたの人生は導かれて来たのではなか…」とエステルに語ります。エステルのこれまでの人生は彼女には分からない出来事の連続であったのかもしれません。遠い異国の地に捕囚の民として強制的に連れて来られ、幼くして両親に死に別れる体験をエステルはしていました。親戚のモルデカイに大切に育てられて来たのかもしれませんが、突然にして彼女は王様の命令で親しい家族と別れ、慣れない王宮での生活を送ることになりました。ところがモルデカイはそのすべてのことがこのときのためにあったとエステルに語っているのです。
③イエスに招かれて弟子とれる
実は聖書は私たちの人生もこのエステルと同じように神に用いられる時がやって来ることを教えています。そして神はそのために私たちの人生を今まで導いてくださっていると言うのです。私たちにとっては「なぜ自分の人生にこんなことが起こったのか」と思うような繰り返しの人生であっても、必ずそのすべての出来事が用いられ、またその本当の意味が分かる時がやって来ると言うのです。そしてエステルが自分の命を顧みずに、王の前に出て行った時、彼女の人生の秘密が解き明かされる時が訪れたように、私たちの人生にもそのような時が訪れることを聖書は語っているのです。
それでは私たちの人生にとっての重大な決断のときはいつだと言うのでしょうか。それは私たちが救い主イエスに出会って、その弟子となるという決断をするときです。そのとき、私たちの人生のすべての出来事が大切な意味を持つことが分かる時がやって来るのです。しかし、それでは私たちがイエスの弟子となるとき、私たちにはどのような覚悟が求められるのでしょうか。エステルは命がけで王の前に出ると言う覚悟を求められたように、イエスの弟子になるためにも大切な覚悟が求められます。そして今日の聖書の物語はこの弟子の覚悟を教えるものと考えることができます。
2.弟子たちの犯した失敗
「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」(51節)。
この物語は十字架にかかり命をささげようとされるイエスの固い決意の姿勢がはっきりとしたときから始まっています。このときイエスの覚悟はすでに決まっていました。ところがこのイエスの覚悟が実現するために仕えるはずの弟子たちの覚悟はまだ決まっていなかったと言うことがこの物語には明らかにされているのです。
このときイエスと彼の弟子の一行はサマリアのある村に入られます。サマリア人は歴史的にユダヤ人と対立関係にあった民族に属する人々です。だからでしょうか彼らは快くイエスの一行を迎えることがありませんでした。さらに聖書はその理由について次のような言葉を書き加えています。「イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。」(53節)。イエスの覚悟はこの時も少しも揺るぐことはありません。しかし、サマリアの人々はそんなイエスを歓迎することができませんでした。なぜなら、彼らの関心はイエスがその不思議な力を使って自分たちの生活を少しでもよくしてくれるところにしかなかったからです。
ところがここでサマリア人から冷たい待遇を受けた弟子たちの心はここで大きく混乱していきます。サマリア人への怒りに燃えたヤコブとヨハネはイエスに次のように語ったと言うのです。
「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(54節)。
この言葉を語ったヤコブとヨハネの兄弟の内、ヨハネは「雷の子」と言う別名を持つほど怒り出したら手が付けられないような人物でした。彼らは旧約聖書の預言者が神に願って天から火を降らせて、その敵を滅ぼしたという言い伝えに従ってこのようにイエスに語ったのでしょう。それほどまでに彼らの腹の虫は収まらなかったのです。しかし、彼らはこのとき、イエスの語られた大切なアドバイスを忘れてしまっていました。イエスは少し前の個所で弟子たちを伝道旅行に派遣するために次のような注意を彼らに語られていたのです。
「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい」(ルカ9章5節)。
この言葉は弟子たちに求められている覚悟は何が起こってもイエスに従うことであって、それ以外のことに大切な人生の時間を使う余裕はないと言うことを教えています。サマリア人の行動の責任は彼ら自身が負わなければなりません。そして彼らの行動に対して正しい評価を下すのは神ご自身だけなのです。しかしこの時、ヤコブとヨハネは自分が正しい裁きを行う神の代わりになったかのように考えていたのでしょう。だからイエスは彼らを強く戒められたのです。なぜなら、彼らに求められている覚悟はどんな時にもイエスに従うということだけだったからです。
3.何が大切なのか
①目的地を目指す人生
次に登場するのはイエスに弟子としての招きを受けた人々の反応とその反応に対してイエスが語って下さった言葉です。まず一番目の人は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」(57節)と言う殊勝な覚悟を語っているように聞こえます。しかし、この人にイエスは次のように答えられています。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(58節)。「どこにでも行く」と言った人にイエスはその覚悟は本当なのかと問い返していると言えます。イスラム教の聖典であるコーランの中には預言者イエスが語った言葉として「橋の上に家を建てることは愚か者のすることだ」と書かれているそうです。この言葉は私たちのこの世の人生を「橋」にたとえていて、大切なのはこの人生と言う橋を渡り切って人生の目的地に行き着くことだと教えているのです。イエスに従うと言うことはこの人生の本当の目的地を目指して進むことだと言えます。そのような人にとっては旧約聖書に登場するアブラハムと同じようにこの世には本当の安住の地を見出すことはできないのです。
②最優先される覚悟
さらに次に登場する人はイエスの招きに対して「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」(59節)と願い出ています。当時のユダヤの習慣では自分の父の葬儀を行うのは息子に課せられた大切な義務であり、何よりも優先されるべきだと教えられていました。ところがこの申し出にイエスは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」(60節)と答えたと言うのです。実際に死んでいる者が他の死者の葬儀を行うことは不可能です。ですからここでイエスが言う「死んだ者たちに」と名指しされている人は、霊的に死んでいる人を意味していると考えられているのです。すべての常識をわきまえていて、この世を渡り歩くための処方術を心得ている人でありながら、神に対しては全く関心を示さない人がここで言われているのです。そして彼らこそが「死んでいる者」だと言えるのです。だからここでもまたイエスに従うということが私たちの人生にとって最優先されるものであることが語られています。なぜなら、私たちの人生の本当の価値が現れるのは私たちがイエスに従うという覚悟を決めることから始まるからです。
③今求められている覚悟
さらに最後には「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」(61節)とイエスの招きの言葉に答えた人が紹介されます。家族を心配させないためにも一言挨拶する機会を与えてほしいというのです。するとイエスはこの人に「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(62節)と答えています。当時の農作業は牛に鋤を引かせて畑を耕すという方式で行われていたようです。そのさい農夫は左手に牛を操る手綱を持ち、右手では牛に振るう鞭を持っていました。この農作業は熟練した技術と集中力を必要としていました。だからよそ見をしたら畑をまっすぐに耕すことができなくなるのです。
私はこの言葉を実際にある牧師から言われたことがありました。当時、私は牧師になるため神学校に行く決意をして、そのための準備をしていました。ところがその時、会社で働いていた私は自分の仕事の引継ぎがうまく終わらないために、神学校への入学を一年延ばそうかと考えるようになっていたのです。そんな私にその牧師は「君がいなくなっても会社がつぶれてしまう訳ではない」と言って計画通りに神学校に入学することを勧めて下さったのです。
私の知り合いの一人が他のある牧師に「自分も仕事を引退して時間ができたら、その人生を神様のために使いたいと思っています」と言うことを伝えました。するとその牧師は「神様はお古になったあなたではなく、新品のあなたを求めているのではないですか」と言われたと言うのです。大切なことはいつかではなく、今のこの自分の人生で主イエスに従うという大切な決断をすることです。もちろんそれは、必ずしもその決断は今までの仕事をやめることや自分の家庭を捨てることを意味することではないと言えます。むしろ私たちが今の自分の生活の中で主に従う決心をするときに、私たちの人生を主イエスは見事に用いてくださるのです。ですから私たちもこの大切な機会を失うことなくイエスの弟子として覚悟を固め、その歩みを続けて行きたいと思います。そうすれば主イエスは私たちが弟子として生きることができるように天から聖霊を送って私たちを助けてくださるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.サマリアの村でイエスが歓迎されなかったとき、ヤコブとヨハネはイエスに何と言いましたか。どうして彼らはこんなことを言ったのでしょうか。イエスはこの二人をどうされましたか(51〜56節)。
2.「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従います」と言う人にイエスはどんな言葉を語りましたか。どうしてイエスはこんな言葉を語られたのでしょうか(57〜58節)。
3.「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と答え人にイエスは何と語られましたか。イエスが語る「死んだ者たち」とは誰のことを言っているのでしょうか(50節)。
4.「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と申し出た人にイエスは何と答えられましたか(52節)。あなたはこれらのイエスの言葉を読んで、どのような感想を持ちますか。