2022.6.5「約束の聖霊」 YouTube
ヨハネによる福音書14章15〜26節(新P.197)
15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
22 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。
23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。1.ペンテコステ 教会を導く聖霊
①共に集まった場所
今朝は聖霊降臨日、ペンテコステの礼拝をささげます。今から約二千年前にこの聖霊降臨日にどのようなことが起こったかは使徒言行録の2章の記事から知ることができます。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(2章1〜4節)。
この「五旬祭」は当時のユダヤ人たちが大切にしていたお祭りです。同じようにユダヤ人の守っていたもう一つの大切な祭、「過越祭」から数えてちょうど50日目にこの祭りは開催されていましたので「五十日目の祭り」、「五旬祭」という名前が付けられていたのです。このとき、イエスの弟子たちはエルサレムにあったある家の一室に集まっていました。それは主イエスが天に昇られる前に「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24章49節)と弟子たちに約束されていたからです。そして弟子たちはこの主イエスの約束を信じてこの日もエルサレムを離れずに共に集まり礼拝をささげていたのです。
私たちは聖霊が主イエスの約束を信じて集まった弟子たちの上に送られたことに心を留める必要があります。なぜなら、このペンテコステの出来事は今から2000年前に起こった過去の昔話ではなく、これ以後2000年の教会の歴史の中で繰り返し起こり続けている出来事だからです。聖霊は主イエスの約束を信じて集まり礼拝をささげる者たちの上に天におられる主イエスから送られます。つまり、私たちが毎週ささげている礼拝も私たちが主イエスから送られる聖霊を受ける場所であると言えるのです。
②異なる国の言葉
使徒言行録にはこの日に弟子たちの上に起こった大変に不思議な聖霊の起こされた出来事を報告しています。なぜなら彼らはこの聖霊によってさまざまな国々の言葉でしゃべりだしたからです。それでは弟子たちは自分たちが今まで習ったこともない外国語でどんなことをしゃべっていたのでしょうか。そのことについては次のような証言が残されています。
「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」(21節)
五旬祭のために遠くからやってきた人々はこの時、弟子たちが自分たちの普段使っている外国の言葉でしゃべりだすのを聞いて驚きます。しかも、彼らは様々な言葉で「神の偉大な業」を語っていたのです。このことはこれから聖霊を受けた弟子たちを通して福音が様々な言葉を使って全世界に広まっていくことを意味していると言えます。やがて弟子たちによって始まった福音伝道によってさまざまな言語を使う人々が神を信じるようになったからです。そして国境を越えてキリスト教会が聖霊を受けた者たちによって建てられて行きました。ですから教会はこの聖霊降臨日をキリスト教会の誕生日とも考えているのです。今日は聖書の言葉からこの日、弟子たちに上に降臨した聖霊の働きについて考えてみたいと思います。
2.イエスの遣わされる聖霊
①弟子たちのために送られた聖霊
少し前に学んだようにイエスは十字架にかけられる前に、弟子たちに向かって長いお話をされたことがありました。それは自分がこの地上から離れて、弟子たちと別れることになっても弟子たちが困ってしまうことがなく、安心して生きていけるようにさせるためのお話でした。
皆さんがもし、子どもを持つ親であるとしたら、自分がこの世を去ろうとするときに子どもたちのためにどのようなことを考えるでしょうか。多くの親は自分がいなくなっても、子どもが困ることのないようにと考えるのではないでしょうか。そのために財産を子どもに残してあげようと考える親もいるでしょう。しかし、一番多くの親たちが願うのはやはり自分の子どもが自分で独り立ちして生きていくこができるようになることではないでしょうか。ですから多くの親は自分がいなくなっても子どもたちが困ることなく生きられるようにと、子どもの自立を促し、そのために教育を施します。
それではこの時、イエスは地上に残される弟子たちのために何を願われたのでしょうか。不思議なことにイエスは弟子たちの自立を願うことはありませんでした。それではイエスはどうしたのでしょうか。イエスは弟子たちのたちのもとに聖霊が送られることを切に望まれました。それはたとえ自分がこの地上からいなくなっても弟子たちが困ることないようにするためです。イエスは聖霊をここで「別の弁護者」と呼んでいます。この「弁護者」という言葉の元々の意味は「そばに来て助けてくれる者」というものだそうです。いままで、イエスはいつも弟子たちのそばにいて彼らを助けてくださっていました。弟子たちはいつもイエスの助けを必要としていたのです。そして聖霊は「別の弁護者」、つまり弟子たちのそばに来てイエスの代わりに彼らを助ける役目を担われる方なのです。このような意味で聖霊は自分の力で何でも出来るような立派な人に与えられるものではなく、イエスがいなければ何もできないような者たちに天から送られるものであることを私たちは覚える必要があります。
②真理の霊
さてイエスはこの聖霊について「この方は、真理の霊である」(17節)とも語られています。それではイエスの言う「真理」とは何なのでしょうか。この答えを求めるために哲学者たちは長い時間をかけて探求し続け、また難しい本を残していきました。しかし、聖書の語る「真理」は哲学者たちが考えたようなものとは違うと言えます。国立国会図書館のロビーには「真理はわれらを自由にする」という標語が刻まれています。国会図書館に収められている膨大な書籍は真理を究めて自由を得るためにあると言っているのでしょうか。実はこの言葉はもともと聖書の言葉の一節から取られたもので、ヨハネによる福音書8章23節に元の言葉が記されています。
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
この言葉はイエスに従って生きる弟子たちに語られています。誰もイエスを信じ、イエスに従う弟子になるなら、真理を知り、自由になることができると言うのです。なぜなら、聖書の語る真理とはイエスご自身を指していると言えるのからです。イエスは誰も自分の力では知ることができない神を私たちにはっきりと示してくださり、その神が与えてくださる救いを明らかにしてくださいました。ですからここで語られている「自由」とはイエスを信じ、その救いを受けた者だけが味わうことのできるものだと言えるのです。
「真理の霊」である聖霊は私たちをいつもこの真理である主イエス・キリストに導いてくださる方であるからそう呼ばれているのです。ですから、この聖霊を受けた者は2000年前に主イエスとこの地上をともに歩むことができた弟子たちと同じような体験をすることができます。そしてこのことについて注意すべきなのは今日の最後のところに語られている主イエスの言葉の意味です。
「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(26節)
真理の霊である聖霊は私たちに何を教えてくださるのでしょうか。主イエスはここで語っています。「わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と…。聖霊は私たちに耳新しい知識を伝えるのではありません。かつて、イエスが教えてくださった言葉を私たちに思い起こさせる方だと言われているのです。ここに私たちが毎週の礼拝で、また毎日の生活で聖書を読み返して学ぶことの大切な意味が教えられています。聖書に記された言葉は確かに2000年も前に書かれた昔の言葉かもしれません。しかし、聖霊が働かれるときにこの言葉は新しくなるのです。なぜなら、天におられる主イエスは私たちにこの聖書の言葉を使って直接に語り掛けてくださるからです。ですから私たちはこの聖霊の働きによって聖書の言葉を今の自分に語られる神の言葉、主イエスから語られる言葉として聞くことできるようにされるのです。
3.三位一体の神の愛の交わりに招待される
さて、さきほども語りましたように。聖霊は「別の弁護者」として私たちと主イエスを結び付けてくださる方です。その意味では地上でイエスと暮らした弟子たちが味わうことができた喜びの生活を私たちにもさせてくださる方であるとも言えるのです。
しかし、聖霊の働きはそれだけで終わるのではありません。なぜなら、聖霊は私たちの信仰生活を導いて、私たちの人生に完全な救いを実現させえてくださる方だからです。ヨハネによる福音書で読んでいて興味深いのはイエスが弟子たちに聖霊を与えると約束してくださるのと同時に弟子たちに「互いに愛し合いなさい」という掟を与えられているということです。聖霊の約束と主イエスが与えてくださった新しい掟の間には密接な関係があると言えるのです。それはどうしてでしょうか。私たちの救いの完成と愛の掟はどのように関係しているのでしょうか。
先日、テレビでギリシャの哲学者アリストテレスの記した「ニコマコス倫理学」という本を簡単に解説している番組を見て興味深い言葉を聞きました。アリストテレスは「人は一人で生きていくことができない存在である」ということを強調しています。そのときにアリストテレスは「一人で生きていけるのは神か野獣しかいない」と語ったと言うのです。私はこの話を聞いてアリストテレスの考えている神と聖書の教える神は全く違うと言うことを知らされました。なぜなら、聖書の教える神はもちろんお一人だけで生きることも可能な方ですが、それにも関わらず私たち人間を創造して、ご自分と共に生きることを望まれた方だからです。それは人間が罪を犯して神から離れてしまった後も変わることがありませんでした。神は神に背を向けて生きる人間に対して主イエスを送り、その人間を救い出すことでご自身と一緒に生きることを望んでくださったからです。ここに聖書の教える真の神の御性質がはっきりと示されています。
キリスト教会は聖書の教える神を「三位一体」の神と語り、アリストテレスのような哲学者たちが教える神とは違うことを区別しています。父なる神、子なる神であるイエス・キリスト、そして聖霊なる神はそれぞれ違った働きをされる方でありながら、神としてはお一人の方だということを示すのがこの言葉の意味です。この「三位一体」という言葉は聖書には登場しませんが、聖書は父なる神、そして子なる神、聖霊なる神がどのような親密な関係にあるかを私たちに詳しく教えています。聖書はこの三位一体の神が愛によって結びついている方であることを語るのです。そのような意味で私たちの救いとはこの愛によって結ばれている三位一体の神の交わりに入れられることを意味すると言っても良いのかも知れません。
今日の聖書の箇所でも主イエスは私たちに聖霊が与えられるときにどのようなことが実現するのかを教えています。
「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(20節)
聖霊は私たちをこの三位一体の神の愛の交わりに招き入れてくださる方だとイエスは教えています。そう考えると主イエスの与えてくださった「互いに愛し合いなさい」という掟は私たちを苦しめるために与えられているものではなく、私たちをこの神の愛の交わりに招待してくださる掟であるということがわかります。主イエスが私たちの送ってくださる聖霊は私たちのうちに働いて、私たちがこの掟に生きることができるようにしてくださいます。この地上に生きながらも私たちの教会を、私たちの信仰の交わりを三位一体の神の愛の交わりを体験できる場所と変えてくださるのです。そして聖霊はやがて私たちの救いを完成させ、天国で神の愛のうちに生きることができるようにしてくださる方でもあるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスはご自分が天に上がられ、弟子たちの元を去って行くことを知ったときに、残される弟子たちのために何を願われましたか(16節)。
2.イエスの願いによって父なる神が弟子たちのために聖霊を送ってくださると弟子たちはどうなりますか(19節)。
3.イエスを愛する者はどのようなことを守る人だとイエスは言われていますか(21節)
4.それではどのような人が父なる神と主イエスと共に住むことができる者とイエスは教えていますか(23節)。
5.聖霊が弟子たちの元に遣わされたとき、その聖霊は弟子たちにどのようなことを教えるのですか(26節)
6.最後にあなたも使徒言行録2章の記事を読んで聖霊降臨日の日に弟子たちの上に何が起こったのかを確かめてみましょう。あなたはこの出来事からどんなことを学ぶことができますか。