2022.7.10「完全な償い」 YouTube
ヘブライ人への手紙9章25〜28節(新P.412)
25 また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。
26 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。
27 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、
28 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。
ハイデルベルク信仰問答書
問13 しかし、わたしたちは自分自身で償いをすることができるのですか。答 決してできません。それどころか、わたしたちは日ごとにその負債を増し加えています。
問14 しかし、単なる被造物である何かがわたしたちのために償えるのですか。
答 いいえ、できません。なぜなら、第一に、神は人間が犯した罪の罰を他の被造物に加えようとはなさらないからです。第二に、単なる被造物では、罪に対する神の永遠の怒りの重荷を担い、かつ他のものをそこから救うことなどできないからです。
問15 それでは、わたしたちはどのような仲保者または救い主を求めるべきなのですか。
答 まことのただしい人間あると同時に、あらゆる被造物にまさって力ある方、すなわちまことの神でもあられるお方です。
1.教会の教理が大切なわけは
①正しい聖書の理解を得るために
毎月第二週にささげられている伝道礼拝では宗教改革時代の大切な遺産であるとともに、私たち改革派教会の信仰の内容を正しく伝えるハイデルベルク信仰問答をテキストにして学んでいます。通常の礼拝では与えられた聖書の個所から解き明かしをするのが説教者の務めとなっていますが、この礼拝ではハイデルベルク信仰問答と言う聖書とは違った文書を解き明かすという形をとって行っています。もちろん、礼拝では聖書の朗読も行われますが、その聖書の箇所も当日に取り上げるハイデルベルク信仰問答の内容に関連したものが選ばれています。
このハイデルベルク信仰問答は教会の教理を教える書物であると言えます。それではこの教理とは何なのでしょうか。それは聖書の教えを私たちがどのように理解しているのか、それを明らかにするものだと言えるかも知れません。
私はこの教理の学びをあまりしないような教会で洗礼を受けてキリスト者になりました。その教会でもよく信仰の仲間たちと共に集まって聖書の学をします。聖書を読んで自分がこの箇所をどのように理解し、生活に適応しているかを話し合うのです。ところがときどきその選ばれた聖書の箇所の解釈を巡って議論になることがありました。そして普段からあまり教理を学んでいない私たちは本当に正しい聖書の理解が分からないまま「聖書って難しいね…」と言ってその会を終えることがよくあったのです。
教理は教会が聖書の言葉をどのように理解して来たかを明らかにする書物であると言えます。ですからこの教理を学ぶと私たちは正しい聖書の解釈方法を知ることができるようになります。そして教会に集う信仰の仲間たちが同じ聖書の理解を持って一致して信仰生活を送ることができるように助けてくれるのです。ですから、教理の学びは私たちが健全な信仰生活を送るためにも大切なものだと言えるのです。
②神の救いの御業を理解するために
もう一つ私たちが教理を学ぶことが大切な理由があります。私は今も言いましたようにあまり教理の学びを重要視しない教会で信仰生活を送ったことがあります。それではそのような教会ではいったい何が大切にされていたのでしょうか。それは自分の信仰の体験です。自分が日々の信仰生活の中で神の恵みをどれほど感じているのか。教会員はその体験を「あかし」と言う形で明らかする奉仕を行います。ですから毎週の礼拝では牧師の語る説教と同じように、信徒の語る「あかし」がプログラムの中に組み込まれているのです。ところがこの「あかし」と言うものはとても主観的で、個人の判断や考えが重要視されるところがあります。その人が神についてまたその恵みについて何を感じたかを語ることになるからです。しかしご存知のように人の思いと言うのはとても不安定で、頼りのならない面を持っています。昨日は喜んでいたのに、今日はがっかりしている…そんな「あかし」を私は教会の礼拝でときどき聴きました。するとその言葉に刺激されて自分の信仰も揺らぐような体験をしたのです。
教会の教理、特にこのハイデルベルク信仰問答は人間が何を感じているかを取り上げて、説明している書物ではありません。神が私たちのために何をしてくださったのか聖書が教える確かな真理を私たちに伝えているのです。確かに私たちの持っている考え方も、感じ方も日々変化していています。しかし、この信仰問答が私たちに教えている神の御業は決して変わることないのです。私は信仰者が進んで信仰の「あかし」を語ることはたいへんによいことだと思っています。しかし、その「あかし」は確かな教理の理解の上に語られるならばもっと素晴らしいものになると私は思うのです。だからこそ、私たちは正しい「あかし」を語るためにもこのハイデルベルク信仰問答が語る教会の教理を理解する必要があると言えるのです。
2.求められている「完全な償い」
さてこのハイデルベルク信仰問答は第一部でわたしたちすべての人間が悲惨な状態をなってしまっていることを教えました。そして続く第二部で私たちがその悲惨から救われるにはどうしたらよいのかと言うことを教え始めます。聖書によればすべての人間の悲惨の原因は人間が罪を犯して、神との正しい関係を失ったところにあることが分かります。ですから、人間が悲惨な状態から救われるためにはこの失われた神との正しい関係が回復されなければならないのです。
ハイデルベルク信仰問答は、人間はこのままであるならば神の正しい裁きを受け、この世においてもまた永遠にも自らが犯した罪に対する正しい刑罰を受けなければならないと言っています。人間は自らが犯した罪によって神に大きな損失を被らせたのですから、その損失を埋め合わせる必要があります。信仰問答はこのことを「完全な償い」と言う言葉で表現しているのです。
この「償い」と言う言葉に「完全」という言葉が付け加えられていることに私たちは注意すべきです。私たちは過去に自分が他人に対して犯した過ちを改めて指摘されるとき、「そのことはもう謝ったじゃないか…」と言い訳することがあります。自分の中ではもうその問題は解決していると思っているに、損失を被った相手は「まだ解決していない」と言うのです。「償い」は自分のために行われるものではなく、損失を被った相手のために行われるものだと言えます。つまり、その相手が「あなたを赦します」と認めてくれないかぎりは「償い」は終わっていないと言えるのです。そうでなければその「償い」は完全なものではないと言うことになるのです。
それでは神に対する私たちの償いはどうしたら完全なものになるのでしょうか。信仰問答はそれを「神の義が満たされること」だと教えています。つまり、人間が犯した罪によって損なわれた神の義が回復されなければならなにのです。その義を満たすために一番簡単なのは罪を犯したすべての人間が滅ぼされることです。しかし、それでは私たち人間は救われることができません。だから信仰問答は罪を犯した人間が滅ぼされることではなく、何か別の方法でこの神の義が満たされる方法を、「完全な償い」をする方法はないかと話を進めて行くのです。
3.誰も償える人がいません
①人間は完全な償いをすることできない
神の義が満たされて人間が救われるために「完全な償い」が必要です。しかし、その償いを私たち人間が自分で行うことは可能なのでしょうか。信仰問答は「決してできません」(問13)と断言して答えているのです。すでに学んだように、罪を犯した人間はそのときから自分たちが本来持っていた能力を失ってしまいました。ですから神の御心を正しく理解し、その御心に従うことが人間にはできないのです。いえ、むしろ人間は自分の心の王座から神を追い出して、そこに自分自身を据えることで、むしろ神の御心に敵対し、神に罪を犯し続けて、ますますその負債を増やしているのです。
よく、悪徳高利貸しからお金を借りて、借金漬けにされて人生を台無しにしてしまう人の話を聞くことがあります。借金をいくら返しても、その謝金を完済することはできず、利息が雪だるま式に増えていきます。これと同じように神に対して罪を犯した人間はそれを償うことができません。人間はただ自分の罪の負債を増やすことしかできないのです。
その上で私たち求められているのは「完全な償い」です。私たちが自己満足していても、神が赦してくださらない限り、完全な償いは成立しないのです。不完全な償いではどうにもならないのです。このことについて私は以前に大変、面白いたとえ話を聞いたことがあります。
ある人が食事をするために牛丼屋に入りました。そこで注文するや否や牛丼はすぐその人の前に運ばれて来ます。ところがその人が自分の前に運ばれて来た牛丼を見ると、その牛丼の上に一本の髪の毛が乗っていることを見つけます。そこですぐにそのことを店の人に告げるとその店員は「まことに申し訳ありません」と言ってすぐその牛丼を引き下げてゴミ箱にポンと捨てて、代わりに作り直した新しい牛丼を持って来てくれたと言うのです。そのときその人は考えたそうです。自分だったらもったいないので乗っている髪の毛を取り除いて食べるだろう。しかし、牛丼店ではそれは正しい対応になりません。それではお客を安心させて、信頼を得る回復させることはできないからです。
神が求めておられる「完全な償い」は人間がいくら善行に励んでも償うことはできないものです。なぜなら人間の行いえる償いは牛丼の上の一本の髪の毛を取り去るだけのようなものだからです。ところが神は私たち人間に全く新しくされた「完全な償い」を求めておられるのです。
②人間以外のものも同様に償えない
それでは人間には完全な償いをする能力がないとなれば、人間以外の被造物がそれを代わって成し遂げることは可能でしょうか。ハイデルベルク信仰問答は問14でそのような問答を続けて取り上げられています。 旧約聖書では人の犯した罪を償うために動物を犠牲にしてささげると言うことが奨められていました。イエスの時代にもエルサレムの中心に建つ神殿ではそこで働く祭司たちによって動物犠牲がささげられていたのです。だから、「その動物犠牲を私たちもささげればよいのではないか」ということになるかも知れません。それに対して信仰問答は「(神は)人間が犯した罪の罰を他の被造物に加えようとはなさらない」と解説しています。たとえば詩編には次のような言葉が語られています。
「もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」(詩編51編18〜19節)
ここから分かるのは神が求められているのは人間の砕かれた、悔いる心であって、動物犠牲のようなささげものではないのです。むしろ神はそのささげられた犠牲を通して明らかにされた人の心を見て判断されるのです。だから形ばかりの犠牲をささげても償いにはならないのです。その上で信仰問答は人間にできないものを他の被造物が代わってすることは決してできないだろうとも教えているのです。
4.私たちには仲保者が必要です
このようなお話を続けていくと神の義を満たす「完全な償い」をささげる能力を人間は持ってないことがますます分かってくるはずです。その上でこの「完全な償い」はその人間以外の他の被造物に求めることはできないとなれば、つまりやはり償は私たち人間がする必要があると言うことになります。そこで信仰問答の問16は人間でありながら、同時に「完全な償い」を行う能力を持った特別な人物が必要であると言うことを語り出します。そしてその人物を「仲保者」と言う言葉を使って表現しているのです。
この「仲保者」と言う言葉はあまり私たちの日常の生活では用いることのない言葉だと思います。一般的には「仲介者」と言う言葉の方がなじみ深いと思います。たとえば土地に対する売買契約を成立させるために働くのは不動産の資格を持った仲介者です。これと同じように、神と私たち人間の間には契約関係が成立しています。それは人間が神に従えば命を得ると言う「いのちの契約」です。最初の人間が神に従わず罪を犯したために、この契約はまだ実現されてはいません。しかし、その契約自身がなくなってしまった訳ではないのです。だから最初の人間に代わって人間の代表者となる方が現れて神に従うならば、私たち人間は命を得ることができます。仲保者はこの契約を実現させるために立てられる私たち人間の代表者だと言うことができるのです。
しかし、その代表者も私たちと同じような能力を持たない唯の人間ならば、その人物はこの契約を実現する力を持っていないために仲保者となることはできません。そこで信仰問答はこの仲保者に相応しい資格とは何かということをここで明らかにしているのです。
(その方は)「まことの、正しい人間であると同時に、あらゆる被造物にまさって力ある方、すなわち、まことの神でもおられる方です。」
そう言われれば私たちは皆聖書の中に登場するお一人の方の名前を思い出すはずです。しかし、信仰問答はまだその名前をここでは明らかにしていません。まるで連続テレビドラマの最後のように、「この続きはまた来週」と言われているような終わり方をしています。しかし、私たちは次の回を待つまでもなく、この方が私たちの主イエス・キリストであることをよく知っています。ですからこれらの問答は私たちが知っている主イエスを正しく理解するために大切であると言えるのです。主イエスこそ神の義を満たし、「完全な償い」を行うことのできるただ一人の「仲保者」だからです。神は御自身の義を満たすために、私たちを滅ぼすのではなく、この方を私たちのために救い主として遣わす方法を選んでくださったのです。主イエスが私たちに代わって神の義を満たすことで、私たちは滅びの刑罰から救い出され、永遠の命を受けることのできるように神は救の御業を行ってくださったのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.わたしたちが神の正しい裁きを受けて罪に対する刑罰から免れるためには「完全な償い」をする必要があります。それでは私たちはその完全な償いを自分自身ですることができますか(ハイデルベルク信仰問答問13)
2.私たちに代わってこの完全な償いを人間以外の「単なる被造物」がすることはできない訳を信仰問答はどのように教えていますか(問14)。
3.人間にはその完全な償いができない。しかし、その償いはやはり人間自身がするようにと神が求めておられるとしたら、そこではどのような方が必要となりますか(問15)。
4.「まことの、ただしい人間であると同時に、あらゆる被造物にもまさって力ある方、すなわち、まことの神でもあられるお方」(問15)と言う言葉を聞いてあなたはどのような人物を思い出しますか。
5.この信仰問答の言葉を通して、あなたが持つ主イエス・キリストについての理解は深まりましたか。