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2022.7.17「必要な事はただ一つ」 YouTube

ルカによる福音書10章38〜42節(新P.127)

38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。

39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。

40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。

42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」


1.思い出に残された説教奉仕

 今日は聖書の物語の中でも多くの人に知られているマルタとマリアの姉妹が登場するお話から皆さんと一緒に学びます。私もこのお話を今まで何度かこの礼拝で説教したことがあります。皆さんも様々なところでこのお話の解説を聞いたり、読んだことがあると思います。このお話は誰もが読んでもとても分かりやすいと感じるような物語となっています。なぜなら、聖書の中に繰り広げられている二人の姉妹の物語と同じような体験を私たちも日常の生活の中でしているからです。つまり、この物語は私たちのふだんの生活から考えてみても、とても身近なお話であると言えるのです。

 そう言いましても、私たちはこのお話の中でイエス様からみ言葉に耳を傾ける姿勢を評価された妹マリアに親近感を感じるよりも、せっかくイエスさまをもてなすという思いから始めた奉仕なのに、忙しさの中で心を取り乱してしまった姉のマルタにむしろ親近感を覚えるのではないでしょうか。皆さんの中でも「自分もマルタに似ている」と思われている方がおられるかも知れません。

 私は牧師になりたての頃に青森県の教会で働いていました。当時、私の奉仕した教会の隣町にも改革派教会があって、そこでは私の先輩の牧師が自給伝道という厳しい道を選んで奉仕をされていました。あるとき私は説教の奉仕に呼ばれてその教会の礼拝でお話することがありました。そのときに選んだ聖書の箇所がこのマルタとマリアの物語であったことを私は今でも覚えています。そこで私は聖書の解説書から学んだとおりに、妹のマリアは私たちの人生で一番必要な大切なこと、つまり主の御言葉に聞くことを選んだと言うことを強調しました。そして姉のマリアは最初の動機はよかったのだが、残念ながら大切なことを忘れてしまって失敗してしまったと言うようなお話をしたのです。私はそのとき私の話に耳を傾けてくださった教会の人たち、それはほんの数人の会衆でしたが、私の話を聞いて何か難しい顔になられたことを思い出します。今考えてみると私はそのとき聖書の理解ではなく、その教会の人に対する理解が足りなかったのだと思います。私の話を聞いてくれた人たちのほとんどは毎日厳しい生活のために懸命に働く毎日を送っている人たちでした。この方々は「神さまの言葉に耳を傾けることが大切だ」と言うことはすでによく知っておられました。しかし、それを知っていても日々の生活の中でさまざまな重荷を負わなければならないような兄弟姉妹のことを私は深く理解していなかったような気がするのです。

 むしろマルタとマリアの姉妹の物語はそのような人にこそ励ましを与えるものだと言えます。それでは様々なことに思い悩み、心を乱してマルタのように生きている私たちはこのお話から何を学ぶべきなのでしょうか


2.マルタの奉仕

①性格の異なる二人の姉妹

 この物語には性格が対照的な二人の姉妹が登場しています。活動的で世話好きな姉のマルタとどちらかと言うといつも一人で物思いにふけっているような妹のマリアです。心理学では兄弟は親の愛情を獲得するために争い合うので、自然と性格が違ってくると考えます。なぜなら後に生まれた者は先に生まれた者と同じラウンドで勝負すると不利となると考えるため、兄や姉とはまったく違う方法を選び、それが性格となって来るからです。そのような意味でまさにこの姉妹は現代の心理学の見解を証明するような存在であるとも言えるのです。

 この物語の転機はこのマルタとマリアの姉妹の家に主イエスが訪ねてくるというところから始まっています。ヨハネによる福音書にもこのマルタとマリアの姉妹が登場する物語を記されています。それは彼女たちの兄弟ラザロについてのお話に関してです(11章1〜44節)。ヨハネによる福音書を読むと彼女たちの家はエルサレムに近いベタニアと言う村にあったことが分かります。聖書を読むと主イエスはエルサレムにやって来たときにはこの姉妹の住む家を宿泊先に選び、そこから毎日エルサレムの町に通っていたと考えることができます。それだけ主イエスとこの姉妹の関係は深かったと言えるのです。もしかしたら、この主イエスとの関係が深まるきっかけとなったものが今日、私たちが学ぶ出来事であったと考えることもできます。

 さてこのお話を読んで多くの人が感じるのはこの二人の姉妹の内、主イエスに評価されるほど優れていたのは妹のマリアの方であり、姉のマルタはそうではなかったと言うことです。しかし、その結論は本当に正しいのでしょうか。私たちはここで二人の姉妹を比べて、どちらが正しく、またどちらが誤りと判断することは本当に主イエスの教えにかなっていることなのでしょうか。それは全く違うと思います。なぜなら、この物語の中で姉のマルタがしようとしたことは決して誤りではなく、むしろ重要な働きであったと考えることができるからです。


②主イエスに仕えたマルタ

 マルタはここで主イエスをもてなすために懸命に働いています。この「もてなす」と言う言葉には聖書のギリシャ語では「ディアコネオー」と言う単語が使われていて、別の箇所では「仕える」と言う言葉で翻訳されています。主イエスはご自分の弟子たちに積極的に人に「仕える」ことを教えられました。そしてご自分についても「人の子は仕えられるためではなく仕えために来た」とまで語っておられるのです。ちなみに教会の大切な役職の中に「執事」と言う働きがあります。この「執事」と言う用語も「ディアコネオー」と言う言葉から出ていると考えられています。

 聖書の教える神の愛は抽象的な言葉だけのものではありません。そしてその神の愛を具体的な形で表すものがこの「ディアコネオー」なのです。ですから、マルタが主イエスやそのほかのお客たちをもてなそうとしたことは少しも悪いことではありませんでした。むしろ彼女は信仰者としても賞賛されるべきものだったと言うことができます。おそらく主イエスはこのマルタの愛の行動を一番よく理解されていたのだと思います。だからイエスはこのマルタに非難するのではなく、愛情を込めて「マルタ、マルタ」と呼びかけてくださったのです。


3.ユダヤ人の習慣から見ると

 さてこの物語では主の足もとに座って、その話に聞き入っていた妹のマリアを主イエスが「マリアは良い方を選んだ」と評価してくださっていることが分かります。ところがこの時代のユダヤ人の習慣に従えば、マリアには全く逆の評価が下されることになるはずでした。なぜなら、当時のユダヤ人の考えでは聖書を学ぶような宗教的な営みは男子だけが行うものと考えられていたからです。それに対して女性には家の仕事に励むことで、男性を支えるような役割だけが求められていたのです。ですから、家の仕事も手伝わずにそこに集まった男性たちに混じって主イエスの語る言葉に耳を傾けたマリアは当時の人々の考えでは常識外れの人間として非難されるべきものだったのです。一方、この意味では主イエスやお客をもてなそうとして懸命に働く姉のマルタこそが当時の常識に従う模範的な女性と考えることができるのです。こんな考え方は今で言えば男女差別も甚だしいと批判されてもよいようなものでした。しかしこの当時の社会で生きる人々にはこの習慣に従うことが誰にも求められていたのです。

 ですからそのような世間の習慣にも関わらず主イエスが「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と語られたことは当時の習慣に背く大胆な発言であったと言えるのです。しかし、この主イエスの言葉から私たちは神の言葉に耳を傾けることには男女の違いはなく、誰もが聞く必要のあると言うことが分かります。なぜなら、神の福音は男女の区別なくすべての人に向けて提供されており、その福音を信じて救いを受けることがすべての人に求められているからです。


4.心を乱したマルタ

①模範を示そうとしたマルタ

 この当時の考え方を踏まえて改めてこの二人の姉妹のことを考えてみると、意外にも姉のマルタは常識人であり、それに反して妹のマリアは自分がよいと思ったらそれがいくら常識に反したものであってもそれをすると言う意志の強い女性であったことが分かります。一方、姉のマルタは常識にいつも縛られていて、人の顔色を見ながら自分が何をすべきかを判断するような、自分の本音をなかなか表せない人物であったと言うことになるのです。

 先ほど語りましたようにマルタが主イエスをもてなそうとして働いたことは決して悪いことではありませんでした。むしろこの行為は主イエスを愛するマルタの思いから出たものであり、賞賛に値するものだと言えます。しかし、そんなマルタにも確かに問題がありました。だからそのことについて主イエスは「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と的確に語ってくださったのです。

 もしかしたら姉のマルタもこのとき、自分もイエスの足元に座って、その話に耳を傾けたいと思っていたのかもしれません。しかし、普段から自分の思いではなく常識を重んじる彼女にはそれができなかったのです。「もしそんなことをしたら自分は非常識な女性と言われてしまう。むしろ、自分は姉として模範となる行動をとらなければならない」。「だから妹も自分の姿を見て常識外れの自分の行動に気づき「お姉さんごめんなさい」と言って、自分を手伝うべきだ」と思っていたのかも知れません。しかし、そのような模範を自分が示しても妹は少しもそれに気づきません。そればかりか、主イエスまでその妹の行動をなすがままにされている。「これはおかしい」とマルタは思いはじめて、ついにこのことを主イエスに進言することになったのです。


②兄弟間の争い

 先ほど兄弟の性格が異なることは心理学において証明されていると言うことをお話したと思います。私にも実は五つ年の離れたの妹が一人います。子どものころから兄弟喧嘩になると私の両親はすぐに私に向かって「兄なのだから」と叱ることがありました。だから子どものころから私は「どうして自分だけが怒られなければならないのか」と不満を感じていたのです。

 やがて大人になって妹の素直な気持ちを聞く機会がありました。すると妹はいつも私と逆のことを考えていたことが分かったのです。「兄貴は長男で跡取り息子だと言われていつも大切にされていた。一方で自分は女でどうせどこかに嫁に行ってしまうのだからと両親に大切にされていなかった」。そう妹は言うのです。兄弟と言うのは本当に不思議なものです。同じ家族の中に生まれながらいつも勝負をしているところがあるからです。

 もしかしたらマルタの行動の中にもこの兄弟を巡る確執が隠れていたのかも知れません。自分と妹のどちらが優れているか。どちらが大切にされているのか。それを証明するためにマルタは懸命に主イエスをもてなそうとしたのかも知れません。しかし、これではせっかく主イエスのために始めた奉仕も、途中で目的が変わってしまうことになります。私たちの奉仕はどうでしょうか。「神さまのため、主イエスのために仕えたい」という願いで始まった奉仕なのに、いつの間にかその目的が変わってしまっていることはないでしょうか。「どうしてあの人は私を手伝ってくれないのか?」。「どうしてみんなは私を正しく評価してくれないのか」。もし私たちがそのような思いに陥る時があったら、私たちも主イエスの言葉に耳を傾けるべきであると言えます。主イエスはそのような私たちにも「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と言う言葉を語ってくださるからです。


5.主に用いられた家族

 そして主イエスはこのような思い悩みで、心を取り乱している私たちにマリアと同じように「自分の言葉にまず耳を傾けなさい」と教えて下さっていることが分かります。皆さんここで私たちが注意したいのは、主イエスは私たちに「自分で思い悩みを解決させて、心が穏やかになってから、私の話に耳を傾けなさい」と教えているのではないと言うことです。むしろ主イエスは、自分ではどうにもならない思い悩みの中にあり、心が乱れているときこそ、主の御言葉に耳を傾けなさいと教えてくださっているのです。なぜなら、私たちの心を様々な思い悩みから解放し、自由にしてくれるものは聖書の言葉、つまり主イエスの福音しかないからです。

 主イエスはそのことを知っていました。だからマルタにどうしても自分の語る福音の言葉に耳を傾けてほしいと願われたのです。そうすれば、マルタは様々な思い悩みから解放され、喜びに満たされて主イエスへの愛の奉仕に励むことができたからです。

 このお話は「奉仕かそれともみ言葉に聞くのか」と言うような「あれかこれか」の決断を私たちに迫るものではありません。むしろ、私たちが真っ先に主の御言葉に耳を傾けることがでれば、私たちが今、行っている働きのすべてが本当の意味ですばらしい人生の営みと変わっていくことを教えているのです。

 また、このお話は姉のマルタと妹のマリアの性格とどちらがすぐれているか、あるいは劣っているのかを教えるお話でもありません。なぜなら、マルタの性格はここで十分に用いれているからです。マルタは自分を手伝わない妹に腹を立て、その妹をそのままにしている主イエスにも腹を立てました。そしてその感情を抑えることができずに主イエスに怒りを表したのです。しかし、このマルタがいたからこそ、私たちを慰め励ますことができる主イエスの言葉を私たちはこの物語を通して知ることができるようになったのです。同様に、彼女とは全く性格が違う妹のマリアもいなければこの物語は成立しませんでした。この性格の対照的な二人の姉妹がいたからこそ、私たちにとって忘れることのできない主イエスの物語が聖書に残されることになったのです。

 実はこの二人の姉妹にはもう一人ラザロと言う兄弟がいたことを先ほど少し触れました。ヨハネの福音書ではこのラザロの死と言う出来事を通して、主イエスの素晴らしい御業が示されたことが教えられています。

 このマルタとマリア、そしてラザロの家族は特別な家族ではありません。皆、それぞれ長所も欠点も持っている人たちです。しかし、その家族が主イエスを迎え入れることにより、主イエスの素晴らしい福音の真理が彼らを通して明らかになったのです。だからこそ、私たちも主イエスを私たちの人生にお招きにして、まずその御声に耳を傾けていきたいと思うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスがマルタとマリアの家にやって来た時、二人の姉妹はそれぞれ何をしましたか(38〜40節)。

2.このとき姉のマルタは主イエスに対してどのような不満の言葉を語りましたか(40節)。

3.このマルタに対して主イエスはどのような言葉を語られましたか(41〜42節)。この主イエスの言葉から考えるとマルタがこのときに抱えていた問題はどのようなものだったことが分かりますか。

4.マリアが選んだものを私たちも選ぶなら、私たちの働きはどのように変わると思いますか。

2022.7.17「必要な事はただ一つ」