2022.7.24「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」 YouTube
ルカによる福音書11章 1〜13節(新P.127)
1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
1.祈りを知らない異邦人のために
今日も皆さんと共に聖書の御言葉に耳を傾けたいと思います。今日の箇所では私たちの信仰生活で大切な「祈り」についての主イエスの教えが語られています。おそらく聖書を知らない人でも祈るということをしたことがないと言う人はほとんどおられないはずです。その祈りの対象が誰であるかは別として人間の生活と祈りは切っても切り離すことができない関係にあると言えるからです。
ユダヤ人は子どものときから聖書を学び、その聖書の教えに従って祈るという習慣を厳格に守ってきた人たちでした。その点で彼らの生活と祈りは密接な関係を持っていました。ですからこのユダヤ人で問題になるのは「祈らない」ということではありませんでした。ユダヤ人が陥りやすい問題とは祈っていてもそれが形式的な偽善的なものになってしまっていないかということでです。福音書記者のマタイはこのユダヤ人に向けてマタイによる福音書を書いたと考えられています。そこでマタイが取り上げたのはこの偽善的な祈りの問題であり、そして主イエスはこのような祈りに気を付けるようにと弟子たちに教えられたのです。ユダヤ人たちは正しく祈る習慣を持っていても、いつの間にかその祈りは神にささげるものではなく、祈っている自分を人に見せて自慢する、あるいは自己満足するようなものとなる危険性があったのです。
このユダヤ人に比べて聖書を知らない異邦人が抱える問題はこれとは違うところにありました。なぜなら、彼らはいままで真の神に祈りをささげることを知らないで生きて来た人たちだからです。今日私たちが取り上げるルカによる福音書はこのような異邦人のために書かれたものだと考えられています。ですからこのルカが取り上げる主イエスの教えは真の神を知らずに今まで生きて来た私たち日本人にも必要なものだと言えるのです。
2.主が教えてくださった祈り
①父よ
この物語は主イエスの弟子の一人が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」(1節)と言った言葉から始まっています。この言葉の中で呼ばれているヨハネは「洗礼者ヨハネ」と呼ばれる人物で、この福音書の中にも登場していますす。この願いをイエスに語った弟子の話によれば洗礼者ヨハネは自分の弟子たちにだけに通じるような特別な祈りの言葉を教えていたようです。それを祈れば「自分はヨハネ先生の弟子だ」と分かるような祈りの言葉です。ですから、このとき主イエスの弟子たちは自分たちにもそれと同じような特別な祈りを教えてほしいと願ったのです。それを祈っていれば「自分が主イエスの弟子である」と分かるような特別な祈りの言葉です。そしてこの弟子の願いに答える形で主イエスが教えてくださったのが「主の祈り」という有名な祈りの言葉なのです。
このような意味で「主の祈り」は「主イエスが教えてくださった祈り」と呼んでもよいと言えます。聖書の解説者によれば「この祈りは主イエス自身がいつも祈っていた祈りではなく、主イエスがご自分の弟子たちのために与えて下さった祈りだ」と説明しています。なぜなら、この祈りの中には「わたしたちの罪を赦してください」と言う言葉が含まれているからです。聖書は主イエスだけは唯一罪を犯されなかった方であることを強調しています(ヘブライ4章15〜16節)。ですから、主イエスは罪の赦しを求める必要はなかったのです。主イエスは罪の赦しを必要としている弟子たちのためにこの祈りを教えてくださったのです。しかし、この「主の祈り」は主イエスと言う方と密接な関係を持つ祈りであると言うことに変わりはないと言えます。それはまずこの祈りの最初に登場する神に対する呼びかけの言葉を通してもはっきりと分かるからです。
「父よ」。この祈りは荘厳で難しい言葉から始まってるのではなく、まるで幼児が自分の父親を呼びかけるような言葉から始まっています。「おとうちゃん」、「とうさん」。それは親しい親子の関係の中でしか使われない言葉であると言えます。そして主イエスは「その言葉を使って私たちに天の神を呼びなさい」と教えてくださったのです。それではなぜ、私たちは天の父なる神に向かってこのように親しげに「父よ」と呼ぶことができるのでしょうか。それは主イエスがご自身の命と引き換えに私たちを天の父なる神の「子ども」としてくださったからです。言葉を換えれば天の神は私たちの祈りをご自身のひとり子である主イエスの祈りのように聞いてくださると言うことを、この呼びかけの言葉は私たちに示しているのです。
②神に助けを求める祈り
「父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。」
この主の祈りの前半部分は神のためにささげる祈りの言葉となっています。ここには異邦人が知らない祈りの言葉が書き記されていると考えることができます。主イエスは異邦人のささげる祈りについてマタイによる福音書6章7節でこう言われています。
「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」
異邦人が祈りの中でくどくどと述べるのは、たくさん自分の願いを語って、その自分の願いがかなえられるようになるためです。しかし、いくらくどくど祈ったとしても異邦人の祈りの中には「神のために祈る」と言う言葉はふくまれません。しかし、そもそも真の神は私たち人間の祈りを必要とされているのでしょうか。私たちが祈らなければ神は困ってしまうと言うことがあるのでしょうか。
まず、この祈りの文章にもう一度耳を傾けてみましょう。神の御名を誰が崇めるべきなのでしょうか。御国、つまり「神の国」はどこで実現されなければならないのでしょうか。それは私たち人間の生活の場所です。また私たちが住むこの世界で神の御名が崇められ、御国が実現されなければならないと言うことができます。そう考えるとこの祈りも私たちが神の御名を崇めることができるように、私たちの住むこの世界に神の支配が実現するようにと祈っていることになります。そのような意味でこの祈りも私たちのための祈りであると言うことが出来るかも知れません。
「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください」(3〜4節)。
私たちはなぜ神に祈るのでしょうか。なぜなら私たちは自分で自分の人生を生き抜く力を持っていなからです。神が助けてくださらなければ私たちは生きていくことができないのです。「主の祈り」の後半の部分はその事実を認め、神がその私たちを助けてくださるようにという願いが込められているのです。
3.わたしの祈りは聞かれない?
興味深いのはルカがこの「主の祈り」の言葉を自分の福音書に書き記した後に、主イエスが語ってくださった祈りについてのたとえ話を続けて収録していることです。この話は突然の来訪客をもてなすために「パンを貸してほしい」と真夜中に友人の家を訪れて熱心に願った人のお話です。最初その友人は「面倒をかけないでほしい」とたとえ話の主人公の願いを断りますが、それでもこのお話の主人公は友人に「しつように頼み」続けます。そのため友人はついに寝床から起き出してその人に必要なものを与えようとすると言うお話です。そしてその話に続いて主イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(9〜10節)と語られたのです。 このお話を通して分かって来るのはむしろ私たちは「祈ることを途中でやめてしまう」と言う問題を抱えていると言うことです。だから求めることも、探すことも、門を叩くことも簡単にやめてしまうのです。私たちがそう考えてしまう問題の背後には「どうせ、わたしの祈りなど神は聞いてくださらない」と言う私たちの勝手な思い込みがあります。
「神は必ず私の祈りに答えてくださる」。私たちはそんな信仰者の素晴らしい証しをたびたび聞くことがあります。それなら私たちはその人と同じように祈るのかと言えばそうではありません。「わたしはあの人とは違う。私のような不信仰な者の祈りはだめ」。私たちはそう思い込んで、祈ることに躊躇してしまうのです。しかし、ここで私たちは大きな誤りを犯していることに気づく必要があります。なぜなら神は私たちの信仰深さを根拠にして私たちの祈りに答えて下さる訳ではないからです。神が私たちの祈りに耳を傾け、その祈りに答えてくださるのは私たちの信仰深さのためではなく、主イエスが成し遂げてくださった救いの御業のためなのです。主イエスが私たちのために十字架にかかって、私たちに神の子として資格を与えてくだいました。私たちが天の神を「父よ」と呼べるのはそのためです。だから私たちの祈りが答えられる根拠は主イエスにだけあると言えるのです。
ある人がんに侵されて、「もう治療の施しようがない」と医師から言われてしまいました。やがてそのことをどこからか聞きつけてある新興宗教の信者がその人の元にやって来ました。彼は「私たちの宗教に加入して熱心に祈ればどんな病も癒される」とその人を勧誘したのです。ですからその人は藁にでもすがる思いで、その新興宗教の信者となり熱心に毎日祈り続けました。しかし、残念ながら病は回復されず、その人は最後に息を引き取りました。これに満足できないのは亡くなったその人の家族です。その家族はその人を勧誘した新興宗教のメンバーに質問しました。「どうして私の家族は熱心に祈ったのに病は癒されず。死んでしまったのでしょうか」と。そのメンバー次ように答えてと言うのです。「あの人の信仰がまだ足りなかったのです」。もし、神からの私たちの祈りに対する答えの根拠が私自身の信仰にあるとしたら、私たちの祈りが聞かれる保証はどこにもありません。しかし、私たちに祈りの根拠には主イエスの救いの御業にあるのです。だから主イエスはこのたとえ話を通して、私たちは「決してあきらめてはならない」と教えてくださっているのです。
4.父を信頼する
①なぜ違う答えが返って来るのか
ある人が書いた主の祈りについての解説を読んでいてそこに興味深い話題が取り上げられていました。「どうして神は私たちの祈った通りに答えてくださらないのか?」、「どうも自分たちの人生には自分が祈ったこととは全く違う出来事が起こる…」、「これはどうしてなのだろうか…?」と言う質問を受けることがよくあると言うのです。皆さんもこのようなことを感じたことがあるかも知れません。自分の人生には自分が祈ったことと全く違ったことが次々と起こる…。そんな風に考えるのです。そこでこの人は一言、「その理由は簡単である。それは私たちの神が私たちの真の父であるからだ」と答えているのです。子どもを本当に愛している親は確かにその子どもの語る言葉に耳を傾けるはずです。だからと言ってその親は子どもの言った通りのことをするわけではありません。子どもを愛する親は子どもが本当に幸せになってくれる道を選べるように手助けをします。たとえそれが子どもの願ったこととは全く違うことになったとしてもです。
「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(11〜13節)。
主イエスもここで同じような言葉を語っています。天の神は私たちのこの世の父親と同じような方、いえこの世の父親の愛は不完全ですが、神は完全な愛を持って私たちの人生を導いてくださる方なのです。だから、私たちはこの真の父である神に信頼して、祈り続ける必要があります。神は私たちに最もふさわしい答え、聖霊を与えてくださるからです。
②恥知らずに祈る
先ほどのたとえ話の中に「しつように」と言う言葉が登場しています。日本語では「しつこい」、「頑固」と言った意味がこの言葉にあるのですが、聖書が使っているギリシャ語の言葉にはそのような意味は含まれていないようです。そしてむしろこの言葉を忠実に日本語に訳せば「恥知らず」と言う言葉がその意味から言って一番ふさわしいと言うのです。
ですから主イエスは神に祈るときに私たちに「恥知らず」になりなさいと教えておられることになります。この恥知らずの反対は「きどる」とか「猫をかぶる」と言った言葉でしょうか。私たちはどこかで自分の本性を隠して「ねこをかぶる」と言う傾向があるかも知れません。なぜなら、自分の本性を露になれば、たちどころに自分は嫌われてしまうと心配しているからです。しかし、主イエスは私たちが祈るときは「ねこをかぶることをやめなさい」と教えているのです。分からないのに分かったふりをする。人に言えないような恥ずかしい自分の姿があるのに、それをひた隠しにしている…。神の前ではそんなことをする必要はないと主イエスは言ってくださっているのです。そして私たちに神に祈るときには「恥知らず」になりなさいと教えてくださるのです。なぜなら、私たちの神は私たちの真の父親だからです。神は私たちが自分を隠すことなくすべてのことを語ってくれることをいつでも待っておられるのです。そしてその私たちの祈りに答えて天から聖霊を送ってくださって、私たちの人生を導いてくださることを主イエスは私たちに教えてくださっているのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスが祈っている姿を見た弟子の一人はこのときどのような願いをイエスに語りましたか(1節)。
2.主イエスはこの弟子の願いに答えてどのような祈りを教えてくださいましたか(2〜4節)。なぜ私たちは神に向かって「父よ」と呼びかけることができるのでしょうか。
3.祈りについて教えられた主イエスのたとえ話の中で、夜中に友人がわざわざ寝床から起き出して必要なものをこの話の主人公に与えた決定的な理由は何であると主イエスは教えていますか(5〜8節)。
4.このたとえ話を通して私たちの祈りの生活を反省するとき、私たちにはどのような問題があるとあなたは考えますか。
5.イエスは「悪い者でありながらも」父親は自分の息子に何をすると言っていますか(11〜13節)。
6.主イエスは私たちの天の父が私たちの求めに答えて何を与えてくれると言っていますか(13節)