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2022.7.3「イエスの弟子に与えられる使命と喜び」 YouTube

ルカによる福音書10章1〜12, 17〜20節(新P.125)

1 その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。

2 そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。

3 行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。

4 財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。

5 どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。

6 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。

7 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。

8 どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、

9 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。

10 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。

11 『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。

12 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」

17 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」

18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。

19 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。

20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」


1.収穫は多いが働き手が少ない

①戦後の復興と平和

 ロシアによるウクライナ侵攻が始まり、私たちは連日のようにテレビで戦場となったウクライナの悲惨な姿を見るようになりました。テレビの映像で破壊された町の姿を見ると、戦争の愚かさをつくづくと感じることがあります。長い年月をかけて造られて来た町が一瞬のうちに瓦礫の町にとなっています。いったい、これらの町を元通りの姿に戻すためにはどれだけの年月と経費が掛かるのでしょうか。確かに時間をかければ町の姿を復興させることは可能かも知れません。しかし、失われてしまった人間の生命は二度と戻ることができません。戦いはいつか終わったとしても、この戦争が残す傷跡はいつまでも残るのです。

 私たちの住む日本もかつて戦場となり、町々は破壊され、多くの人の命が奪われた過去があります。私が幼かった頃(1960年代)はまだ、戦争の余韻というものがそこかしこに残っていたような気がします。しかし、戦争が終わって八十年近い歳月が流れた現在では、実際に戦争を知る人も数少なくなっています。現在の日本は「成長に陰りが見え始めた」と言われても、いまだ経済大国としての歩みを続けています。日本がこのように戦後の傷跡から回復し、復興を見ることができた一つの原因はやはり、この八十年間の間、日本が戦場となるような戦争に巻き込まれなかったこと、つまり日本が平和であったことにあると言えるのではないでしょうか。現在、「この平和を維持させるためにはどうしたらよいのか」と言う課題を巡って私たちの周りには多くの意見が存在しています。しかし、私たちがどのような立場を選ぶにしても私たち日本のキリスト者はこの日本が再び戦場となることなく、平和が維持され続けることを願って祈り続ける必要があるのだと思います。


②神に祈るべきこと

 今日私たちが読む聖書箇所にはイエスによって宣教旅行に派遣される七十二人の弟子たちに語られたイエスの言葉が記されています。また、さらにその宣教旅行から喜びを持って帰還した彼らにイエスが語った言葉も含まれています。ルカ福音書はすでに9章の部分でイエスによって十二人の弟子たちが宣教旅行に派遣されたという出来事を報告しています。この十二人の派遣はマタイ、マルコ、ルカの福音書が共通して取り上げていますが、これに続けてなされた七十二人の派遣を書き記しているのはルカだけです。そのような意味でこれはルカの特ダネ記事であると言えます。それではなぜ、イエスは先に派遣した十二人のほかに、再び七十二人の人々を派遣することにしたのでしょうか。その理由は今日の個所でのイエスの言葉からも推測することができます。

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(2節)。

 「収穫は多いが、働き手が少ない」とイエスは言われています。神の国の福音を待っている人々、神が救いの計画の内に入れて下さろうとする人々の数は圧倒的に多いのです。ところがそれに対してその福音を伝える働き手は徹底的に不足しています。だからイエスは十二人の後に、再び七十二人を選んで伝道旅行に派遣されたのです。その上で、イエスはその七十二人にも「まだまだ足りない」と言っておられるのです。

 このイエスが弟子たちに与えられた祈りについての指示を、私たちは誤解しないで読む必要あります。イエスはこれから伝道旅行に派遣される七十二人にこの祈りをささげるようにと語っているからです。つまり、「働き手を送ってください」と言う祈りは自らもその働き手として選ばれた者たちにイエスが求められているものだと言うのです。

 しかし、だからと言ってイエスはこの祈りを限られた特別な人だけに祈るようにと言っているのではありません。むしろ、ここで言われる「働き手」とは私たちイエスを信じるすべての人のことを言っていると考えることができるのです。この働き手として選ばれている私たちはそれぞれ奉仕する働きの責任は違っているかも知れません。しかし、いずれにしても私たち一人一人もイエスに遣わされるこの七十二人と同じ資格を持つ者だと言えるです。だからこそ私たちは自分たちと共に派遣される働き手となる者がもっとたくさん与えられるように祈る必要があると言えるのです。


2.聖書のシャローム

①平和を実現させるための使者

 ところでイエスはこの宣教旅行に派遣される人々が旅先で家々を訪ねるときに「この家に平和があるように」と言いなさいと教えています(5節)。そして続けてこう語っているのです。

「平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる」(6節)。

 もしその家の人々が既に神の収穫の対象として選ばれている人々ならば、彼らは喜んでその平和を受け入れます。しかし彼らが選ばれた人でないならば、平和はそのまま弟子たちの元に戻って来ると言われているのです。この言葉から分かるように、イエスの働き人に与えられている重要な使命はこの平和を人々に手渡すことであると言うことが分かります。つまり、私たちはイエスに選ばれた平和を実現するための使者であると言えるのです。


②戦況についてのシャローム

 そこで私たちがさらに考えたいと思うのは、イエスの弟子たちが人々に伝える「平和」とはいったいどのようなものなのかということです。ご存知のようにこの「平和」はヘブライ語で「シャローム」と言う言葉で表現されています。今でもイスラエルに行けば、日常のあいさつの言葉としてこの言葉が用いられているのだそうです。しかし、聖書に登場するこの「シャローム」と言う言葉は単なる挨拶の言葉としてではなく、もっと広範で深い意味を持つ言葉として使われることが分かるのです。

 旧約聖書のサムエル記下11章7節に次のような言葉が記されています。

「ウリヤが来ると、ダビデはヨアブの安否、兵士の安否を問い、また戦況について尋ねた。」

 この箇所をシャロームと言う言葉に注意して読み直すと次のようになります。

「ウリヤが来ると、ダビデはヨアブのシャロームについて、兵士のシャロームについて問い、また戦況のシャロームについて尋ねた」。

 この言葉の中で最初の二つは私たちが普段連想するようなシャロームの意味に近い言葉となっていることが分かります。ダビデはヨアブや兵士たちが「無事」で「安全」であるかを尋ねているからです。しかし、三つ目の「戦況についてのシャローム」は違います。ダビデはここで「戦争がシャロームであるか」と問うているからです。私たちは戦争とシャロームは両立しないと考えていますが、聖書はその戦争の中にもシャロームが存在すると言うことをここで語っているのです。

 聖書学者はこのシャロームについて「神の祝福に満たされて、私たちの成長を阻むものがすべて取り除かれた調和した状態」と言う定義を上げています。だから、このシャロームは単なる戦いや問題がないような状態を語っているのではありません。むしろ、戦いの中でも、また私たちがたとえ深刻な問題を抱えていたとしても、神から与えられる「シャローム」があることを言っているのです。

 私たちは平和を得るために、様々な努力をしています。現在では「国はこの平和を維持するために巨大な軍事力が必要であり、核兵器も必要になる」と考える人も多くなっています。しかし、その一方で私たちは人間の作り出そうとする平和がどんなに壊れやすく、また頼りにならないものであるかを痛感させられているのではないでしょうか。

 聖書はこの「シャローム」は人間が作り出すものでも、維持するものではなく、神が与えてくださる賜物であると教えているのです。そして、この「シャローム」は争いや問題のないところにだけ与えられるのではなく、争いや問題の中にある人にも与えられるものだとも教えているのです。そしてこの「シャローム」は神の賜物ですから、神からしか受けることができません。だからイエスによって選ばれた「働き人」の使命はとても重要になって来るのです。彼らが伝えなければこの「シャローム」は誰にも届くことができないからです。しかし、彼らがイエスの与えてくださった使命に生きるならば、今、争いや問題の中に生きる人々にもこの「シャローム」が与えられるのです。


3.平和と神の国

 イエスはここで派遣される七十二人の働き人に対して「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」(9節)と語られています。興味深いのは彼ら、つまり七十二人の働き人が近づいたら「神の国は近づいた」ことになるとイエスが言われている点です。

 この神の国とは「神の支配」と言う意味を持った言葉です。具体的に言えば、私たちの心の王座に神ご自身が座ってくださって、私たちの人生を治めてくださることを意味すると考えてもよいでしょう。もし悪い王様がその国の支配者となったらどうなるでしょうか。その悪い王の支配のために国中の人々が苦しみ、また不幸になるはずです。実は、聖書は私たちの人生が悲惨で不幸な原因は私たちの心の王座に悪い王が座っているからだと教えるのです。それでは、その悪い王とはいったい誰のことなのでしょうか。それは私たち自身のことだと言うのです。もちろん私たちは自分が幸せになるために今まで懸命に努力して来ました。しかし、私たちの人生が私たちの願い通りに平和にならないのは、私たち自身に自分の人生を治める能力が欠けているからです。私たちは自分がどう生きるべきかさえよく分からないでいるのです。だからこそ、私たちの心の王座に真の神が座ってくださることが必要となって来るのです。そうすれば、神は私たちの人生を祝福で満たし、私たちの成長を阻むすべての問題を取り去り、私たちが神の子として生きることができるようにしてくださるからです。

 イエスはこの神の国はイエスに選ばれた働き人を通して実現するとここで言っているのです。この世の人々はこの「神の国」についてまた本当の「シャローム」について全く理解できませんから、この世と歩調を合わせないキリスト者をむしろ弾圧しようとするかも知れません。しかし、どんなに邪魔者扱いされても、私たちが福音を伝えなければこの「神の国は近づく」ことがありません。だからこそ私たちにイエスから与えられた使命はとても重大であると言えるのです。


4.私たちの名が記されている

 さてイエスによって派遣された七十二人の働き人はこの後、その派遣された場所から喜んで戻って来たことが福音書に報告されています(17〜20節)。彼らは喜びながらイエスに次のように報告しています。

「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」(17節)。

 もしかしたら彼らはイエスから授かった不思議な力を使って、いろいろなことができることを体験して喜んだのかも知れません。人々の病を癒し、悪霊を追い出すことでたくさんの人々から喜ばれることを体験した彼らは有頂天になっていたのかも知れません。だからイエスは彼らに次のような言葉を語りました。

「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(20節)。

 大切なことは私たちが不思議な力を得て、自分の人生を思い通りに操ることではありません。現在、世界は核兵器のボタンを自由に押すことができる支配者たちによって核戦争の脅威の中に置かれていると言われています。幸いにも現在までこの核のボタンは押されることがありませんでした、しかし、もしかしたらこのボタンを押す者が明日にでも現れるかも知れないと言う事態が今生れつつあるのです。

 ご存知のように現代科学が生んだ原子力の力は人を幸福にするよりは、むしろ不幸にするような方向に進んでいます。しかし、これは原子力の力が悪いのではなく、それを使う人間に正しい能力が欠けているということが最大の原因と言えるのです。人間はどんなに不思議な力を手に入れたとしても、それだけでは幸せになることはできません。むしろ人間はその力を使って自分を滅ぼすような過ちを犯す可能性があるのです。

 イエスは、「わたしたちの名が天に記されていることを喜びなさい」と教えてくださいました。もはや私たちの人生に神の国が実現して、神が私たちの人生を導く王になってくださっているとイエスはここで教えてくださるのです。そしてこの神は私たちの人生がたとえ困難の中にあっても、私たちを祝福で満たし、その人生を導いて神の子として成長させてくださると教えてくださるのです。

 ですから、私たちはこの神からのシャロームを携えて、イエスに選ばれた働き人として私たちの生きる場所で福音を伝える使命を担い、願わくばさらにもっとたくさんの働き人が起こされることを祈り求めて行きたいと思うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスは七十二人を任命しどこに行かせようとしましたか(1節)。また、彼らが何を神に祈り求めるようにと教えられましたか(2節)。

2.イエスはこの派遣が「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と語りながら、どうして彼らに「財布も袋も履物も持っていくな」と命じられたのでしょうか(2〜3節)。

3.彼らは家に入ったらまず何をする必要がありましたか(5節)。この活動によりその家にどのような変化が起こるとイエスは説明されていますか(6節)。

4.イエスは彼らの働きに対する報酬として、家に入ったらどのような待遇を受けなさいと言っていますか。またしてはならないことは何だと教えておられますか(7節)。

5.町に入って彼らがすべきことは何ですか(8〜9節)。もしその町の人たちが彼を歓迎しなかったらイエスは彼らがどうするべきだと教えてくださいましたか(10〜12節)。

2022.7.3「イエスの弟子に与えられる使命と喜び」