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  4. 7月31日「本当の豊かさとは」

2022.7.31「本当の豊かさとは」 YouTube

ルカによる福音書12章13〜21節(新P.131)

13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」

14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」

15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。

17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、

18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、

19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』

20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。

21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」


1.貪欲に注意せよ

 今日も皆さんと共に聖書の御言葉から学びたいと思います。今日のお話では主イエスが語られたたとえ話を取り上げたいと思います。このたとえ話は多くの人から「愚かな金持ち」と言う題名で呼ばれているものです。主イエスの語られたたとえ話にはどうしてもその解説が必要なお話があるのですが、このたとえ話には解説は必要がありません。これは誰が読んでもよく分かるお話になっているからです。

 この聖書の箇所を読んでみるとどうやらこのたとえ話自身が直前に主イエスの教えてくださった言葉を解説するために語られていることが分かります。このとき、主イエスの周りには多くの群衆が集まっていました。彼らは主イエスから神の国の福音を聞くためにそこに集まっていたのです。ところがその群衆の中の一人が主イエスに「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」(13節)と願い出たのです。調べて見ると当時、民衆に聖書を教える教師たちは人々の間に起こったもめ事を収める役目も果たしていたようです。ですから、この人はその仕事を主イエスにお願いしようとしたと考えることができます。

 当時のユダヤでは一家の財産三分の二が長男に引き継がれるのが決まりでした。長男は父親の財産を引き継いでその家を守ると言う義務を負わなければならなかったからです。その際、他の兄弟たちは父親の残した財産の残りの三分の一を受け取ることができたと言うのです。ここで登場した人物がなぜ財産のことで主イエスにお願いしなければならなかったのか、その詳しい事情は分かりません。長男が他の弟たちに財産を分けることを拒んでいたと言う可能性もあります。また、放蕩息子の譬えの話のように弟たちは自分が受け取る分はすでにもらっていて、その財産を使い果たしてしまったので、「もっと父親の財産がほしい」と願っていたとも考えることができます。

 いずれにもしてもこの人の個人的な事情はよく分からないのですが、この話を聞いて主イエスが考えたことははっきりしています。それはこのとき主イエスが語られた言葉にはっきりと表されているからです。

「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(15節)。

 主イエスはここで「貪欲」と言う問題に目を向けてお話されていることが分かります。このとき主イエスに自分の遺産分配のことで相談を持ち掛けた人物は「このままでは自分が生きて行くために蓄えが足りない」と考えていたのかも知れません。ですからその蓄えを少しでも増やすために父親の残した財産に目を付けたと考えることができます。しかし、この人が自分の願いをかなえて父親の財産をいくらか手に入れたとしてもその不安は本当に解消するのでしょうか。

 最近では老後のためにいくら蓄えが必要かということが問題になりました。その話を聞いて「自分にはそんな蓄えをする余裕がない…」と不安になられた方もあったと思います。もちろん聖書は、将来に備えて蓄えをすることは愚かだということを教えているのではありません。しかし、聖書は私たちの人生を本当に豊かにするものは、この地上の財産とは別な何かにあることも私たちに教えようとしています。そしてそのことを理解させようとするのが主イエスの語られた「愚かな金持ち」の譬えだと考えることができるのです。


2.すべては自分のもの

①孤独な金持ち

 このお話の筋書きは単純です。ある金持ちがいて、その金持ちが持っていた畑が豊作となりました。そして彼は一度にたくさんの収穫を手にすることができたのです。おそらくこの豊作は彼が今まで生きてきて一度も体験したことのないようなものだったのでしょう。普段の収穫であれば彼が前から持っていた穀物倉に納めれば十分に対応できるはずでした。ところがこの年の収穫はいつもとは違いました。彼の穀物倉には納めることができないような大収穫がもたらされたのです。そこで彼は考えました。「自分はどうしたらよいのか」と。そして今ある倉を取り壊して、収穫できたすべての作物をしまい込めるような大きな倉をつくる決断を彼はします。それではなぜ彼はこんな計画を立てようとしたのでしょうか。彼がこの計画を実行しようとした理由は次の彼の言葉にはっきりと示されています。

「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」(19節)。

 彼はそれを今後の自分の人生を支える蓄えとしようとしたのです。そうすれば自分はもう汗水を流して働く必要がありません。この話の特徴は金持ちが終始、金持ちが自分で考え、自分に語りかけ、自分で満足するという一人芝居のような形式となっている点にあります。考えてみれば分かると思いますが、こんな大豊作を彼一人が収穫できはずがありません。大工でもないのに、自分の倉を壊して、新しい倉を作ることができません。きっとこの金持ちの家にはたくさんの使用人が働いていたはずなのです。しかし、彼の視界にはこのような人物が一人も入っていなのです。このお話に登場する金持ちを「孤独な金持ち」と呼ぶ人もいるそうですが、その理由も十分に理解できるかもしれません。

 皆さん、自分の人生をどう考えておられるでしょうか。私たちも確かに今まで必死になって自分の人生を生きてきました。そしてもしかしたら「今まで自分は若かったからこんな努力ができた。しかし、これからもそんなことができるだろうか」と不安を覚えておられるかも知れません。年老いた私たちは「自分には残された人生を生き抜く力があるだろうか」と疑問に思うからです。しかし、そんなときに私たちは思い出す必要があると思います。私たちの今までの人生の中にもたくさんの人との関りがあったことをです。その人たちがいるからこそ今の私があると言うこともできるはずです。自分の人生の歩みを自分の頑張りの結果だと考える人は孤独です。しかし、自分の人生はたくさんの人たちとのつながりで成り立っていると考えられる人は決して孤独ではないのです。


②神が与えてくださったもの

 ある牧師はここの箇所の説教で「この愚かな金持ちは二つの誤りを犯している」と語っていました。その第一の誤りはこの金持ちは自分の財産をすべて自分のものだと考えているところにあると言っています。この豊作は金持ちの努力によって実現したものではありません。それは神から与えられた賜物であると言えるからです。

 かつてイスラエルの民たちが40年間荒れ野を彷徨ったときに、彼らに与えられたのはマナと呼ばれる不思議な食べ物でした。神がこのマナを天から降らせてイスラエルの民を養ったのです。このマナは余計に収穫にして保存しようとすると腐ってしまって食べることができなくなります。だから、イスラエルの民は毎朝自分の食べる分のマナを収穫していたのです。しかし、イスラエルの民が約束の地に入ったとき、彼らの生活は一変します。彼らはその地で農業を行い、自分の手で収穫物を得るようになったからです。ですからモーセは約束の地で新しい生活を始めようとする人々にあらかじめ警告を送りました。なぜなら、イスラエルの民はこれからの生活で神を忘れて、自分の蓄えを頼りにする危険があったからです。

 この金持ちはもっと違った生き方をすることもできたはずです。しかし、それが彼にできなかったのは、彼が得た収穫物をすべて自分のものだと勘違いしていたからです。もし、彼が自分の得た収穫は神が与えてくださったものだということを知っていたなら、神はこれを何のために自分に与えられたのか、この蓄えを何のために使う必要があるのかを真剣に考えようとしたはずなのです。


3.今夜、お前の命はとられる

 さて、この金持ちが犯してしまった過ちのもう一つは何でしょうか。それは彼が自分の死を忘れていると言うところにあると言われています。人間なら死なない者は一人もいません。私たちの地上の生涯には必ずどこかで終わりのときがやって来るのです。聖書はこの世の終わりが必ずやって来ることを教えている書物です。その日は必ずやって来ると何度も語っています。しかし、その日がいったいいつになるかについて詳しく語っていません。それは神だけがご存知であると語るだけなのです。しかし、その一方で詳しく教えていることは、この終わりの時がいつ来てもいいように備えをすること、終わりの日に備えて今を生きることを私たちに教えていることです。そして、この聖書の終末に対する備えについての教えは、私たちの個人的な死の問題についても共通するものだと考えることができます。なぜなら、私たちも自分の死がいつやってくるかをはっきり知らないままに今を生きているからです。

 このたとえ話に登場する金持ちの生活には自分の死に対する備えが全く欠けています。だから自分の蓄えで一生安心できると思った金持ちに神は次のような言葉を語るのです。

『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』(20節)。

 私は何度か絵を使ってこの「愚かな金持ち」のお話を幼稚園の園児たちに語ったことがあります。その絵の一コマでは、空を飛ぶ鳥たちがやって来て、倉の周りにこぼれていた穀物を食べようと集まります。ところが金持ちは必死になって「これはみんな俺のものだぞ…」と叫んで鳥たちを持って来た棒を使って追い払うのです。もしかしたら、この金持ちは自分のために新しい立派な倉をたてても、それで本当に安心することはできなかったかもしれません。なぜなら、彼にはしまい込んだ穀物をどのように泥棒から守るのか、そんな心配が新たに生まれる可能性があったからです。

 しかし、彼は「愚かな者」でした。なぜなら、彼が必死で集めて、守っているものが自分の突然の死ためには何の役にも立たなくなることを知らなかったからです。ロシアの文豪トルストイの書いた民話集の中に「人にはどれだけの土地が必要なのか」と言うお話があります。「もっと、もっと自分のために土地が欲しい」と願った主人公は、たくさんの土地を手にいれるためにがんばります。しかし結局のところその無理が祟って彼は死んでしまいます。そして彼が死んだ後に必要だったのは、彼の遺体を埋めるわずかな空間だけだったと言うのです。

 主イエスは私たちがそんな愚かなことに自分の人生を使い果たすことないようにとこのたとえ話を通して警告してくださったのです。


4.神の前に豊かになる生き方

 さて主イエスはこのたとえ話の結論で「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(21節)と教えられています。つまり私たちに「神の前に豊かになる者となりなさい」と奨めてくださっていることになります。新共同訳聖書は「神の前に」と言う言葉になっています。しかし聖書の研究家たちは、これは「神の中で」と訳した方がふさわしいと言っています。つまり、この言葉の意味を汲んで考えると、私たちが自分の人生を豊かにするためには「神の中で生きる」こと、つまり神との密接な関係を持って生き行くことが大切であることを教えていると考えることができます。残念ながらこのたとえの主人公はこのことを忘れてしまっていました。だから自分の人生は自分のもの、自分の持ち物すべても自分のものだと考えてしまったのです。

 しかし事実はそうではありません。私たちの命は神から与えられたものです。また、私たちが受けることができるすべてのものも神から与えられたものと言えるのです。そしてそのことを知る者の生き方はこの愚かな金持ちとは全く違ってくると言うことできるのです。愚かな金持ちは大豊作となった穀物を自分のためにだけに使おうとしました。しかし、そのすべてが神からの賜物であることを知る人は、「何をするために神はこれらのものを私に与えてくださったのだろう」と考えるのです。そしてすべてのものを無駄にすることなく、使う方法を考えます。

 また、自分の人生が神から与えられたものと考える人は、その地上の人生が終わる日がやってくることを見据えながら生きることができます。しかし、自分の人生が終わることを知るということは「自分の死を不安に思う」と言うことではありません。なぜなら、聖書は私たちの地上の命が終わるときは私たちが永遠の命の門の中に入るときだと教えてくださっているからです。私たちはそのとき私たちを縛っていたすべての罪と悪から解放され、すべての労苦から自由にされるのです。その日がいつになるのか私たちには分かりません。しかし、私たちが今日をこのように生かされているのは、私たちにはまだこの地上でやるべき大切なことが残されているからです。私たちが今を生きているのは神がそれを必要としておられるからだからです。

 「神の前に豊かになる者」と言う生き方は神との深い関係の中で自分の人生を送ると言う意味です。そして、その生き方はここに集まる皆さんがすでに送っておられる生き方でもあるとも言えます。私たちも毎日生活でこの世の様々な考え方や習慣に支配されることもあります。しかし、私たちはそれで満足することなく、毎週日曜日に礼拝に集まって神の言葉に耳を傾けています。そして今の自分の生き方が「神の前に豊かになる者」の生き方であるかを確かめながら、私たちが過ちから免れて正しい生き方ができるようにと祈ります。また、私たちは聖書を読みながら毎朝、毎晩、自分の人生を確かめます。自分が神の御心に従って人生を使っているかをです。そして神はそのような生き方をする者に天から聖霊を送って、私たちの毎日の生活を祝福してくださるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスが群衆に向かってお話をされていたとき、その群衆の一人はイエスにどんな願いを語りましたか。イエスはこの人の願いにどう答えられましたか(13〜14節)

2.イエスがこの時に語った言葉(15節)から、私たちが自分の人生で陥りやすい誤りが何であることがわかりますか。

3.イエスの語ったたとえ話に登場する金持ちは自分の畑が豊作になったときにどのようなことを考え行動しましたか(16〜19節)。

4.このたとえ話の主人公の金持ちが「愚か者」と呼ばれている理由はどこにありましたか(20節)。

5.それではこの金持ちはいったいどのように生きたらよかったのでしょうか。あなたも考えてみましょう(21節)。

2022.7.31「本当の豊かさとは」