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2022.8.7「人生を終わりから考える」 YouTube

ルカによる福音書12章32〜48節(新P.132)

32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。

34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。

36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。

37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。

38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。

39 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。

40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

41 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、

42 主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。

43 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。

44 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。

45 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、

46 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。

47 人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。

48 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。


1.小さな群れよ、恐れるな

①多数の意見に従った方が得?

 今日も聖書の御言葉から皆さんと共に学んで行きたいと思います。今日の箇所は「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(32節)と言う主イエスの語られた言葉から始まっています。このとき主イエスと弟子たちはエルサレムに向かう旅の途中にありました。当時、主イエスの評判は各地に広まっていましたが、それでも主イエスと共に旅をする弟子たちの数はわずかなものであったと言えます。ですから主イエスはその弟子たちに向かってこの励ましの言葉を語られたと考えてよいでしょう。

 この世の処方箋では「長い物には巻かれろ」と言う言葉があります。どんなに正論を語っても大きな力にかなうことはできないのだから、むしろその大きな力に従って生きた方がよいと言う教えです。また「出る杭は打たれる」と言うことわざもあります。私たちが人生の荒波をできるだけ避けるには、いつも時流に乗って生きていくのが最善であると私たちは子ども頃から教えられて来ました。つまり、少数者となれば損をするので、いつも多数者の群れの中にあるほうが得策だと言うのです。


②改革派教会を創立した人々の信仰

 この主イエスの言葉は日本の人口の中でいまだに一パーセントにも達していない私たち日本のキリスト者にも語られていると言うことができます。私たちも普段の生活の中で信仰の話をしたら仲間外れにされてしまうから、むしろそれを隠していたほうがよいと考えるような誘惑の中に生きています。

 戦後すぐに創立された私たち改革派教会は今でも小さな群れと言えます。しかし創立当時は本当にすぐに消えてしまうような小さな群と考えられていました。日本は戦争中に「挙国一致体制」という名のもとにすべての団体が統合されて戦争協力に駆り出されました。キリスト教会も「日本キリスト教団」という組織の中に教理も伝統も異なる様々な教派の教会が一つにまとめられたのです。当時の教会の指導者たちは自分たちが国家に進んで協力することがキリスト教会を存続させるための最善の方法だと考えたようです。そのために敗戦の後に改革派教会を作った創立者たちは真理を蔑ろにして国家に従った自分たちの誤りを悔い改めようとしました。そしてこの世の時流に従うのではなく、聖書が教える真理の上に立つ教会を作ろうと考えたのです。自分たちがどんなに小さな群れであっても、聖書の教える真理を蔑ろにする教会には未来がないと創立者たちは考えたからです。

 そのような意味で私たちの教会の創立者たちも今日の主イエスの言葉に従って生きた人々であったと考えることができます。私たちも創立者たちと同じ信仰を引き継いで今、信仰生活を送っています。私たちがどんなに小さな群れであっても、私たちはこの世の力にではなく、主に従って信仰生活を送っています。なぜなら、主イエスは必ず神の国を実現してくださることを信じているからです。ですから私たちの希望はこの神の国に置かれているのです。


2.目を覚ましていなさい

①主人の帰りを待つしもべ

 そこで主イエスはこの世にあっては小さな群れでしかないキリスト者がこの世の力や価値観に従うのではなく、しっかりと神の国への希望を持って生きるためにはどのようにしたらよいのかをここでたとえ話を使って教えています。

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」(35〜36節)

 主人に仕えるしもべの役割は主人がいつ家に帰って来てもよいように、その主人を迎える準備をすることだと主イエスはここで教えてくださっています。「主人がいなくなったからこれ幸い」と、自分のしたい放題のことをする者はしもべの役割を放棄したことになります。主イエスはここで私たちの人生は主人の帰りを待って準備するしもべのようなものだと語っているのです。しかし、この世の多くの人は主人のことなどすっかり忘れて自分の好き勝手な人生を送っています。そして主イエスは私たちにこの世の多くの人の生き方に倣うのではなく、主人の帰りを待つしもべのような生きなさいと教えているのです。


②必ずやって来る終わりのとき

 それでは「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき」とは言ったどのようなときのことを言っているのでしょうか。それはこの世の終わり、主イエスが再びこの地上にやって来られて、その救いの御業を完全に完成してくださるとき指していると言えます。聖書の教えの特徴はこの世にしても、あるいは私たちの人生にしても、すべてのものには必ず始まりがあり、また終わりがあると言うことを教えているところです。これは私たちが知っている仏教や神道と言う日本の宗教の教えと全く違うものです。

 そして聖書が教える主人が帰ることに備えて生きるしもべの生き方とは、この終わりのときを意識して今を生きる生き方であると言えるのです。確かに私たちは自分の地上の生涯に必ず終わりが訪れることを知っています。また、かつてノストラダムスの大予言などという話が日本でも大流行したように、私たちはどこかでこの世界も終末を迎えるのではないかと言う不安を抱いています。しかし、だからと言って私たちは自分の人生や世の終わりを意識して毎日を生きているかと言えばそうではありません。むしろ、「そんなことを考えても無駄なのだから、今の人生を楽しもう」と考える人が大半なのかもしれません。


3.聖書の教える終末論

①私たちに励ましと希望を与えるために

 実は多くの人が「終わりのことを考えても無駄だ」と考えるところには、聖書の教えに対する誤解があると考えられます。なぜなら、多くの人はこの世の終わりや私たちの人生の終わりを考えることは私たちをただ不安にさせ、恐怖のもとにおくようなものだと勘違いしているからです。しかし、聖書が教える「終わり」についてのメッセージは私たちに不安や恐怖を与えるためのものではなく、私たちに本当の希望を与えるためにあることを私たちは忘れてはいけないのだと思います。

 実はこの福音書を通して主イエスのこの言葉を聞いた人々は、ペトロたち主イエスの弟子たちが生きていた時代よりもずっと後の人たちであったと考えられています。当時、たくさんの伝道者たちの働きによってローマ帝国の各地に教会の群れが生れ、主イエスを信じる人々が増え続けていました。しかしそれでも、彼らもまたローマ帝国の中では力のない少数者の群れでしかなかったのです。ところが当時のローマ帝国はこの小さな群れを迫害し、彼らをこの世から抹殺しようとしたのです。その理由はこの小さな群れが、皇帝を神とするこの世の流れに決して同調せず、主イエスへの信仰を決して曲げない人たちだったからです。この結果、信仰者の群れは各地で弾圧され、たくさんの人々が信仰のために命まで失うと言う出来事が生じていました。主イエスの今日の言葉はそのような人々の心に語り掛け、また彼らに希望を与えるものであったと考えられています。なぜなら、今のこの試練の時は必ず終わり、信じる者の希望である神の国が必ず実現すると主イエスは語ってくださったからです。

 このように聖書の語る「終わり」のメッセージは今を生きる私たちに励ましと希望を与えるためのものだと言うことができます。私たちが今、信仰のためにどんなに厳しい状況に立たされていたとしても、必ずこの試練の時は終わりを告げます。そして神は私たちのために最後に必ず神の国を実現させてくださるのです。


②主人の持ち物の管理を委ねられたしもべ

 ときどき、聖書の教える「終わり」のメッセージを誤解したり、またそれを利用しようとする人たちがいます。彼らは「この世の生活や営みはすべて無意味だ」と教えて、「全財産を教会にささげて、毎日祈りの生活に励みなさい」と人々に語るのです。そしてこのような教えを語る人々は「主イエスは何年何月何日に再臨される」と言葉巧みに語り、「だから自分たちに従った方がよい」と教えるのです。しかし、聖書は終わりの時が必ずやって来るとは私たちに教えていても、その日がいつになるかは誰にも分からなと教えているのです。だからしもべが主人の帰りを待つという仕事の中には、その日がいつになってもいいようにその主人が留守中に家を守るという使命も与えられていると言うことができます。

 史実であるかはよく分からないのですが、宗教改革者マルチン・ルターについての逸話にこのようなものがあります。あるとき、ルターは「明日、主イエスが再臨されて、この世が終わりを迎えるとしたら、あなたは今何をしますか」と言う質問を受けました。するとルターは「わたしは主イエスのために今日、畑にリンゴの木を植える」と答えたというのです。明日、世の終わりがやってくるとしたらリンゴの木を植えることは無意味なように思えます。それではルターはなぜこんなことを語ったのでしょうか。この話は、私たちが神から与えられた使命のために生きることが、私たちの「終わり」に備える生活として最もふさわしいものだと言うことを教えているのです。

 この世界も私たちの命も神が私たちに管理をゆだねてくださったものなのです。しもべがその管理を怠ったしたら、そのしもべは「よいしもべ」とは言えません。私たちは主イエスが他の場所で語ってくださったタラントンの譬え(マタイ25章14〜29節)のように、終わりの時に、神から預かったものを「神様、あなたが私に預けてくださったものは、こんなに素晴らしい宝を生み出しました」と返すときが来るのです。このような意味で「目を覚ましている」と言う生き方は神のために自分の人生を使うこと、またこの世界を守る使命を果たすことを意味していると考えてもよいのではないでしょうか。


4.神の国につかえる私たちの使命

 そして今日の最後の部分で主イエスはすでにすばらしい神の国の福音を知らされた弟子たちには誰よりも大きな使命が神から与えられていると言う教えを語ります。そしてこの主イエスの言葉は今、聖書を通してこの言葉を聞いている私たちに語られているものでもあると言えるのです。

 先日の連合長老会と執事会の合同例会で広島教会の申先生が「私たちは教会のためではなく、神の国のために仕えている」と言うような話をされていました。私はこの言葉を聞いて、以前に聞いたこんなお話を思い出しました。様々な教会の牧師や長老たちが集まったある教会会議の席上で一人の牧師が「一人の青年のために聖書の勉強会をして時間をかけて指導してきたのに、その青年が最近別の教会で洗礼を受けて、その教会員になってしまったことが分かった」ととても残念な顔をして報告したことがありました。するとその報告を聞いていた一人の長老が「先生、その青年が洗礼を受けられたのは先生の指導があったからではないですか。神さまは先生のはたらきをちゃんと用いてくださったのだと私は思います…」と語られたのです。

 私たちは今、教会の礼拝出席者が増えないことを深刻に考えています。また教会の献金収入は年々減少して、これから教会がどうなっていくのか不安に感じています。私たちはだからと言ってこれまで何もしてこなかったわけではありません。私たちはこの地域の人々に福音を伝えるために自分にできる様々なことをして来たのです。しかし、私たちがもし教会の礼拝出席者の数を見て、また献金収入の減少を見て、私たちの働きはすべて無駄だったと考えてしまとしたら、それは本当に正しい見方だと言えるでしょうか。実はそうではないのだと思います。なぜなら神は私たちの奉仕を決して無駄にされる方ではないからです。そして私たちの奉仕は目に見える教会のためだけではなく、神の国のためになされていることを私たちは覚えるべきではないでしょうか。

 私たちに今できることは、確かに小さなことかもしれません。しかし、神はその奉仕を神の国のために十分に用いて下さる方なのです。私たちが伝えた福音の灯が、私たちの知らないところで世を照らす光となる日が必ずやって来るはずです。私たちが福音を伝えた人々を通して、この世界や日本が変わる可能性もあります。なぜなら神の聖なる計画の中で、私たちの小さな奉仕はなくてはならない大切な働きとして用いられるからです。だから主イエスはすでに福音を知らされている者に求められている責任は誰よりも重いと語っているのです。私たちこれらも神の計画が実現するために召された者として、神の国のために忠実な奉仕を続けて行きたいと思うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.主イエスは主イエスを信じて生きる者たちを「小さな群れよ」と呼びかけて励ましてくださっています。主イエスはここで私たちの毎日の生活の関心をどこに向けて生きるようにと教えておられるのですか(32〜34節)。

2.主イエスは私たちの信仰生活を「主人が婚宴から帰って来る」のを待っているしもべにたとえ下さいました。この話の中で「主人が婚宴から帰って来る」時とはいったいどんなときを表していると思いますか(36〜40節)。

3.この話を私たちの信仰生活にあてはめて考えるとき「目をさましている」(38節)と言う教えは、私たちにとってどのようなことを意味していると思いますか。

4.主人から全財産を管理する仕事を委ねられたしもべは何をすることが一番大切ですか(43節)。また「不忠実なしもべ」とはどのような人達のことを言っているのですか(45節)。

5.あなたはあなたの人生でどのようなものを神から管理するようにと委ねられていると思いますか。あなたがその使命を果たすために何をすることが大切だと思いますか(48節後半)

2022.8.7「人生を終わりから考える」