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  4. 9月25日「逆転された人生」

2022.9.25「逆転された人生」 YouTube

ルカによる福音書16章19〜31節(新P.141)

19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、

21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。

22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。

24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』

25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。

26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』

27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。

28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』

30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』

31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」


1.金持ちは功徳を積む機会を失ったのか

 今日も皆さんと共に聖書の言葉から学んで行きたいと思います。今日取り上げられている聖書箇所には主イエスが語られた一つのたとえ話が載せられています。このたとえ話は読んでみると意外と分かりやすいストーリーとなっていることが分かります。一人の金持ちがいました。彼はこの世では何不自由なく暮らしていたのです。一方、この金持ちの門前にはラザロと言う一人の貧しい病人が横たわっていました。彼は瀕死の病にかかっています。ところが金持ちは自分の家の門前に横たわるラザロには一切に関心を払いませんでした。金持ちの視界の中にではラザロは透明人間のような存在になっていたのです。

 この後、金持ちとラザロは共にこの世での命を終えています。そして貧しかったラザロはアブラハムの宴会に天使によって導かれます。この「アブラハムの宴会」とは神によって祝福を受ける者の集う場所と考えたらよいでしょう。ところがもう一方の金持ちはアブラハムの宴会に加わることができず、陰府で苦しみを受けることになります。二人の人物の立場はこのように死を境にして全く逆転してしまうのです。

 さて、主イエスの語られたたとえ話から私たちはいったい何を学べばよいのでしょうか。まず、私たちが知るべきことは、このたとえ話は人が知ろうとしても知りえない死後の世界の姿を教えているものではないと言うことです。実はこの物語は当時のユダヤ人たちが皆よく知っていた民間神話をもとに語られていることが分かっています。このお話はそのような意味で当時の人々によって作り出されたフィクッションであり、死後の世界の真実の姿を私たちに伝えるものではないのです。

 それでは主イエスはこのたとえ話を使って私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。もし金持ちがこの世で貧しいラザロを助けることができたら、彼の来世を保証する功徳を積むことができました。それなのに彼はラザロに何もしなかった。だから金持ちは陰府で苦しむことになった…。だから人間はこの地上の人生で功徳を積んで、来世に備えなければならない…、そのようなことを主イエスはこのお話で教えているのでしょうか。それはまるで夏休みを満喫している子どもたちに「毎日、宿題を少しづつしないと、最後に大変なことになる」と教える親たちと似ているようにも思えます。しかしなによりも、そう考えてしまうならラザロは死後、どうしてアブラハムの宴会に連なる資格を得たのでしょうか。地上の生涯でラザロはこつこつと来世に対する準備をして、功徳を積んだなどと言うことはどこにも語られていません。彼はただ貧しさと病の中で何もできずに、苦しむしだけの生涯を送ったのです。そのように考えるとこのお話は来世に対する準備を教えると言うよう単純なストーリーではないと言うことが分かります。


2.ラザロを無視した金持ち

①成功した人生設計をした金持ち

 先日、ある本を読んでいて現代人の抱える不安について大変に興味深い話が紹介されていました。現代人は「自分は後どれだけ生きられるのか」と言うことから、「どれだけ生きなければならないのか」と言うように悩みが変わって来ていると言うのです。今、日本人の平均寿命が延び私たちは高齢化社会の中に生きています。世間では人が幸せな老後を過ごすためにはどのくらいの蓄えが必要なのかという話題が人々の関心を集めています。しかし、もし幸せな老後のために資金を蓄えることが出来た人も、その人が予想以上に長生きしてしまったら、その資金は尽きてしまうかもしれません。そうなるとその人は家族や他人からの世話を受けることになるはずです。そして自分は家族や他人に面倒をかけて、肩身の狭い思いをしながら、「いつまで自分は生きなければならないのか」と考えことになるのです。現代人の悩みはこのような傾向に変わって来ていると言うのです。

 この点でイエスのたとえ話に登場する金持ちは、成功した人生設計を送ることができたと考えることができます。なぜなら彼は自分の蓄えを使って誰にも迷惑をかけることなくその人生を楽しく送ることができたからです。この点で現代人の模範となるのはこの金持ちであって、貧しいラザロではないと考えることができるのです。しかし、主イエスはその金持ちの生き方についてたとえ話の中で大きな疑問を投げかけているのです。そして彼の生き方は本当に正し方のだろうかと私たちに問うていると言えるのです。


②ラザロは役に立たない存在

 ここで私たちが考えるべきことは、この物語のもう一方の登場人物である貧しいラザロは明らかに金持ちのその生き方の誤りを示すために登場していると言うことです。それではこの金持ちの犯した過ちとはどこにあるのでしょうか。それは金持ちが貧しいラザロの存在を自分の人生には全く役に立たない、邪魔な存在と考えたことにあると言えます。だから金持ちは自分の家の門前に横たわるラザロを完全に無視し続けることができたのです。

 かつて世界大戦の原因を作った張本人の一人であるヒットラーは、障害者の存在を「役に立たない者たち」と主張し、「彼らは国家財産を無駄遣いさせている」と語りました。ドイツではそのためたくさんの障害者がガス室に送りこまれ、虐殺された歴史が残されています。しかしこの考え方が決して昔話に終わらないことは現代の日本でも「生産性を生み出さない」という価値観で人間を見ようとする政治家がいることからも分かるのです。


3.ラザロの存在の意味

 この価値観はヒットラーや現代の日本の政治家の一部だけが持つものではありません。なぜなら、それは先ほど私たちが取り上げた現代人の抱える不安、「自分はあとどれだけ生きなければならないのか」と言う悩みの中にも明らかに影響を与えているからです。私たちはいつも自分が貧しいラザロになってしまうことを恐れているのです。やがて自分は人に迷惑をかけるだけの無価値な存在になってしまうのではないか。それを考えると自分の将来が恐ろしくてならないと私たちは思ってしまうのです。

 先ほども触れたようにこの主イエスのお話を読むとこのラザロは、金持ちの生き方を正すために神が送ってくださった人物だと考えることができます。なぜなら、陰府で苦しむ金持ちは自分の家族が同じような過ちを犯すことがないようにラザロを遣わしてほしいとアブラハムに願い出ているからです。彼は家族がラザロを見れば自分たちの過ちに気づくと考えたのです。しかし、この金持ち自身はその大切なメッセージを伝えるラザロの存在を無視してしまったのです。

 聖書を私たち人間の価値を「生産性」と言う測りで見てはいません。なぜなら、神が命を与えてくださっている者の中で無意味な存在は誰一人いないと教えているからです。神は私たちそれぞれの人生に大切な使命を与えてくださっています。貧しいラザロはここでは、金持ちが自分の人生の過ちを知り、神の前で本当に豊かな人生を送ることができるようにさせるための大切な存在であったと言えるのです。


4.本当の人生を生きるために

①もう一人のラザロ

 人間の価値が「生産性」と言う測りで判断されないことを私たちは聖書の中に登場する一人の人物から学ぶことができます。それは奇しくもこの貧しいラザロと同じ名前を持っていたもう一人の「ラザロ」と言う名前の人物です。聖書によれば彼にはマルタとマリアと言う二人の姉がいました。そしてこの一家と主イエスは深いつながりを持っていました。このラザロもまた深刻な病に犯されています。そして彼は手当の甲斐もなく世を去ってしまいます。ところがこの物語ではラザロの死後の出来事が語られているのではなく、死んで墓に葬られた彼を主イエスが生き返らせるという奇跡が報告されているのです(ヨハネ11章1〜44節)。

 聖書にはこのラザロの二人の姉の言動や性格が詳しく語られているのに対して、このラザロに関しては彼の語った言葉はもちろんのこと、彼がどういう人物であったのかさえも記されていません。彼は病気になって死に、墓に葬られて、その遺体は三日目になって腐りかけていたとだけ紹介されているのです。きっと多くの人は若くして亡くなった彼の人生に対して「何の意味があったのか…?」と疑問に思ったはずです。

 しかし、聖書はこの後でラザロの人生の本当の意味を私たちに教えています。なぜなら、この後、宴会の席に主イエスと共に座るラザロを見たいとたくさんの人々がそこに集まって来たからです。そればかりではありません。主イエスの存在を快く思わない神殿で働く祭司たちはこともあろうにこのラザロを「殺してしまおう」と計画を立てたと言うのです。それはこのラザロのことで人々が自分たちの元から離れて、主イエスを信じるようになったからです。ラザロは何もしていません。何も語っていません。それなのにこのラザロがいるだけで、主イエスのすばらしさが人々に明らかになったと聖書は語っています。不思議なラザロの人生にはこのような大切な使命が与えられていたのです(ヨハネ12章9〜11節)。


②聖書の言葉を通して人生を考える

 主イエスの語られたたとえ話では貧しいラザロの存在が金持ちにとって大切であったことを示すと共に、もう一つ聖書の言葉も大切であったことが教えられています。なぜなら、金持ちがこの世に残る家族たちに自分の悲惨な姿を示して誤りを悟らようと「ラザロを遣いとして送ってください」とアブラハムに懇願したとき、アブラハムは『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい』と答えているからです。この「モーセと預言者」と言う言葉は当時の人々にとっては「旧約聖書」を示すものでした。つまり、私たちがこの世の誤った価値観から解放されて、本当の人生を生きるために神は私たちに聖書の言葉を与えてくださったとこの物語は教えているのです。私たちがこの世の誤った価値観に影響されて「自分の人生には意味がない」と誤った判断を下さないためには、聖書の言葉に耳を傾ける必要があります。そして私たちがこの聖書の言葉に従って歩むとき、私たちは神に祝福された本当の自分の人生を送ることができるのです。

 人は誰も自分の弱さを少しづつ克服し完璧な人間なることを願う傾向があるかも知れません。そして実はこの願望は私たち信仰者の中にもあると言えます。なぜなら、私たちは自分の弱さを示されるたびに、「本当の信仰者ならこんなはずではない」と考えてしまうからです。しかし、もし私たちの願いかなえられ、自分が完璧な信仰者になったとき、私たちと主イエスとの関係はどうなってしまうのでしょうか。主イエスは私たちに「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2章17節)と語ってくださっています。だから弱さを抱える私たちの存在はこの素晴らしい名医である主イエスを証しする意味があるのです。

 この物語の主人公である金持ちが門前に横たわっていたラザロを受け入れ、彼と共に生きることは決して簡単なことではなかったはずです。私たちも隣人と共に生きようと決意するとき同様な不安を抱くはずです。お互いに弱さを抱える私たちは、そこで助け合うのではなく、互いにその弱さを裁き合うようなことになりがちだからです。しかし、それを通して私たちに分かって来るのは、「自分には神の助けが必要である」と言うことではないでしょうか。この金持ちの人生の問題は、神の助けを必要としないほどに、自分の生活に満足していたと言うところにありました。だから、その過ちを気づかせ、彼に神の助けが必要であることを知らせるために彼の家の門前にラザロが遣わされていたのです。

 神は私たちの人生を本当に豊かなものとするために、私たちに様々な隣人を遣わしてくださいます。そして、その本当の意味を知るために聖書の言葉を与えてくださっているのです。このように私たちはこの神からのメッセージを無視するのではなく、確かに受け止めて、人生を歩んでいく必要があることを主イエスは教えてくださっているのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.主イエスの語られたたとえ話を通して、このお話に登場する金持ちはどのような人であったことが分かりますか。また彼の家の門前に横たわっていたラザロはどのような人であることが分かりますか(19〜21節)。

2.二人は死んだ後、それぞれどのようになりましたか(22〜24節)。

3.アブラハムは二人の境遇の違いについてどのような説明を金持ちにしていますか(25〜26節)。

4.金持ちが「自分の父親の家にラザロを遣わしてください」とアブラハムに願った理由は何ですか(27節)。それに対してアブラハムは何と答えましたか(29節)。

5.「もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」と言う金持ちの言葉にはアブラハムは何と答えていますか(31節)。

6.あなたはこの主イエスのたとえ話から何を学ぶことができると思いますか。

2022.9.25「逆転された人生」