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2022.9.4「厳しいイエスの言葉に出会ったとき」 YouTube

ルカによる福音書14章25〜33節(新P.137)

25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。

26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。

27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、

30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。

31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。

32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」


1.主イエスの弟子は家族を憎むのか?

①厳しい神の言葉を通して、神の愛に出会う

 今日も皆さんと一緒に聖書の言葉から学びたいと思います。今日の箇所では主イエスが自分の弟子となろうとする人に求められた言葉が記されています。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(26〜27節)

 また、今日の箇所の最後のところでも主イエスは繰り返して、次のように語られています。

「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(33節)。

 ここには「憎め」とか「捨てろ」と言った、とても厳しい主イエスの言葉が記されています。私たちはこの主イエスの言葉をどのように受け取ったらよいのでしょうか。案外、私たちはここに記された主イエスの言葉を誤解してしまって、「やっぱり、わたしには無理だ…」と考えてしまったり、「この言葉の通りに生きていない自分は弟子として失格だ…」と落ち込んでしまうことはないでしょうか。

 以前、聖書を毎日読むために作られているリビングライフ誌の読み方を指導してもらうために、発行元の韓国のオンヌリ教会の関係者を私たちの教会に招いて講習会をしたことがありました。そのときに、その講師の先生が強調していたことは、「聖書の中に登場する神の厳しい言葉に出会うときに、神はその言葉を私たちに対する愛の言葉として語っていることを忘れるな」と言うことでした。つまり、聖書に記されている神の厳しい言葉を、私たちが祈りをもって真剣に受け止めていくならば、その言葉を通しても私たちに対する神の深い愛を確信することができると言うのです。それでは今日の主イエスの厳しい言葉の中には、私たちに対するどのような主イエスの深い愛が隠されていると言えるのでしょうか。


②家族を愛した一人の牧師の思い出

 すでに天に召された方ですが以前、東京の江古田教会で働いていた上河原先生と言う牧師がおられました。私とはだいぶ年齢が離れていましたので、あまり親しく話す機会はありませんでしたが、自分を飾らずに本音を語る先生に私は親しみを覚えたことがありました。そんな上河原先生がよく話されていたのは自分と同じように牧師をしていた上河原先生のお父さんについての思い出話です。かつて石川県の金沢にあった教団の教会の牧師として働いていた自分のお父さんについて上河原先生は度々私たち後輩の牧師に面白おかしく話してくださったのです。

 あるとき、教会員たちが礼拝堂で午後の集会のために集まって牧師が来るのを待っていました。ところが上河原先生のお父さんは時間になっても現れません。心配した教会役員が牧師の書斎に探しに行くと、そこで上河原先生の昼寝をしていて、役員に起こされて「すっかり忘れていた」と言った言うのです。あるとき、同じ町にあるメソジスト教会の牧師に相撲観戦に誘われたことがありました。上河原先生のお父さんは自分と信仰的立場が全く違うメソジストの牧師と一緒に相撲を見に行ってよいものか家族に自分の悩みを語りながらも結局、大好きな相撲の誘惑に負けて、喜んでその牧師と出かけていったと言う話など、笑ってしまう思い出話を聞くことがありました。

 しかし、その中でも上河原先生が語ったお父さんについての思い出話で心に残ったのは、「自分の親父は牧師の息子だからと言って自分に不自由を強いることは一切なかった」と言うお話でした。上河原先生のお父さんは貧しい牧師の家庭で育った息子がどこに行っても引け目を感じることがないように、いつも自分のことを大切にしてくれていたと言うのです。その話を聞いたとき上河原先生はほんとうにお父さんに愛されていて、上河原先生もそのお父さんのことが大好きだったのだなと思わされました。だから、上河原先生もそのお父さんと同じ牧師になる道を選んだのかも知れません。


2.憎むとはどういう意味か?

①何が私たちにとって一番大切なのか

 しかし、今日の主イエスの言葉は家族を大切にするのではなく、むしろ「憎むべき」だと私たちに教えているように聞こえます。イエスの弟子として生きるものが自分の家族を大切にするなど決してあってはならなにと語っているように思えるのです。また、現代の心理学は自分自身を正しく評価して、愛することを奨めています。私たちが劣等感から解放されて、自分の人生を豊かに生きていくために自分を積極的に愛する必要があると教えるのです。ですから今日の主イエスの教えは現代の心理学の結論とも対立するように思えるのです。

 ここで聖書学者たちはこの主イエスの言葉を正しく理解するためにユダヤ人が元々使っていたヘブライ語の特徴を知る必要があると教えています。なぜなら、ヘブライ語の文法を理解しながらこの主イエスの言葉を調べるとここで語られている「憎む」と言う言葉は文字通りの意味ではなく、「より愛さない」と言う比較を表す表現として用いられていると言うことが分かるからです。主イエスは私たちが弟子となるためにはどうしたらよいのかをここで教えています。そのために私たちが一番に大切にしなくてはならないのはその主イエスに従うことであると言えます。ですから、その主イエスに従うことを後回しにして、自分の家族や自分のことを優先してしまうことは弟子としてふさわしくないと教えていると主イエスは語っているのです。

 この今日の聖書箇所の直前で、主イエスはある人が盛大な宴会を開催しと言うたとえ話を語っています。その宴会の主催者はたくさんの人を招いたのですが招待客たちは皆、様々な理由を言って主人の招待を断ってしまったと言うお話です(15〜24節)。

 このとき主人の招きを断ったある人は『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』(18節)と言い訳しました。また他の人は『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』(19節)と語っています。さらにもう一人の人は『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』(20節)と言うのです。ですから、主イエスがここで教えようとしたことは私たちが家族や自分自身を憎むと言うことではなく、むしろそれよりまず、主イエスからの招きに答えて、従うことが私たちの人生にとって一番大切であることを強調して教えていると考えることができるのです。


②家族も自分自身も偶像としてはならない

 また、もし私たちが主イエスを弟子となり、神を信じて生きることよりも自分の家族や自分自身を大切にするとしたら、それはある意味で自分の家族や自分自身を真の神に代わる偶像としてしまっていると言うことができます。もし私たちが神を蔑ろにして、自分の家族や自分自身を頼ろうとするなら、そこでは大きな悲劇が起こると言えるのです。

 ある説教者はこの主イエスの言葉から、私たちが神以外のものに頼ろうとするときに起こる重大の問題を取り上げています。なぜならそのとき私たちは自分の家族や自分自身を自分の期待を通してだけしか見ることが出来なくなるからです。そうなると私たちは自分の期待通りにならない自分の家族や自分自身を受け入れることができません。むしろそれらの者たちを激しく裁いたり、失望することになるのです。しかし、私たちが勝手に懐く期待と違って、現実の家族もまた自分自身もたくさんの弱さを持っている人間でしかありません。人を自分の期待を通してだけしか見ることが出来ない者は、その人間の持つ弱さを決して受け入れることができないのです。そしてこの説教者は主イエスが私たちに「憎め」、あるいわ「捨てない」と言っているのは真の神に代わって、私たちの偶像となっている家族であり、自分自身のことだと説明しているのです。

 それでは私たちはどうしたら本当の意味で弱さをもった自分の家族や自分自身を受け入れることができるのでしょうか。この説教者はそれが「自分の十字架を背負って」主イエスに従うことだと教えています。「自分に十字架を背負う」と言うことこそ、弱さを持った家族や自分自身をそのままで受け入れて、愛していく正しい道だと言うのです。

 私たちが十字架を背負うのは、主イエス自身が十字架を背負ってくださったからです。それでは主イエスは何のために十字架を背負ってくださったのでしょうか。主イエスは罪人である私たちをありのままで受け入れて、その私たちが神と共に生きることができるために、私たちの罪を引き受けて十字架にかかってくださったのです。だから主イエスの十字架は私たちに対する主イエスの愛を示すものと言うことができます。ですから同じように、私たちが「自分の十字架を背負う」とは単純に信仰のために「苦しむ」と言う意味ではなく、私たちが積極的に神を愛して、隣人を愛して行くことを教えていると言ってよいのです。


3.まず腰を据える

①じっくり考える

 さて、主イエスは続けてここで二つのたとえ話を取り上げて語っています。一つは塔を建てる人のたとえ、またもう一つは戦いに行こうとする王のたとえです(28〜32節)。どちらも軽はずみな思い付きだけで行動すれば恥をかき、思わしくない結果を招くことになることを教えています。だから、主イエスは私たちにまず行動に移る前に「腰を据えて」じっくり考えることが大切であると言うことを語ったのです。

 当時、主イエスの周りにはたくさんの群衆が詰めかけていました(25節)。彼らは多くは「イエスに着いて行けば、何かいいことが起こるかも知れない」と言ったような思い付きで集まって来た人も多かったはずです。だから、主イエスは彼らに自分に着いてくるならば、まずじっくりと考えて、弟子となる決断をしなくてはならないと教えたと考えることができます。

 昔、私は、私たちの改革派教会とは全く違った信仰を持つグループの修養会を見学しに行ったことがありました。そのときその修養会の講師が「頭ではない、御霊だ!」と語る言葉にびっくりさせられたことがありました。考えることと信仰は相容れないものであり、考えるのではなく、信じることが大切だとその講師は強調していたからです。聖書を読んでみると分かりますが。そこに登場する人も、また聖書を記した人たちも神から知恵をいただき、よく考えて行動していることがわかります。ですから私たちもまず聖書の言葉に基づいてじっくりと考え、行動していくことが大切なのです。そうすれば聖書の言葉に従って生きる私たちに聖霊が働いてくださるからです。


②聖書の御言葉を通して考える

 ある人はじっくり考えても「やはり自分は主イエスの弟子になる資格はない」と言う結論になってしまったらどうするのかと疑問を抱くかも知れません。しかし、だからこそここで主が「腰を据えて」と私たちに語っていることに注意すべきです。「腰を据える」とは今までやって来たことすべて一端ストップさせると言う意味です。「ながら運転」は危険な事故を招くと言うことを私たちはよく知っています。安全運転のためにはその運転に集中することが大切だからです。これは主イエスの弟子となろうとするときも同じです。今までの私たちが持っていた常識や経験をそのままそこに持ち込んでしまうなら私たちは「やはりだめだ」と考えることになります。だから私たちは自分の持っている常識や経験を一端、そこに置いて聖書の言葉に耳を傾けて、その聖書の言葉を通して自分が持っていた常識や経験が改めて考え、それが本当に正しいのかどうかを判断する必要があるのです。


4.一切のものを捨てる訳

 主イエスは「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」と語っています。私たちは「自分の持ち物」と言われると自分の持っている財産や地位など様々なことを考えるかも知れません。もちろん、この言葉はそれらのものを含めて語っていると言っていいかも知れません。それでは、なぜここで私たちはそれを捨てる必要があるのでしょうか。それは自分がイエスの弟子として生きることに障害となるものだからです。また弟子として生きて行く生活には不必要なものだからです。つまり、それを大切に持ち続ける限り私たちは「やっぱり自分はイエスの弟子となることができない」と考えてしまうような原因となるものだと言ってよいでしょう。その点ではここで語られている自分の持ち物の中には今、語った私たちの持っている常識や経験も含まれていると言えるのです。いずれにしても主イエスはここで私たちに厳しい修行方法を教えているのではなく、むしろ私たちが自分自身を縛っているものから自由になって主イエスの弟子となる方法を教えていると考えることができます。

 主イエスは私たちが弟子となってご自分に従うことを第一にするように求めています。そしてそのために今邪魔となっているもの、障害となっているものを捨てるべきだと教えているのです。だから私たちにとって自分の家族や自分自身も自分が頼るべき偶像にしてはならないのです。むしろ、私たちは弱さを持った自分の家族や、自分自身をそのままで受け入れ、弱さを補い合い、本当の意味で愛し合って行く必要があるのです。

 それでは、私たちはどうしたら自分の家族をまた自分自身を正しく受け入れ、愛することが可能なのでしょうか。それは私たちが主の弟子になることを通して実現すると言えます。なぜなら、私たちが主の弟子となって生きようとするとき、主イエスが私たちを助けてくださるからです。私たちは自分の力では、家族も自分自身も正しく愛することができません。しかし、主イエスが私たちを助けることによって、私たちには不可能だったことが可能となるのです。ですから主イエスはそのような新しい生き方を私たちが送ることができるように、私たちをご自分の弟子として招いてくださっているのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.主イエスはここでご自分の弟子となって従おうとする者たちにどんなことを求めていますか(25〜27節)。

2.主イエスは塔を建てようとする者のたとえを通して、何が大切であることを教えていますか(28〜30節)。

3.同じように戦いに行く王のたとえを通して、何が大切であることを教えられましたか(31〜32節)。

4.どうして主イエスの弟子になるためには「自分の持ち物を一切捨てる」ことが必要なのでしょうか(33節)。あなたは主イエスの弟子となって、従うために何から自由になる必要があると思いますか。

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