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2023.1.1「飼い葉桶の赤ん坊」 YouTube

ルカによる福音書2章15〜21節(新P.103)

15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。

16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。

17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。

18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。

19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。

20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。


1.天使の言葉を信じた羊飼い

 新しい年を迎えました。今年も皆さんと共に神への礼拝をささげていきたいと思います。新約聖書のヤコブの手紙には「行いの伴わない信仰は死んだものだ」(2章26節)と言う有名な言葉が記されています。私たちも今日の聖書箇所に登場する羊飼いたちのことを考えるとこの言葉の意味がよく分かると思います。

 羊飼いたちはいつもの通りに夜通し野宿をしながら羊の番をしていました。そこに彼らが思いもかけなかったような出来事が起こります。彼らの前に天使が突然に現れて、救い主誕生の知らせを彼らに告げたのです。羊飼いたちはこのとき自分の目の前で「天使に天の大軍が加わり賛美する」光景を見て驚かされたに違いありません。もしかしたら彼らは「自分たちは夢でも見ているのではないか…」と思ったかもしれません。しかしやがて、彼らはこの出来事が夢でも幻でもないことを確信するときがやって来ます。それは彼らが天使から聞いた言葉の通りにダビデの町、つまりベツレヘムの町で行き、そこで飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を捜し出したからです。

 ヤコブの手紙は私たちに次のように語っています。「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(1章22節)。もし羊飼いたちが天使の言葉を聞いただけで、「そんな素晴らしいことが今日起こったのか」と思うくらいで終わっていたら、彼らはこの後に自分たちに与えられる神の祝福を受けることができませんでした。それでは結局、救い主誕生の出来事は彼らの人生と関係ないままで終わってしまったはずです。しかし、彼らが最後に神をあがめ、賛美しながら帰って(26節)行けたのは、彼らが天使たちの言葉を信じてその言葉に従ったからです。このような意味で信仰は聞くだけでなく、次に私たちの行動を促すものであると言うことができます。ですから私たちが本当に聖書の言葉を信じているならば、この物語の羊飼いと同じようにその言葉が真実であることを確かめるために従う必要があるのです。そうすれば、私たちも神がみ言葉を通して約束してくださった祝福を実際に受けることができ、私たちの信仰もさらに強くされていくのです。

 新しい年が始まりました。この一年も私たちは神を礼拝することを通してみ言葉を聞く信仰生活を続けようとしています。私たちの信仰生活にとって最も大切なのはこの神の言葉を聞くことです。しかし、私たちの信仰生活はそこで終わってしまうのではありません。み言葉を聞いた上で、そのみ言葉に従って私たちが新しい歩みを始めるとき、私たちの信仰生活の上に神の祝福が与えられます。そして私たちの信仰もさらに強められることを、私たちはまずこの羊飼いたちの物語から再確認したいと思うのです。


2.飼い葉桶の乳飲み子

 どうして救い主はベツレヘムの家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされることになったのでしょうか。ある聖書学者はこの問いに答えて次のように説明します。この日、ベツレヘムの町で生まれた赤ん坊はイエス以外にも何人もいたかも知れない。しかし、その赤ん坊の中でも飼い葉桶に寝かされていたのはイエス以外にはおられなかったはずです。つまり、イエスが飼い葉桶に寝かされていたのは羊飼いがすぐにその赤ん坊が約束された救い主であることを見分けることができるためだと言うのです。

 また、続けてこの学者は次のようにも解説しています。もし、救い主が宮殿のようなところで生まれて、金で作られたベッドに寝かされているとしたらどうでしょうか。貧しい羊飼いたちはそのような場所に簡単に入ることができるでしょうか。決してそうならないはずです。羊飼いたちは誰かに発見されたら、真っ先につまみ出されて外に放り出されてしまうはずです。つまり、イエスが家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたことは、誰でもこの救い主に出会うことができると言うことを意味していると言うのです。このように「飼い葉桶に寝かされている乳飲み子」はすべての人がこの救い主に出会い、その救いにあずかることができるようにと願う神の御業の表れだと考えることができるのです。

 デンマークの哲学者キルケゴールはイエスの語られた「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章19節)と言う言葉を解説して次のように語ります。腕のいい名医は自分から宣伝などしなくても、病人の方が彼を捜しだして自然と集まって来る。しかし、魂の名医である救い主はそうではない。彼は自ら謙遜になって「わたしのもとに来なさい」と罪人たちを招き続けてくださる方なのだと…。

 私たちの神は「救われるのも、救われないのもあなた次第だ」
と語って、私たちのことを高いところからじっと見ている方ではありません。私たちに「どうしても、自分の元に戻ってほしい」と願い、「自分と共に生きてほしい」と望んでくださる方なのです。そのような神の私たちを求める愛が家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を通して、私たちにはっきりと示されたのです。このようにクリスマスは救い主誕生の出来事を通して私たちに対する神の愛を知る機会であると言えるのです。


3.心に納めるマリア

 カトリック教会ではこの一月一日の日を「マリアの日」と呼んで祝う習慣があるようです。私たちはカトリック教会のようにマリアを何か特別の存在として礼拝することはありません。しかし、ここに記されたマリアの生き方から私たちの信仰生活のヒントを学ぶことは有益であると考えることができます。ルカによる福音書はこの物語の中でマリアの反応を「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(19節)
と記しています。実はこの言葉はこの後、少年になったイエスが迷子になってエルサレムの神殿にいるところを見つけられた物語にも記されています。「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(ルカ2章51節)。

 この言葉はマリアが目の前で繰り広げられていた出来事の正しい意味を当初は理解できていなかったと言うことを表しています。マリアは天使のみ告げによって自分が神の子を産むことを知らされていました(ルカ1章35節)。しかし、自分たちがやがてローマ皇帝の命令によってベツレヘムの町まで旅をして、そこで宿屋を見つけることができずに、家畜小屋で子どもを産むことになるとは想像もしていなかったはずなのです。マリアは超能力のようなものを持った特別な人間ではありません。私たちと同じように自分の将来のことさえ分からないただの人間なのです。しかし、マリアは自分が産んだ子であるイエスを通して、神の御業がこの地上に実現していくことを信じていた人物であると言うことができます。

 ローマの信徒への手紙の5章には次のような言葉が書き記されています。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(3〜4節)。神を信じていても、私たちの人生は期待通り、自分の思っている通りに進む訳ではありません。時には、「何でこんなことが自分の人生に起こるのか」と思うような苦境に立たされることあるはずです。しかし、聖書は私たちにそのようなときに「忍耐しないさい」と言う勧めを語るのです。信仰の忍耐とは、自分の人生に起こった出来事に対して早急な結論を出してしまうのではなく、マリアと同じように「心に納めて、思い巡らす」ことであると言えます。神が私たちの人生に起こる出来事を通して何をしてくださるのかを待つことが、信仰の忍耐と言えるのです。もちろん、忍耐すれば自分の思った通りのことがやがて実現すると言うことではありません。しかし、私たちが忍耐すれば、私たちはやがて私たちも想像がつかなかったような神の御業を、神の救いを体験することができるようになるのです。その時私たちはすぐに消え去ってしまうようなこの世の希望ではなく、確かな希望を神の御業を通して自分のものにすることができるのです。


4.羊飼いの喜び

①元の場所に戻る羊飼い

「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(20節)。

 私が洗礼は受けたのは私が21歳のとき、今から44年も前の出来事です。その時、牧師館の風呂場にあった木でできた風呂桶の中に水を入れ、その中で正座して前かがみになって全身を水に沈めるという洗礼を私は受けました。もうすでに季節は10月にもなっていて、風呂桶の中の水がとても冷たくてブルブル震えたことを思い出します。だからでしょうか。水から上がったとき「これで自分も信者になった」と言う感動を感じました。しかし、洗礼を受けたからと言って私の生活がその時から全く変わってしまったわけではありません。私は当時、病気で長い間、大学を休学していました。洗礼を受けたから病気が癒されたということもありませんでした。だから私はそのとき「洗礼を受けて、元の生活に戻って行った」と言うことができます。

 このクリスマス物語に登場する羊飼いは天使の出現を体験しました。そしてその天使のメッセージを信じてベツレヘムの町に行き、飼い葉桶に寝かされた乳飲み子を捜し出したのです。彼らはそこで神が遣わしてくださった救い主に出会うことができたのです。しかし、その羊飼いたちはこのあと、元の生活に戻って行きました。羊飼いの生活は重労働で過酷なものでした。しかも、当時の人々から羊飼いは「卑しい、ならず者たち」と蔑まれていたのです。せっかく、救い主に出会うことができたのに羊飼いたちの生活は全く変わらなかったと言うのです。

 しかし、彼らの生活は確かに外面的に見れば以前と全く同じものであったと言えるかもしれません。しかし、彼らの内面、彼らの人生に対する考え方は救い主に出会うことで全く変えられていったと推測することができるのです。だから彼らは「神をあがめ、賛美」して帰って行ったのです。

 私は聖書を知る前に、自分はどうして生きなければならないのかと悩みながら人生を送っていました。当時の私には毎日の生活は無意味なことの繰り返しに思えてならなかったのです。人は無意味な繰り返しに耐えることができないと言います。ロシアの古い拷問の中には囚人に水を汲ませて、その水を地面に撒かせるというものがあると言います。囚人たちは何度も何度も同じことをするように強いられます。水を汲んで、地面にその水を撒いても何かが起こる訳ではありません。全く無意味な行為なのです。そしてこの行為を強いられ続けていると囚人は必ず精神に異常を来たすと言うのです。


②救い主を通して自分の人生の意味を知る

 人生の意味を見出せない者の毎日は拷問のようなものだと言えます。そんな毎日を過ごしていればその人の心は病んでしますことになるでしょう。しかし、どんなに私たちの今の生活が厳しものであったとしても、その意味を知らされて生きる者は拷問のような生活から解放されることができるのです。

 あるとき、イエスは生まれつき目の見えない人と出会いました。この生まれつき目の見えない人はそれまで「自分は呪われた人生を歩んでいる」と思わざるを得ない状況で生活していました。また彼の周りの人々も、彼に対して「かわいそうな人」と言う同情を感じたとしても、「彼はむしろこの世に生まれて来なかった方がよかった人だ」と考えていたのです。ところがイエスはその生まれつき目の見えない人の人生についてここで人々とは全く違った見方を披露しています。

「神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9章3節)。

 私たちが今、どのような人生を送っていたとしても、このイエスの目を通して見るならばその人生の本当の意味が分かるのです。神は私たち一人一人の人生に正しい目的を与え、その人生を導いてくださる方です。だから、私たちの人生に無意味なことは何一つ起こらないのです。

 羊飼いたちもまた、この日救い主イエスに出会うことでその人生の見方が大きく変わっていったのだと思います。その生活は外面的には以前と全く変わらなくても、彼らは毎日、自分たちの生活を通して神の栄光をあらわし、神を喜ぶことができるようにされたのです。

 救い主イエスとの出会いは私たちの人生を大きく変えるものです。私たちの人生もこれからどのようなことが起こるのか、私たちには今は分かりません。しかし、私たちの人生を神は責任を持って導いてくださいます。だから、私たちも救い主イエスの言葉を信じ、彼に従い、これからも自分の信仰生活を通して神の恵みを確かめて行きたいと思うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.クリスマスの日、野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちは天使からどのような知らせを聞きましたか(ルカ2章10〜12節)。

2.この知らせを天使から聞いた羊飼いたちは何をしようとしましたか(15節)。

3.ベツレヘムの町で飼い葉桶に寝かされてある乳飲み子を探し当てた羊飼いたちは何をしましたか(17節)。また、この話を羊飼いたちから聞いた人たちはどのような反応を示しましたか(18節)。

4.彼らとは異なり、同じように羊飼いたちが乳飲み子に会うまでの一部始終をその羊飼いから聞かされたマリアはどのような反応を示しましたか(19節)。

5.この後、羊飼いたちはどのようになりましたか(20節)。

2023.1.1「飼い葉桶の赤ん坊」