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  4. 1月15日「神の子羊イエス」

2023.1.15「神の子羊イエス」 YouTube

ヨハネによる福音書1章29〜34節(新P.164)

29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。

30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。

31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」

32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、"霊"が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。

33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『"霊"が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。

34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」


1.生涯を通してキリストを証しするヨハネ

 今週の週報にも記しましたが私は今から40年前、当時大学生だった頃にラジオで流れるキリスト改革派ラジオ伝道部が作成した番組を聞いて聖書に出会い、教会に導かれました。そのような意味で私の求道生活においてラジオ伝道の働きは重要な役目を果たしたと言えます。しかし、私が教会に行くようになったのはこのラジオの働きだけかと言えば、そうではないとも言えるのです。

 まだ私がクリスチャンになる前の話ですが、私が東京にある大学に電車で通っていたとき、同じ高校を卒業した後輩の一人がやはり別の大学に通うために電車に乗り合わせて、いろいろと世間話をすることがよくありました。そのとき彼が何度も口にした言葉は、「櫻井さん。教会はいいですよ。一度教会に来てみませんか」と言うものでした。どうやら彼は高校を卒業した後に近くの教会に導かれてクリスチャンになっていたようなのです。私は高校のときから共産主義の思想に影響されて、大学では新左翼の学生として活動していました。だから当時は、彼の語る言葉に反論して「宗教など支配者階級が民衆を支配するために作った道具にすぎない」と手厳しく批判したものです。しかし、彼はそんな私の言葉などどこ吹く風かと電車で私に会うたびに、ニコニコしながら「櫻井さん、教会はいいですよ…」と語り掛けて来るのです。

 後になって私が大きな人生の挫折を経験して、これから自分の人生をどう生きるべきか悩み続けていたときに、私はいつも電車出会うたびに「教会はいいですよ…」と語り掛けて来た彼の笑顔を思い出したのです。「教会って何でいいのだろうか…」。そんな疑問を感じながら、私は当時の自分にとって一番簡単な方法であったラジオのキリスト教番組に耳を傾け始めたのです。彼はいつも「教会はいいですよ…」と言う言葉しか私に語らなかったのでその理由が私にはさっぱり分かりませんでした。でも、今考えてみるとそれは当然のことなのだと思えるのです。結局、この後、私は「なぜ教会がすばらしいところなのか」と言う疑問に対する答えも得られずに近くの教会に行くことになりました。そして私はその教会で聖書を学び、礼拝に通い続けることでイエス・キリストに出会うことができたのです。この出会いの喜びは、それを経験した者にしか分からないものだと言えます。つまり言葉では説明がつかないのです。だから私の友人は自分が体験したイエス・キリストとの出会いを「教会はいいところですよ」としか語ることしかできなかったのです。

 伝道は説明や説得ではありません。その人自身がイエス・キリストに出会うように促すのが真の伝道であると言えるのです。それでは、私たちはそのためにどうしたらよいのでしょうか。今日の聖書の箇所はたくさんの人々をイエス・キリストに導き続けた人物として洗礼者ヨハネの姿を私たちに紹介しています。そこで今日はこの洗礼者ヨハネの姿から私たちがキリストを証しすると言うことはどのようなことなのかを考えて見たいと思います。


2.ヨハネの証

①この人を見よ

 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(29節)。洗礼者ヨハネはこの時、自分の方にイエスがやって来られるのを見てこのように証言しました。当時、ヨハネの元にはユダヤ全土からたくさんの人が集まっていました。彼らはそこで洗礼者ヨハネの説教に耳を傾け、悔い改めて洗礼を受けました。聖書を読むと、それだけではなく、洗礼者ヨハネの元に集まったかなりの人々が彼から洗礼を受けた後にその弟子となり、彼と行動を共にしていたことが分かります。しかし、彼はたくさんの人々が自分のところに押し寄せることだけに満足したわけではありません。いえ、ヨハネは自分の元に集まった人々が自分を見るのではなく、その目をイエス・キリストに向けることを願って止まなかったのです。その彼の姿勢をよく示す出来事がこのヨハネの福音書の少し後の方に記されています(3章22〜30節)。

 このとき、洗礼者ヨハネの弟子たちが彼の元にやって来て報告したのは、彼の元に集まっていたたくさんの人々がそこを離れて、新たに人気を集めているイエス・キリストの元に行っているという出来事です。洗礼者ヨハネの弟子たちは「ヨハネ先生の人気が廃れ、イエス・キリストの人気が高まっている」と大きな危機感を感じていたようです。なぜなら、このとき洗礼者ヨハネの弟子たちはイエスを洗礼者ヨハネと同じような預言者の一人であると考えていたからです。だから彼らはこのライバルの登場を決して許すことができなかったのです。

 この言葉を聞いた洗礼者ヨハネはまず、「自分は人々が期待しているようなメシアではない」と言うことをはっきりと語ります。そして自分が人々に訴え続けてきたそのメシアこそ「今、あなたたちが自分のライバルと勘違いしているイエス・キリストである」と断言したのです。そして、ヨハネは自分の元に集った人々がすべてこのイエスのところに行くことを望んでいると言うのです。だから洗礼者ヨハネは「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(30節)と語ったのです。

 この言葉を読むと洗礼者ヨハネの性格がよく分かるような気がします。彼には自分が人々の人気者になうと言う私心が全くありませんでした。だから、洗礼者ヨハネは人々が自分の元を離れて、イエスのところに行く姿を見て、さびしくなったり、残念がるのではなく、むしろ「私は喜びに満たされている」と語ったのです。


②イエス・キリストと出会った洗礼者ヨハネ

 それではなぜ洗礼者ヨハネは自分の周りの人が右往左往する中で揺るぎのない姿勢で、イエス・キリストを証しし続けることができたのでしょうか。それは彼自身がまず、イエス・キリストに出会ってその素晴らしを知っていたからだと言えるのです。今日の言葉の中で洗礼者ヨハネが「わたしはこの方を知らなかった」(31、33節)と二度も繰り返して語っています。これは洗礼者ヨハネがイエス・キリストとの出会いを経験して、そのイエスを本当に知ることができたと言うことを表す言葉になっています。なぜなら人を本当に知るということはその人についての知識を知ることではなく、その人に出会い、その人と共に生きることによって可能となるからです。

 小説家の椎名麟三と言う人はその著作の中でこんな話をしています。お見合いをするとき当事者は互いに自分がどのような人物かを紹介する身上書を交換し合うことがあります。その身上書にはその人がどんな家族構成の中で育ったかとか、どこの学校を出て、今、どんな仕事していると言うことが詳しく書かれています。その上で今、その人にはどのくらいの収入があるかということまで書かれているかも知れません。しかし、椎名はお見合いする人がいくらに相手ついての身上書を詳しく読んでも、その人に対する興味は沸いたとしても、決してその人に対する愛情は生まれてこないと語ります。なぜなら愛情はその相手に出会い、その相手と同じ時間を共有しながら過ごすことで初めて生まれてくるものだと言えるからです。椎名はこの話を通して私たちの信仰を説明しているのです。真の信仰とは聖書を読んで神やイエス・キリストについての知識を身に着けることではありません。真の信仰とは私たち自身がイエスに出会い、その方と生きることだと言えます。そして私たちがそのように生きることができれば、私たちの信仰はさらに深まって行くのです。


③小羊であるイエス・キリスト

 洗礼者ヨハネはここでイエス・キリストを「世の罪を取り除く神の羊だ」と語りました。小羊は聖書の中で重要な役割を果たす存在として度々登場しています。神がエジプト全土に災いをくだされたとき、小羊の血をその家の門柱に塗ったイスラエルの民だけは災いから逃れることができました。また、イザヤ書という旧約聖書の預言書は神が遣わされた救い主が私たちを罪から救うために自らが苦しみを受け、命をささげられる姿を預言して、それはまるで「小羊」のようであったと紹介しているのです。また、新約聖書のヨハネの黙示録は、世を裁き、神の救いを完成させるためにやって来られる方をやはり「小羊」として表現しています。つまり、世界の救いを実現し、私たちを罪から救い出す方こそこの「小羊」であるイエス・キリストであると言えるのです。

 この小羊の救いを必要としない者はこの地上に一人もいません。それはこのメッセージを語っている洗礼者ヨハネ自身も例外ではありません。彼もイエス・キリストの救いを必要としている罪人の一人でしかなかったのです。だから洗礼者ヨハネは自分の元にイエス・キリストが訪れ、彼から洗礼を受けようとされたときに、最初は躊躇しましたが、思い直してイエス・キリストの言葉通りに従ったのです。そして、洗礼者ヨハネは自らがイエス・キリストの御言葉に従うことで、このイエスとの出会いを経験したのです。だから彼はそのことを次のように語っています。

「わたしは、"霊"が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(31節)。

 洗礼者ヨハネの生き方の根底にはこのイエスとの確かな出会いがありました。ヨハネはこの方の言葉に従うことで、イエス・キリストがどのような方であるかを理解することができ、喜びに満たされることができたのです。私たちもこの洗礼者ヨハネの姿から主イエスの証し人となる生き方の秘訣を学ぶことができます。つまり、私たちも聖書を読んで知識を蓄えるのではなく、進んでその言葉に従って生きようとするなら、私たちも主イエスとの出会いを体験することができるのです。そしてその出会いの出来事を通して、私たちにも主イエスの証し人として生きるための喜びと、確信が与えられると言えるのです。


3.私たちは神から賜物をいただいている

 先ほど少し触れました、洗礼者ヨハネとその弟子たちとの間で交わされた言葉の中には他にも私たちが参考にできる大切な言葉を残されています。このとき、イエス・キリストを洗礼者ヨハネのライバルのような人物としてしか考えられなかった弟子たちに対して、彼は次のような言葉を語っているのです。

「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」(27節)。

 この言葉は直接には洗礼者ヨハネが自分は救い主ではない、あるいはその賜物をいただいていないと言うことを語っています。そしてイエスこそがその賜物を天からいただいてこの地上にやって来てくださった救い主であることを指し示そうとしているのです。

 しかし、その一方で洗礼者ヨハネは自分がイエス・キリストを証しする預言者として立てられ、天からその働きに相応しい賜物を与えられているという確信を持っていたことがこの言葉から分かるのです。私たちはよく自分の能力が足りないことに嘆くことがあります。私たちがそんな気持ちに襲われるのは、決まって自分よりもたくさんのことができている人を見て、自分と比べてしまう時だと言えます。だから洗礼者ヨハネは自分と人を比較して劣等感に陥る人に対して、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」と語っているのです。つまり、私たちは他人と自分を比べる必要ないのです。なぜなら今、私たちの持っている能力は神から与えられたものであり、私たちはその能力を使って神から与えられた使命を遂行することが十分にできるからです。

 インドで貧しい人たちのために奉仕し、ノーベル平和賞を受賞したことで有名になったマザーテレサの話です。あるとき、彼女は自分の元にドキュメント映画を撮影するためにやってきたスタッフたちが「用意した機材が少ないために、思った通りの撮影ができない」と嘆いているのを知りました。そこでマザーテレサは彼らにこう語ったと言うのです。「あなたたちはなぜ、自分にできないことをしようとして悩んでいるのか。神さまは私たちができることしか望んでおられない」。世界に知られるマザーテレサの活動の原点が「自分にできることをすること」であったことがこの言葉から分かってきます。洗礼者ヨハネもこれと同じこと言っているのです。神は私たちにそれぞれ使命を与え、それにふさわしい賜物を与えてくださるのです。そしてこの確信こそがイエス・キリストを証しする生涯に徹した洗礼者ヨハネの揺るぐことない確信となったことを私たちは覚えたいと思います。


4.聖霊が証言してくださる

 さらに洗礼者ヨハネはイエス・キリストについて「聖霊によって洗礼を授ける人である」(33節)と証ししています。私たちが知っている洗礼は頭の上に水を振り掛けるものですが、この時代にユダヤ人が行っていた洗礼は水の中にその体をすべて沈めるものであったと考えられています。しかし、私たちが洗礼において重要視すべきことは、全身をすべて水に沈めることなのか、それとも水を頭の上に二、三滴たらすべきなのかという形式ではありません。なぜなら、洗礼の水は私たちの上に聖霊が神から実際に与えられることを表す象徴に過ぎないからです。水曜日の祈祷会で読んだテキストの著者は「聖霊によって洗礼を授ける人である」と言う言葉を「聖霊漬けにする」という言葉で表現していました。

 イエス・キリストも次のように語っています。

 「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」(26〜27節)

 ここでイエスが語っている「真理の霊」とは「聖霊」のことです。私たちがイエス・キリストの証人となることができるのは、イエス自らが私たちの上に天から聖霊を遣わしてくださるからです。その聖霊が私たちの人生を用いてイエス・キリストの証人として生きることができるようにしてくださるのです。ですから私たちはこの聖霊の働きに信頼して生きればよいのです。イエス・キリストはこの聖霊を惜しみなく私たちに送ってくださり、私たちを「聖霊漬け」にしてくださるからです。

 私たちが洗礼者ヨハネの働きを通して知ることができることは、神が彼に賜物を与えて下さった方であると言うこと、また聖霊を豊かに送ってくださった方であると言うことです。私たちとヨハネの間には育った時代もまた文化も大きな隔たりがあります。しかし、神は現代に生きる私たちにもふさわしい賜物を与え、私たちに聖霊を遣わしてくださる方だと言えます。だから私たちもキリストの証し人として生きることができるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.洗礼者ヨハネはイエス・キリストが自分の方に来られるのを見て、この方について何と証言しましたか(29〜30節)。

2.洗礼者ヨハネはここで「わたしはこの方を知らなかった」と言う言葉を二回繰り返して語っています(31、33節)。彼はどのような意図でこの言葉を語ったのでしょうか。

3.洗礼者ヨハネはイエス・キリストを知ることになった決定的な出来事をどのような言葉で表現しましたか(32節)。

4.洗礼者ヨハネは人々に水で洗礼を授けました。しかし、イエスは何で洗礼を授ける方だと彼は証言しましたか。イエスの洗礼と洗礼者ヨハネの授けた洗礼の違いは何だと思いますか。

2023.1.15「神の子羊イエス」