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2023.1.22「選ばれた弟子達」 YouTube

マタイによる福音書4章12〜23節

12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。

13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。

14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。

15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ

16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。

19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

20 二人はすぐに網を捨てて従った。

21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。

22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。


1.ガリラヤに退く

 私たちの人生には私たち自身が予想していなかったような出来事が起こります。明日の自分がどうなっているかと言うことさえ分からない私たちなのですから、それは当たり前なのかもしません。しかし、大切なことは私たちがこれらの自分の人生に起こった出来事についてそれをどのように解釈し、また受け止めていくことが出来るかというところにあると言えます。

 日本の企業家で有名な松下幸之助はまだ若かりし頃、港湾労働者として重い荷物を運ぶ仕事をしたことがあったそうです。そこで屈強な労働者と共に子どものころからひ弱であった松下は働きました。しかし、彼にとって港での荷物運びは過酷な仕事であったためでしょうか、ある時、松下は足を踏み外して冬の港の冷たい海に落ちてしまったと言うのです。幸いにも彼はすぐに冷たい冬の海から引きあがられ命拾いします。そのとき、松下と共に働いていた労働者の一人が「こんな冬の海に落ちるなんてついてない。お前の人生にはこれからもよくないことが起こるに違いない」と言いました。しかし、彼と別の労働者はこの出来事について松下にまったく違ったことをしゃべります。「この冬の海から引き揚げられて助かるなんて、お前はついている。お前はよっぽど幸運の持ち主に違いない」。このとき松下は自分の人生に起こった出来事に対する全く違った二つの解釈を聞きました。そして松下はその時に後から語った労働者の解釈を選んで、「自分は幸運の持ち主だ」と信じながら生きることしたと言うのです。

 私たちの人生に起こる出来事にも様々な解釈が成り立つと思います。これは「すばらしい」とか、「なんってひどいんだ」と私たちは起こってしまった出来事を様々に解釈するのです。自分にとってその出来事が不都合なことだと思えば、私たちはそのことを「なんて無意味なのだ」と嘆いたりもするのです。しかし、私たちには私たちの人生に起こった出来事を判断する大切な助けがあります。それは聖書を通して私たちに知らされる神様の計画です。私たちがこの計画に基づいて自分の人生に起こった出来事を解釈していくならば、私たちはたとえ苦難の中に置かれたとしても、希望を持って生き続けることができるのです。

 福音書はイエス・キリストの生涯に起こった出来事を書き記して私たちに伝えています。しかし、福音書はイエス・キリストの生涯をまるでドキュメント映画のようにただ記録しているのではありません。むしろイエス・キリストの生涯に起こった出来事にはどのような意味があるのかを私たちに教えるのが福音書の役割であると言えるのです。

 今日の聖書箇所には洗礼者ヨハネがガリラヤの領主ヘロデに捕らえられた後のお話が記されています。ヨハネは誠実に神の言葉を人々に伝える預言者として生きました。たとえ相手が権力のある人物であったとしても「忖度」することなく、その人の誤り厳しく指摘して悔い改めを求めました。ヨハネはそのせいで領主ヘロデの反感を買い、捕らえられ牢に入れられてしまったのです。この後、主イエスが「ガリラヤに退く」という出来事が起こっています。ここだけを読むと領主ヘロデにヨハネと同じように逮捕されるのを恐れた主イエスはガリラヤに避難したというふうにも読めます。しかし、この福音書を記したマタイはこの出来後の解釈を旧約聖書の預言者イザヤの言葉を通してこの福音書に示しています。それではイエスはなぜ、この時ガリラヤに行かれたのでしょうか。


2.暗闇を照らす光

 「主イエスがヘロデの手から逃れるためにガリラヤに退かれた」。その解釈がふさわしいものではないと言えることは当時の歴史的状況を理解すればすぐにわかります。なぜなら、ガリラヤは洗礼者ヨハネを捕らえた領主ヘロデの支配する場所だったからです。つまり、ガリラヤに行くことはわざわざ敵の手中に入りに行くようなものであって、それは危険から逃れることにはならないのです。

 だからこそこの福音書を書いたマタイは「主イエスのガリラヤ行きの本当の意味は預言者イザヤがすでに語っている」とその言葉をここに引用しているのです。つまり、この出来事は偶然に起こったものではなく、神の計画に従うものであったと言っているのです。

「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(15〜16節)。

 ゼブルンとナフタリはイスラエルの十二部族の中でガリラヤの地を領土として分け与えられた部族の名前です。ガリラヤはイスラエルでは最も北の地方に属しており、隣国シリアと境界を接する辺境の地でした。

 イザヤの時代にはアッシリア帝国が力を回復して、周辺の国々に脅威を及ぼし始めます。するとガリラヤを含めた地域を当時治めていた北イスラエル王国の王は隣国シリアと手を組んでこのアッシリアに抵抗をしようと考えました。そしてその連合軍に南のユダ王国も加わるようにと圧力をかけたのです。ところが南ユダ王国の王はこの連合軍に加わることをしませんでした。そこでシリアと北イスラエル王国の連合軍はまず自分たちの仲間にならない南ユダ王国を滅ぼし、そこに傀儡政権を作ろうと画策したのです。預言者イザヤはこのとき北イスラエル王国とシリアの連合軍とどう対峙したらよいかを悩む南ユダ王国の王に「何もせずに、じっとしているように」と進言します。イザヤはこのような危機から救い出してくださるのはただ神だけだということを教えようとしたのでしょう。ところが南ユダ王国の王はこのイザヤの進言に耳を貸さずに、危険なアッシリアと手を借りてこの国難から逃れようとします。結果、アッシリアの巨大な力によって北イスラエル王国は滅ぼされ、この後、南ユダ王国もアッシリアの言いなりにならざるを得なくなります。そしてこのアッシリアの侵略によって真っ先に被害を受けた地がガリラヤ地方だったのです。

 主イエスの時代にはこのガリラヤに南に住むユダヤ人たちが入植するということが起こりました。この事情を知らない人はなぜサマリア人の住むサマリア地方よりさらに北のガリラヤにユダヤ人が住んでいるのかと疑問を感じます。実は彼らは南の地からこのガリラヤに移民して来た人たちなのです。だから主イエスの母マリアとその夫のヨセフは人口調査の際に、自分たちの本籍があったベツレヘムの町に行かなければならなかったのです。

 いずれにしても当時のユダヤ人はいつも神殿のあったエルサレムを自分たちの中心だと考えていました。それでこの神殿から遠く離れた場所であり、歴史的にも厳しい立場に置かれ続けたガリラヤは神の恵みが届かない、神に見捨てられた場所と考えていたのです。しかし、イザヤの言葉にあるように神はこのガリラヤを見捨てるのではなく、その地の人々を救うために真っ先に救い主をこの地に送ってくださったのです。人は自分が厳しい立場に立たされるとすぐに「神に見捨てられている」と勘違いして考えがちです。しかし、神の計画は人から見れば見捨てられているような人々に真っ先に救いの手を指し伸ばすものなのだと言うのです。

 そしてマタイは主イエスがこの地で神の国の福音を宣べ伝え始めることで、このイザヤの預言が確かに実現したと語っているのです。


3.呼ばれて弟子となる

 マタイはこの後に、ペトロやヨハネといった人たちが主イエスの弟子となる物語を記しています。正確にはシモン・ペトロとその兄弟アンデレ、そしてゼベダイの子ヤコブとヨハネの二組の兄弟が主イエスによってこの時、弟子として召されています。主イエスの物語を記した四つの福音書を読み比べてみるとペトロたちが主イエスの弟子となる過程が語られています。それを読むとこのマタイが記した物語はこの過程を単純化させて紹介していることが分かります。先ほども触れましたように福音書はドキュメント作品ではなく、福音書記者の解釈が入っています。ですから今日の聖書箇所を読む私たちはこの物語からマタイがこの出来事を通して何を理解し、私たちに示そうとしているのかが分かりのです。

 二人組の兄弟はいずれもガリラヤ湖で漁をして生計を立てていた漁師です。それではどうして漁師であった彼らが主イエスの弟子にされたのでしょうか。この物語はペトロたちの事情や彼らの持っていた考えなどは一切紹介していません。その彼らが主イエスの弟子とされたのは主イエスが彼らを呼んでくださったからです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(19節)とイエスはペトロたちに語り掛けました。ペトロたちはこの主イエスの呼びかけに答えてイエスの弟子となることができたのです。人が主イエスの弟子となるときに大切なのはその人の持っている才能や様々な条件ではありません。人は主イエスの呼びかけの言葉に答えることでその弟子とされるのです。

 私は先週、ラジオ録音のために原稿を考えていました。そのお話の中に私がどのようにして牧師となることになったのかという体験談も紹介して記しました。今から40年前、私がまだ大学生だったころ、私は人生の挫折を経験して心も体も病んで、長く大学を休学していました。最初のころは私を心配して見舞いに来てくれた同級生たちも、いつの間にか大学を卒業して、社会人となり、彼らとの交流もなくなってしまっていました。私は自分だけ一人だけ取り残されたようになり、希望のない毎日を送っていたのです。その私が聞いていたのがラジオで流れていたキリスト教の番組です。あるとき、私はその番組に自分の抱える悩みを書いた手紙を送りました。すると、当時その番組を担当していた牧師から私のところに返事が送られて来ました。そこには教会でその牧師が教えるために作ったウエストミンスター小教理問答書のガリ版で刷られた解説書が入っていました。そしてその片隅に「君は君のように苦しんでいる人の気持ちがわかるはずだ。だからこれから神学校に行って、牧師になってそんな人たちを助ける仕事をしたらどうか…」そんな言葉が記されていたのです。私はこの言葉を読んだとき今まで無意味だと思っていた自分の人生に起こった様々な出来事が自分を導くために神がしてくださったことなのかもしれないと思うようになりました。そしてその神の計画に従って牧師になろうと決心したのです。このとき私が受け取った手紙に牧師が書いた言葉がそれからの私の人生を変えるものとなったのです。

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。この主イエスの言葉は私たちにも語られています。そしてこの言葉に答えることは神学校に行って、牧師になることと言うことだけを意味するのではありません。私たちは私たちの人生の中で、この呼びかけの言葉を聞き、主イエスに従うように召されているのです。そしてこの言葉に従うとき、私たちの人生のこれまでの歩みの意味がはっきりとされるのです。私たちが「どうしてこんなことが起こったのか」と理解できなかったことさえも、私たちが主イエスに出会うために起こったことを知ることができるのです。


4.何のための選ばれたのか

 この当時も誰かの弟子となって生きようとする人は、自分が従う先生をたくさんの先生の中から選ぶということが多かったそうです。それは私たちが学校や会社を選ぶのと同じです。その上で、学校や会社はその人を試験して、生徒や社員としてのふさわしい条件をもっているかを審査します。そしてその試験に合格した人たちを生徒や社員に採用するのです。

 しかし、聖書が教えている主イエスと弟子たちとの関係はこれとは全く事情が違います。聖書では教師である主イエスの方が一方的に弟子たちを選んで、彼らに自分の弟子となって従うようにと呼び掛けています。それでは主イエスになぜ彼らを選んだのでしょうか。このとき選ばれた弟子たちはガリラヤ湖の漁師としての知識は豊富に持っていたかもしれません。しかし、聖書に関して言えば律法学者や祭司といった人の方が十分にその知識を持ち合わせていたはずです。彼らと違い全くの素人であるペトロたちのほうが先入観を持たずに、主イエスの教えを理解することができたからでしょうか。実は聖書は彼らが主イエスに選ばれた理由を説明していません。使徒パウロはこの神の選びについて興味深いことを記しています。

 「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありませ。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」(コリント一1章26〜28節)。

 私たちが選ばれたのはこの世の力や知恵が救いに対して全く無力であることを表すためだとパウロはここで教えています。しかし、無力な人間と違って私たちを選んでくださった救い主イエスは神の子として完全な力と知恵をもっておられます。だからこのイエスのできないことは何一つないのです。だから私たちが神に選ばれたのはこの世からは「箸にも棒にもならない」と蔑まれ、見放された者が神の力によって新しくされることを皆が知るためなのです。

 私たちが神に選ばれたのは私たちがすぐれた才能をもっているからではありません。神はむしろ私たちのような者を救い出すことによってその万能の力と偉大な計画を人々に示そうとされているのです。だから神の力に不可能はないということを私たちは自分の人生を通して証しするために今神から召され、その弟子とされていることをここでもう一度覚えたいと思います。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスは洗礼者ヨハネが捕らえられたと聞き、何をしましたか。マタイは旧約聖書の預言者イザヤの言葉を引用して、この出来事の意味をどのように教えていますか(12〜17節)。

2.イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、何をされましたか(18〜22節)。

3.ここでのイエスとペトロとアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟の間に起こった様子から、彼らがイエスの弟子となった理由がどこにあることが分かりますか。

4.私たちが主イエスの呼びかけに従うならば、私たちの人生はどのように変わると思いますか。

2023.1.22「選ばれた弟子達」