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2023.1.29「み言葉に導かれる教会」 YouTube

詩編119編105節(旧P.5)

105 あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。


1.光を見出せない暗闇の中で

 今日はこの礼拝に続いて定期会員総会が開催されます。そのためこの礼拝では本年度の教会の年間標語と年間聖句に関するお話をしたいと思います。

 もう40年近い前のことだと思います。私は当時、神戸改革派神学校で学ぶ学生でしたが、その学校の夏季休暇を利用して岐阜県の下呂に電車を乗り継いて出かけてことがありました。当時、その下呂の町の小さな教会に私を洗礼まで導いた牧師が転任していたからです。せっかく下呂の町に行ったのですが私は温泉にも入らず、懐かしいその牧師としばらくの再開を楽しんだ後、日帰りで電車に乗りました。それはその日の内に、神学校の友人の一人が赴任していた同じ岐阜県の関市に向かうためでした。もうすっかり日が暮れた時刻、私は自分の乗る高山本線の電車の車窓から見える外の景色を見て驚きました。岐阜県の山の中を走るその電車の窓の外は真っ暗な闇がどこまでも広がっていて、光が全く見えなかったからです。私は今までそんな車窓の光景を目にしたことはありませんでした。私が子供のころから乗っていた常磐線の窓の外には夜でもたくさんの家の窓から光が漏れていました。ましてやその当時私が住んでいた神戸の街は夜景がとても有名なところで、夜でもたくさんの光で溢れています。そんな私が初めて体験したのが岐阜の山並みを抜ける夜汽車で見た光のない暗闇の世界だったのです。するとその時私の心に一つの聖書の言葉が浮かんできました。それが「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」という詩編119編105節の言葉だったのです。

 ご存じのようにこの詩編が書かれた時代には現代のような闇夜を照らす便利な照明器具は全くありませんでした。つまり、この詩人が毎日知っている闇は私たち現代人が考えるよりももっと深い闇であると言ってよいのです。そして自分の足元さえ確かめることのできないその深い闇の世界の中で、詩人は「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」と語っているのです。私たちはこの詩編の言葉を理解するために、詩人が語っている暗闇は現代に生きる私たちが想像する光があふれる夜の世界とは全く違うことをまず知る必要があります。


2.苦難の暗闇の中で

 もちろん、ここで詩編の記者が語っている暗闇は彼の目が実際に見ているものを表しているのではありません。彼がここで語ろうとしている暗闇は彼の心の中の状態であると言えるからです。「自分の人生、これからどうのように生きていけばよいのかわからない」。詩編の記者はそのような厳しい人生の局面に立たされながらも、そこで「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」と歌うのです。

 詩編記者は107節で「わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり/命を得させてください」と語り、また110節では「主に逆らう者がわたしに罠を仕掛けています。それでも、わたしはあなたの命令からそれません」と言っています。

 この言葉から考えると詩編記者が体験している苦しみは主に従うことによって起こっている信仰者が体験する苦しみであると言えます。彼は自分が主に従えば従うほど、敵が増えていき、その敵の攻撃に会い、命の危機さえ覚えているのです。そしてそのような状況の中でも詩人は「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」と歌うのです。詩人は自分で自分の人生をどう生きていくべきなのか全く分からない状態にありました。しかし、詩人はそのような暗闇の中でも自分には自分の足元を照らす光があり、自分を導く光があると語っているのです。そしてその光こそが「あなたの御言葉」、つまり「神の言葉」だと語るのです。


3.イエスこそ光

 新約聖書のヨハネによる福音書はその冒頭で暗闇を照らす真の光について語っています。この福音書はこの光が「神の言」であると語り、私たちのためにこの地上に遣わされた御子イエス・キリストであることをはっきりと言っています(1章1〜5節)。この言葉から考えると詩編記者が語る「あなたの御言葉」とは主イエス・キリストを指していると言うことになります。つまり、暗闇のような人生の状況の中でも主イエスが私たちを導いてくださるので、私たちはこの人生を生きていくことができると言うことになります。そしてこれは私たち一人一人の人生だけではなく、私たちの教会にも当てはめることができます。教会はたとえ今困難な状況に置かれていて、自分たちではその行くべき道すら分からなくなったとしてその教会を導く方がおられるのです。暗闇を照らす真の光である主イエスは私たちの教会を導いてくださるのです。だから私たちはこのことを忘れることなく、私たちの教会を導いてくださる主イエスにこれからも信頼して進んで行きたいのです。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」

 私たちはこの新しい一年の教会の歩みを、私たちを導いてくださる主イエスを信頼することで始めようとしています。それでは私たちが主イエスを信頼して歩むとはいったいどういうことなのでしょうか。

 まず誤解してはならなにことは、私たちが主を信頼することは私たちの能力や力によるものではないということです。

 以前、ある人から「私は自分の病気が治るようにと祈ることをやめた」という話を聞いたことがあります。その人は「祈れば神様が必ず癒してくださる」という話を聞いて、自分が風邪をひいたり、体調をくずしたときに神に祈ったと言うのです。しかし、そのたびに「祈った通りには自分が癒されない」という現実に出会い、むしろ病のために祈ることで自分の神への信頼が揺らいでしまうことに気づきました。だからその人は「病気のためのため祈ることをやめた」と言うのです。ちょっと誤解のないように言えば、この人は「医者に行かなくても、祈れば治る」と主張するような特別な主張をする説教者の影響をそのとき受けていて、とても素直なその人はそれを信じた結果、自分の信仰が返って揺らいでしまう体験をしたと語るのです。

 もちろん、「医者に行かなくても、祈れば治る」というような主張は極端であり、ある意味で正しい聖書の理解ではないと言えるかも知れません。しかし、それ以上に問題なのはその人が「祈ると自分の神への信頼が揺らいでしまう」と考えて祈りをやめてしまったことです。むしろ、この場合は「信頼できない」という自分の気持ちを正直に神に祈り、その神の助けを求める必要あるのではないでしょうか。なぜなら私たちの主への信頼は、主から与えられる信仰の賜物であると言えるからです。

 詩編記者は自分の弱さをよく知っています。だからこそ自分の考えではなく、主なる神に目を向けようとしているのです。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」

 私たちがこの詩編の言葉を自分の信仰の告白とするためには、主イエスが私たちのために天から送ってくださる聖霊の助けが必要です。私たちはだからこそ今、主を信頼できない自分を責めたり、嘆くのではなく、その気持ちを正直に主に伝え、私たちのために天から聖霊が送られるようにと祈り続ける必要があるのです。


4.御言葉によって日々、軌道修正される生き方

①御言葉によって日々、悔い改める

 さらに、私たちが誤解してはならないのは私たちの信仰は「悟り」のようなものではないということです。ある人たちは「人は一度、悟りの境地に達すれば、それからずっと人生を正しく送ることができる」と考えます。しかし、私たちの信仰生活はそのようなものでは決してありません。私たちは天国に行ってキリストに似るものとなるまで、この地上では日々、聖霊の助けを必要としており、その助けによって自分を変えていただかなければならないのです。宗教改革者のマルチン・ルターは「主はキリスト者の全生涯に渡って悔い改めを求めとおられる」と語りました。「免罪符」のようなものを手に入れれば私たちの問題はすべて解決されるとは言わなかったのです。私たちは毎日の信仰生活で主の前に悔い改める必要があるのです。

 それでは私たちが悔い改めて、主に立ち返るためにはどうしたらよいのでしょうか。そのために私たちは日々、主の御言葉に耳を傾ける必要があります。なぜなら、聖霊は御言葉に耳を傾ける者の上に日々働いてくださる方だからです。信仰生活の中でいつの間にか私たちは主から目を離し、古い自分の考え方を持ち出して自分の人生を進もうとしてしまいます。しかし、私たちはそうすることによって人生の道を踏み外し、希望を失うことになるのです。

 わたしたちが主の御言葉に耳を傾けるなら、聖霊は私たちの考えの誤りを教え、本当の希望が主を信頼し、主に従うことにあることを教えてくれます。私たちは日々御言葉に耳を傾けることで、悔い改めに導かれ、主に導かれる人生を送ることができるようになるのです。


②教会がキリストの体として機能するため

 昔から教会は主イエスの体と呼ばれています。だから私たちはそのキリストの体の手足として今、この教会に集められていると言ってよいのです。そして教会が主の体として働くためには、そこに集う私たちが一人一人、まず主イエスと繋がっていなければならないのです。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15章5節)。

 ですからこの教会が主からいただいた使命を果たすために、私たち一人一人が主の御言葉に導かれる必要があるのです。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」。

 わたしたちは今どのような厳しい問題の中に置かれても、私たちの行くべき道を照らす真の光がおられることを知っています。それは私たちの主イエス・キリストです。そして私たちがこの主イエスに導かれるために、私たちは日々、主の御言葉に耳を傾け、悔い改めつつ、共に教会生活を送って行きたいと思うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.旧約聖書の詩編119編105節から112節(ヘブル語アルファベットのヌンで始まる詩)の部分を読んでみましょう。この詩編を書いた詩人はこの時、どのような状況に置かれていることが分かりますか。

2.このような絶望的な状況に立たされながらも詩人は主に対してどのような信仰を告白していますか。

3.新約聖書のヨハネによる福音書1章1節から5節を読んでみましょう。この箇所から暗闇の中で輝く光となって私たちを導く方は誰であることが分かります。

4.「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」。この言葉を私たちの毎日の信仰生活で生かすためにあなたは何をしたいと思いますか?

2023.1.29「み言葉に導かれる教会」