2023.10.1「後で考え直して」 YouTube
マタイによる福音書21章28〜32節(新P.41)
28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
1.イエスの語られたたとえ話
①主イエスの持つ権威とは
今日のお話は主イエスがエルサレムの都に入場した後に語られたものです。それではなぜ主イエスはこのときにこのお話を語る必要があったのでしょうか。19章の最初にはたくさんの群衆に歓迎されながら主イエスがエルサレムの町に入場するというお話が記されています。このエルサレムには当時、ユダヤ人が最も大切にしていた神殿、神を礼拝する場所がありました。しかし、この当時の神殿は特定の人々に利権を運ぶための場所に変えられてしまっていました。そこで主イエスが行ったことが多くの人々「宮清め」と呼ばれる出来事です。主イエスは神殿の境内で商売をしていた商人たちを力ずくで追い出すということを行われたのです。これは普段の主イエスの姿からは意外に見える行動です。なぜ主イエスはこのような暴挙とも見えるような行動をこの時、取られたのでしょうか。それは本来であれば「祈りの家」と呼ばれるべき場所である神殿が、人間が利権をむさぼるための場所に変えられてしまっていたからです。だから主イエスはこのことを決して許すことができなかったのです。
ところがこのような主イエスの行動を見て、この神殿から実際に利権を得ていた人々、つまり「祭司長や民の長老たち」(23節)は黙ってはいることができませんでした。彼らは主イエスを取り囲んで「何の権威でこのようなことをしているのか、誰がその権威を与えたのか」と抗議したのです。そして主イエスはこの抗議に対して洗礼者ヨハネと言う人物を例に出して彼らに答えています。なぜなら当時、洗礼者ヨハネはユダヤ人たちの人気の的であり、尊敬されていたからです。主イエスは「この洗礼者ヨハネの権威はどこから来たものか」と祭司長や民の長老たちに向かって逆に問い返しました(23〜27節)。今日のお話はこのような「権威」の問題に対して主イエスが続けて語られたものだと言うことができます。ですからこの文章の最初のところで「ところで、あなたたちはどう思うのか」(28節)と語られている、この「あなたち」とは主イエスの行動を許せないで、攻撃した「祭司長や民の長老たち」を指し示しているのです。
このような聖書の流れから理解すると、今日のお話は主イエスの持つ権威とはどのようなものなのかと言うこと、そして人がその権威を認めて生きるとはどのようなことなのかを私たちに説明していると言えるのです。そのため今日の箇所でもこの前のお話を引き継いで洗礼者ヨハネという人物の名前が登場しているのです(32節)。
②二人の息子の言葉と行動
今日のお話では「ぶどう園に行って働きなさい」と言う父親の言葉に、最初は「行かない」と答えながらも後で「考え直して」、ぶどう園に出かけた兄息子と、逆に最初は「行きます」と父親に答えておきながら、結局ぶどう園に行くことがなかった弟息子の二人の息子のたとえ話がまず語られています。そして後半部分では洗礼者ヨハネを信じた徴税人や娼婦と呼ばれる人たちと、このお話を直接に主イエスから聞いている祭司長や民の長老たちの生き方が比較されています。ですからこのたとえ話をその後に続けて語られたお話から考えると次のようになると思います。
この二人の息子のたとえ話の後で登場する「徴税人や娼婦」と呼ばれる人は神の命令である律法に従って生きることができませんでした。そのような意味で彼らは神の命令を拒んでしまった人たちだと考えることができます。しかし、彼らは後になってその自分たちの取った行動を考え直して、神に背いた自分たちの罪深さを悔やみ、その誤りを認めます。そして彼らは洗礼者ヨハネの語る福音のメッセージを希望を持って聞き、それを信じようとしたのです。
一方、ここに主イエスに抗議の声を上げた「祭司長や民の長老たち」は誰よりも熱心に神の命令である律法に従っていると自分たちでは考えていました。つまり、彼らは「自分たちは完璧に神の命令に従っている」と言う自信を持っていたのです。しかし、彼らはそのために洗礼者ヨハネの語る「義の道」、つまり主イエスによって示された救いの道を「自分たちには全く関係ないものだ」と考えてしまったのです。だから彼らは洗礼者ヨハネの言葉を信じることができずに、自分たちのためにも神が遣わしてくださった救い主イエスを受け入れることができなかったのです。
2.救われた者として生きる
まず今日のお話から私たちが学びたいのは私たちが神を信じるということは、口先の言葉だけではなく、実際に私たち自身の行い、つまり生き方を変えることだと言うことです。たとえ話に登場する弟息子は父の親の言葉に口先だけでは従っていますが、結局ぶどう園に行くことをしませんでした。新約聖書のヤコブの手紙の中には「御言葉を聞くだけで行わない」(1章23節)こと、つまり「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(2章17節)と教えています。
このような昔話があります。ある村で長い間、雨が一滴も降らないで、このままでは畑の農作物は全滅してしまうという問題が起こります。そこでその村の信仰深い人々は「もう神様におすがりするしかない」と言って教会に集まりました。そして彼らは熱心に「雨を降らしてくださるように」と心を合わせて祈ったのです。すると彼らが祈りを終えて家路に着こうとした時のことです。今まで晴天続きだった空に突然、真っ黒な黒雲が現れました。そしてその黒雲はたくさんの雨を村に降らせたのです。
ところが教会から家に帰ろうとしていた村人は困ってしまいました。なぜなら、彼らは誰も家から傘を持って来ていなかったからです。するとその光景を不思議そうに見ていたひとりの少年が彼らに次のように語ったと言うのです。「おじさんたち、どうして神様に雨を降らしてほしいとお祈りしたのに、傘を持ってこなかったの…」。実はこの少年だけは「神様はきっと自分たちの祈りに答えくださる」と信じて、家から傘を持って来ていたのです。
「主イエスを信じる者は確かな救いを受けることができる」と私たちは聖書の約束に基づいて信仰告白しています。しかし、実際に私たちはその信仰告白の通りに毎日を生きているでしょうか。神様が私たちを救ってくださると約束してくださっているのに、あたかもまだ自分は救われていない者のように、自分のことを心配して毎日を送ってはいないでしょうか。
聖書は救われた者たちに「神を愛し、隣人を愛しなさい」と教えています。しかし「自分自身を愛しなさい」とは教えていないのです。現代の心理学では「自分を愛すること」が私たちにとって最も大切であると教えているのに、なぜ聖書はそれを教えていないのでしょうか。それは神が私たちを完璧な愛で愛してくださっているからです。その神はご自分が愛し、救った者の人生に責任を持ってくださる方なのです。だから聖書が「自分を愛しなさい」と教えないのは、その必要がないほどに神様が私たちを愛してくださっているからだと言えるのです。だからこそ、私たちはイエス・キリストによる確かな救いにあずかった者として、口先の言葉だけではなく、進んで自分の心配ごとをすべて神にゆだねて生きて行く必要があると言えるのです。そうすれば、神は喜んで私たちの人生の責任をすべて引き受けて下さる方だからです。
3.「考え直す」ことの大切さ
①イスカリオテのユダの後悔
さて、私たちがこのお話からもう一つ学びたいのはこのお話の中に登場する「考え直す」と言う言葉の意味です。なぜなら、兄息子は最初、父親の言葉に従おうとはしませんでした。しかし「後で考え直して出かけた」からです。また、後半の文章に登場する徴税人や娼婦と呼ばれている人たちも同じです。彼らは生きるためにはたとえそれえが神の御心に反していたとしてもそれをしなければならないと考えていました。しかし、彼らはそのように考えて生きていても、心の奥底で不安を抱えていました。「本当にこのままで大丈夫なのだろうか…」。そう考えていた彼らは洗礼者ヨハネが「すべての人々に悔い改めが求められている。そして実際に悔い改めて神を信じる者は救われる」と教えました。だから彼らは後になって「考え直して」、洗礼者ヨハネの言葉を信じて、神が自分たちのために遣わしてくださった救い主イエスを信じ、受け入れることができたのです。このように彼らにとって大切だったのは「考え直した」と言うことでした。
実はこの「考え直す」と言う言葉は日本語ではむしろ「反省する」とか「後悔する」と訳した方がよい言葉だと言えます。だから興味深いのはこの同じ言葉が次のようなところで使われていることです。
「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し…」(マタイ27章3節)。
このイスカリオテのユダが「後悔した」と言う言葉が今日の箇所で「考え直す」と言われている言葉と同じ単語が使われているです。ユダは主イエスを金でユダヤ人たちに売り渡してしまったことを後になって「後悔しました」、つまり「考え直した」のです。しかし、このユダは後悔して「首をつって死ぬ」(5節)と言う悲惨な自己解決の手段を選んで人生を終えてしまいます。
このユダの事件は「考え直す」と言う行為だけでは私たちは決して自分の人生に良い結果を導き出せないと言うことを教えています。つまり、自分の犯した罪や失敗をいくら反省したり、後悔したりしたとしても、それだけでは決して信仰的な態度とは呼ぶことができないのです。なぜなら、私たちはそのことで自分自身を責めて、自分の人生を逃げ道のない絶望の世界へと追い込んでしまうことがあるからです。
②考え直して、主イエスにゆだねる
しかし、今日の主イエスの語られたお話に登場する人々たちがした「考え直す」ことは、このユダがした「後悔」とは全く違っています。たとえ話に登場する兄息子は「考え直して」ぶどう園に向かいました。私たちはこの「ぶどう園」に招かれるという行為が、神の福音の招きを表すと言うことを先週学んだばかりです。神が私たちのような小さな者たちを必要としてくださって、自分の「ぶどう園」の来るようにと招いてくださるのです。ですから、兄息子は後になってこの父親の「ぶどう園に行って働きなさい」と言う言葉が、自分を必要としてくれる父親の愛のこもった招きであることに気づき、その招きに喜んで従ったのです。
また洗礼者ヨハネの言葉に従って主イエスの元に集まり、その主イエスを信じよとした「徴税人や娼婦」と呼ばれる人たちがした「考え直す」も決して自分をいじめる「後悔」ではありませんでした。なぜなら、彼らはどんなに自分の人生を後悔しても、それだけでは何も解決しないことを認めていたからです。だから彼らはその人生の問題を解決してくださる主イエスの元にやって来て、主イエスに自分の人生をゆだねて歩もうとしたのです。
主イエスの権威は天の父なる神から与えられたものです。主イエスはこの権威によって私たちを完全に救い出すことができるお方なのです。そしてその権威を私たちが認めるということは、私たちがその主イエスを自分の救い主と信じて、自分の人生をゆだねていくことで表されるのです。私たちは自分をいじめるだけの後悔ではなく、主イエスによって救いわれた者として「考え直して」、自分の人生をこの主イエスにゆだね、その主イエスに従う信仰生活を送って行きたいと思うのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.ここで主イエスが「ところであなたたちはどう思うのか」と話しかけている「あなたたち」とは誰のことを言っているのでしょうか(28節、参照箇所:マタイ21章23〜27節)。
2.主イエスのたとえ話に登場する二人の息子を持つある人は、どこに行き、何をしましたか(28〜30節)。
3.この父親の言葉を聞いた兄息子はどのような反応を示しましか。また彼はその後でどのようなことをしましたか(29節)。
4.次に父親の言葉を聞いた弟息子の反応はどうでしたか。彼はこの父親の言葉通りに従うことができましたか(30節)。
5.どうしてイエスはこのとき「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と言ったのでしょうか(32節)。
6.この主イエスのお話を理解するカギは「後で考え直して」(29節)と言う言葉にあるようです。私たちの信仰生活にとって「後で考え直して」と言う言葉はどんな意味を持つでしょうか。