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  4. 10月15日「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」

2023.10.15「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」 YouTube

マタイによる福音書22章1〜14節(新P.42)

1 イエスは、また、たとえを用いて語られた。

2 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。

3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。

4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』

5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、

6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。

7 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。

8 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。

9 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』

10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。

11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。

12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、

13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』

14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」


1.王の祝宴への招き

①神からの招きを拒んだ人々

 今日も主イエスの語られたたとえ話から皆さんと共に学んでいきたいと思います。今日のたとえは王がその息子である王子のために開いた結婚式がその物語の舞台となっています。このお話の中には二つ問題点が隠されています。まず、王によって王子の結婚式に招待された客たちがその招きを拒んでしまうという問題です。そしてもう一つは、招待を拒んだ人たちの代わりに突然、この結婚式に連れて来られた人の中で一人だけ「婚礼の礼服」を着て来なかった人がいたと言う問題です。その上で主イエスはこのお話の最後で「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(14節)と言う言葉を語っています。神の招きはすべての人に与えられています。しかしその招きに正しく答えることのできる人は決して多くはありません。だから主イエスはここで「選ばれる人は少ない」とも語っているのです。私たちはこの主イエスの言葉から、神の招きに答えるために私たちには何が大切かと言うことについて少し考えてみたいと思うのです。

 この主イエスのたとえ話はここ数週間で学んできたたとえ話と同じように主イエスがエルサレムの町に入られた後に語られたものの一つです。このとき、たくさんの群衆に歓迎されてエルサレムにやって来た主イエスとその弟子たちでした。しかしこの群衆たちと違い、主イエスたちを歓迎できない人もこの都には存在していました。それは当時のエルサレムの町を支配していた人たち、つまり神殿で働く祭司たち、また民衆を聖書に記された律法を教えることで彼らの生活を導いていた律法学者たちです。聖書ではこの祭司たちをサドカイ派、そして律法学者たちをファリサイ派というグループの名称を使って呼んでいます。この二つのグループは旧約聖書の解釈の仕方でことごとく対立していましたが、両派とも「自分たちイスラエル民族は神によって選ばれた特別な民であり、その点で神に招かれている者たちだ」と考えていたところでは共通していました。

 ところが彼らは自分たちの先祖に神が与えてくださった約束に基づいて神が救い主イエスを遣わしてくださったにも関わらず、その主イエスを拒むことで、神の招きを無視してしまいます。そればかりではなく、彼らは主イエスを十字架で殺害してしまうという誤りをも犯してしまうのです。今日のたとえ話の中で王に招待されていた客たちが、その招きを伝える王の家来たちを「捕まえて乱暴し、殺してしまった」と言うお話は、旧約聖書の預言者たちの言葉に従わず、挙句の果てに彼らのために遣わされた救い主イエスを殺害してしまった当時の祭司や律法学者たちのことを例えて語っていると言うことが分かるのです。


②神からの招き

 これはアメリカにまだ奴隷制という忌まわしい制度が残されていた時代のお話です。一人の農場主が馬車に乗って自分の農園を視察していました。すると、その農園のかたわらで一人の黒人奴隷が腰かけて何かをしているのを彼は発見します。農場主はすぐにその奴隷ところに行き、彼に「お前はここで何をしているのか?」と声を掛けます。するとその奴隷はこう農場主に答えたのです。「ご主人様。私はここで聖書を読んでいたのでございます」。その言葉を聞いた農場主はすぐに「適当な言い訳をするな…。お前はここでサボっていたに違いない。第一、その本はお前のような者のために書かれたものではないのだぞ…」と怒りの言葉を語りました。すると奴隷は「でもご主人さま、この本の中には何度も私の名前が出てくるのです」と言うのです。その奴隷の答えを聞いて不審に思った農場主はそう語っているその奴隷が指さす聖書の箇所を見てみました。するとそこには「罪人」と言う短い言葉が記されていたと言うのです。

 神の招きに答えると言うことは、神が聖書の言葉を通して確かに自分を招いてくださっていると言うことをまず知ることだと言えます。そしてそのためにはこの黒人奴隷のように、聖書の中で語られている「罪人」と言う呼び名が私自身を呼ぶ神の呼びかけの言葉だと言うことを認める必要があるのです。


2.招きを拒絶した人々

 昔、「教会の礼拝においで下さい」と招いた人から「わたしはまだまだ修行が足りません。ですからもっと正しい生活を送れるようになってから教会の礼拝に行かせていただきます」と丁寧な言葉で断られたことがありました。私はこの言葉を聞いたとき、「この人は結局、これからも教会には来ないつもりだな…」と思いました。なぜなら、私たちが教会に行って神の助けを求めるのは、「自分では何をしてもどうしようもない。神に助けてもらわなければ、自分は人生を正すことはできない」と思っているからです。主イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9章12〜13節)と語っています。ですから私たちに大切なのは自分のために何かの修行をするよりも、まずこの主イエスの招きに答えることが必要だと言えるのです。

 結局、そう私に語られた方も「自分は教会に行く必要を感じていません。今の自分には教会の礼拝に出席するよりはもっと大切なことがたくさんあるのです」と言う気持ちを回りくどい表現で表しているに過ぎなかったのです。

 たとえ話の中で王の招きを拒んだ人については「一人は畑に、一人は商売に出かけ(た)」(5節)と語られています。また、この主イエスの同じたとえ話を自分の福音書に記したルカはその中の登場人物たちに、「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください」とか、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」、あるいは「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言う理由を語らせています(ルカ14章15〜24節)。いずれの言葉も「王の招きよりも、自分がしなければならない大切なことがある」と言うことを語っている点では同じ言い訳になっています。

 これに対して興味深いのは王が王子の婚宴に客たちを招く際に家来たちに語らせた言葉です。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」(4節)。この言葉は日本語訳では分からないのですが、ギリシャ語原文では「わたしの食事の用意が整いました」と「わたしの牛や肥えた家畜を屠って」と言うようにこの短い言葉の中に「わたし」と言う言葉が二度も使われているのです。これはこの婚宴がどんなに特別なものなのかと言うことを表す表現となっています。王の準備した婚宴は誰の人生にとっても何よりもすばらしいもので、この婚宴に招かれることよりも大きな恵みは何もないと言うことをこの言葉は表しているのです。

 つまり、先ほどの招待を断った客たちの言葉と、この王の言葉を比べると、婚宴への招きを断った人々が持っていた最大の問題は、この王の準備した婚宴よりも大切なものは存在しないと言えほど、この婚宴への招きが自分にとって重要なものだったことを彼らが理解していなかったと言うところに表されていると言えるのです。だからこそ彼らは自分の都合を最優先してしまうと言う過ちを犯してしまったのです


3.礼服を着てこなかった者

①たとえ話に示された歴史的背景

 王はこのような反応を見て「招いていた者たちは、ふさわしくなかった」と語り、新たに家来たちに「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」と命じています(8〜9節)。ここにはこの福音書を書いたマタイが実際に体験した歴史的事情が隠れて表現されていると言われています。なぜなら紀元70年に起こったローマ軍によるエルサレム攻撃によって都は陥落し、多くの人々の命が奪われていたからです。これは招きを拒んだ人々が王の命令によって派遣された軍隊によって滅ぼされ、その町も焼き払われた(7節)と言うたとえ話の内容と一致しています。

 そして主イエスの招きを拒み続けてユダヤの人々に代わって、今まで聖書の約束とは関りが無いと考えられて来た外国人、つまり「異邦人」が主イエスの福音を信じて、教会に集められると言う出来事が実際に起こりました。マタイはこの主イエスの語られたたとえ話を通して自分たちが体験してきた出来事が、神の計画によるものであることを説明しようとしているのです。

 このような事情を考えると私たちは町の大通りで突然、呼び止められて王の準備した婚宴の席に連れて来られた者たちの一人であると考えることができます。ですから私たちは自分自身が予想もしていなかった神の招きを受けることができた者たちであり、その点でこの神の恵みに感謝すべき者たちであると言えるのです。そしてマタイはこの招きによって「善人も悪人も皆集められた」(10節)と教えているのです。


②婚礼の礼服

 ところがここで新たな問題が生まれます。招かれた客の一人が婚礼の礼服を着ないでこの宴会に出席していたと言う問題です。そのため王はこの「婚礼の礼服」を着て来なかった人を宴会の場からつまみ出して、追い出してしまったのです(13節)。私たちはもしかしたら、「町の大通りで突然、祝宴に呼び出されたのだから「礼服を着ていない」と言って責められるのは理不尽ではないか…。むしろ、王はその人がどんな服装であってもこの婚礼に来たことを評価すべきではないか」と考えるかも知れません。しかし、このたとえ話ではこの人以外の客の服装は問題視されていません。彼らもまた大通りで突然、呼び止められてこの席に来ていたことでは同じなのに、皆礼服を着てここにやって来ていたのです。このように考えるとこの「婚礼の礼服」は誰でもすぐに準備できるものであることが分かるのです。  一方この婚宴には「善人も悪人も皆集められていた」とマタイによって語られています。しかし王によってこの宴会から追い出されたのはその「悪人」ではありませんでした。つまり、この「婚礼の礼服」とは善人とか悪人と言った人間の側の持つ何らかの素質や条件ではないことが分かるのです。とりあえず、ここでは「婚礼の礼服」がいったい何を表すのかと言うことは後で考えることにします。  私たちがまず、考えたいのは他の人たちは「婚礼の礼服」を着て来たのに、なぜ彼だけはそれを着て来なかったのかと言う理由です。この婚宴に突然、呼ばれたにも関わらず、彼以外の人々は「婚礼の礼服」をちゃんと着て来たのですから、彼だけが礼服を準備することができなかったと言う理由は言い訳になりません。むしろ、考えられる理由は、彼だけは「婚礼の礼服」を準備するつもりも、それを着ていくつもりもなかったと言うことになるのです。

 結婚式の招待状に「平服でお越しください」と言う言葉が書いてあったのでTシャツとジーパンのような普段着で出席して、人々から顰蹙を買ってしまったと言う人の話を聞いたことがあります。いくら招待状にはそう書いてあっても、私たちはその結婚式の雰囲気を壊すことがないように、あらかじめふさわしい服を調べて、それを準備するのが礼儀であると考えます。つまり、この「婚礼の礼服」を来てこなかったと言う人はそのような配慮も礼儀も欠けていたと言うことが分かるのです。それはどうしてでしょうか。彼もまた自分がどんな席に招待されたのか、誰が自分を招いてくれたのかをよく知らなかったからです。そのような意味では、彼の理由も王の準備した婚宴への招待を拒んだ人と変わりがないと言ってよいのです。つまり、彼は形ばかりは王の招きに答えたように見えるが、実際には心そこにあらずと言う態度を示していたのです。


4.感謝をもって王の招きに答える

 おそらくこの後半の部分の話は福音書を書いたマタイによって主イエスの招きに答えてキリスト教会に集められた人々に向かって語られていると考えることができます。確かに、私たちは今、予想もしていなかったすばらしい神の招きによってこの教会に集められ、礼拝をささげています。しかし、私たちはこの礼拝に婚宴の席に招かれた人々が「婚礼の礼服」を着なければならないように、ふさわしい態度で参加しているでしょうか。

 それではこのたとえ話で語られている「婚宴の礼服」とはいったい何なのでしょうか。それは私たちを招いてくださった主イエスの福音のすばらしさを聖書の御言葉を通して知った者たちが、感謝を持って礼拝をささげる姿を現わしています。私たちは自分では何もよいことのできない罪人に過ぎません。それにも関わらず、神が主イエスを通して私たちを招いてくださったのです。ですからこの恵みの素晴らしさを知る者は必ず、自分を招いてくださった神に感謝をささげたいと願うはずです。パウロはローマの信徒への手紙でこのように私たちのささげる礼拝について教えています。

 

「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(12章1節)。

 神の招きのすばらしさを知る人は必ずその神に感謝したいと言う願いを抱きます。そしてその感謝を神に表すのが私たちの今、ささげている礼拝なのです。ですから、私たちもまた神に感謝するという私たちとっての「婚礼の礼服」を身にまとって、神を礼拝する生活を続けて行きたいと思うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.王が王子のために婚宴を開こうとしたとき、なぜあらかじめ王から招待されていた客はこの婚宴に出席しようとしなかったのでしょうか(1〜5節)。

2.このたとえ話が伝える出来事はマタイたちの経験したどのような歴史的出来事を例えていると考えられますか。

3.元々婚宴に招待されていた客に代わって家来たちによって集められた客はどのような人たちでしたか(10節)。

4.王はこの婚礼に集まった人の中で、どのような問題を持った人を見つけましたか。王はその人をどのように取り扱いましたか(11〜13節)。

5.神の招きに答えて教会に集められ、礼拝をささげている私たちにとってこの「婚礼の礼服」とは何を意味していると思いますか。

2023.10.15「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」