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2023.10.29「最も重要な掟」 YouTube

マタイによる福音書22章34〜40節(新P.44)

34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。

35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。

36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」

37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

38 これが最も重要な第一の掟である。

39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』

40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」


1.異なる聖書解釈

①対立するサドカイ派とファリサイ派の聖書解釈

 聖書に登場するユダヤ人にとって聖書は最も大切にされるべき書物であったと言えます。なぜなら、彼らは自分たちこそ神に選ばれた特別な民であると信じていて、その証拠として神の言葉である聖書が自分たちに与えられたと信じていたからです。ところが、彼らの中には神の言葉である聖書を大切にしていましたが、その聖書の解釈に関して主イエスが活躍された時代でもそれぞれ異なった立場に立つ人がいたことが分かっています。その代表が今日の聖書箇所に登場するファリサイ派とサドカイ派と言う二つのグループです。例えば、今日の聖書箇所は「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて」(34節)と言う言葉で始まっています。これはこの直前の箇所に記されているサドカイ派と主イエスの間で交わされた「復活についての問答」のことを語っています(23〜33節)。ここでは夫と次々と死別して、何人もの男性との間で再婚を繰り返した女性の話が登場し、「もし、復活と言う出来事が起こった場合にこの女性はいったい誰の妻となるのか」と言う質問が主イエスに向けられています。サドカイ派がこのような質問をしたのは、彼らが復活という出来事を信じていなかったからです。つまり、サドカイ派の人々は「聖書は復活と言う教えを語っていない」と解釈していたのです。

 さて、このサドカイ派とは違い今日登場するファリサイ派の人々は復活が聖書の教える真理であることを信じていた人々でした。しかし、彼らもまた聖書の解釈では主イエスの教えと対立していたことが福音書の記述を通して報告されています。このように神の言葉である聖書は一つであるにも関わらず、その言葉に対する解釈は人によって異なっていると言う事実が、今日の物語の背景にあることを私たちは見逃してはならないと思います。


②聖書を信じる三つの宗教

 「世界の三大宗教」と言う言葉で紹介されるのはご存知の通り、キリスト教とイスラム教、そして私たち日本人とつながりの深い仏教です。その中のキリスト教とイスラム教、さらには人数に関しては極めて少ないのですが同じように今でも世界に影響力を示しているユダヤ教、この三つの宗教は同じ聖書を信じていると言う点で共通しています。ところが同じ聖書を教えながらこの三つの宗教はその解釈においてそれぞれ異なった主張をしています。イスラム教ではコーランと言う書物が大切にされているのは有名ですが、このコーランは聖書についてのイスラム教の理解を示すものだとも言えるのです。つまり、もし聖書が人類に与えられていなかったらコーランもイスラム教も存在しなかったと言えるのです。

 それは私たちが信じるキリスト教も同じあると言えます。私たちの信仰の中心は聖書の言葉にあると言ってよいと思います。そしてこの聖書の中でも旧約聖書はユダヤ教の人々の信仰の基準ともされて来ました。しかし、彼らはその聖書を信じていても、私たちキリスト教徒と違い、主イエスを救い主であるとは認めていません。ところがここで私たちが忘れてならないのは、新約聖書に登場する初代教会の人々の時代には私たちの知っている新約聖書はまだ存在していなかったと言うことです。ですから初代教会の人々は旧約聖書の言葉を通して、主イエスが真の救い主であると言う信仰に導かれことになります。この点で初代教会の人々は同じ旧約聖書を読みながら主イエスを信じることを拒んだ人々とその解釈の仕方が全く異なっていたことが分かるのです。それでは初代教会の人々はどのような方法で神の言葉である聖書を解釈しようとしたのでしょうか。それは主イエスの言葉と行いによってであると言えます。つまり、彼らは聖書のすべての言葉を主イエスを通して理解しようとしたのです。この点でキリスト教会は他のどの宗教とも違った独特の聖書解釈をして来たと言うことができるのです。

 現代でも多くの人々に聖書は読まれています。そしてその聖書に対する異なった解釈も存在しています。しかし、私たちキリスト教会の聖書の解釈方法はすべての言葉を私たちの救い主である主イエスを通して理解するということで一貫していると言ってよいのだと思います。


2.神を愛する

①律法学者の質問

 今日の聖書箇所ではファリサイ派に属する一人の律法学者が主イエスに対して「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」(36節)と言う質問をしています。律法学者はその名前が示すように聖書に記されている律法を研究している専門家です。ですから、彼はこの質問の答えが分からないから主イエスに聞いているのではないと言えるのです。むしろ彼は主イエスが自分たちの教えている律法の解釈と違う答えをしたら、それを批判してやろうと待ち構えていたと考えることができるのです。

 牧師をしていると様々な人々から聖書についての質問を受けることがあります。その人が本当にその聖書の意味を理解できないので私に尋ねてくると言うことも多いのですが、中にはその聖書の言葉に関する自分なりの解釈を予め持っている上であえて私に質問を向けて来る人もいます。そういう人の目的は聖書の言葉の解釈を巡って私と論争しようとしたいのでしょう。ですから、こういう人につかまってしまうと本当に困ります。なぜなら体力も時間も消費される割には、私には不快な気持だけが残るからです。


②神に救われた者に与えられた掟

 主イエスはこの律法学者の質問に対してまず「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(37節)と言う掟を取り上げています。これは旧約聖書の申命記6章4〜5節に記された言葉の引用です。この言葉はこれから神から与えられた約束の土地に入ろうとするイスラエルの民に対してその指導者であるモーセが語った言葉の一部です。正確にはこの言葉は「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」と言う言葉から始まっています。この「聞け、イスラエルよ」と言う言葉がヘブライ語では「シャマー・イスラエル」と言う言葉になり、ユダヤ人は毎日、祈りの中で必ずこの言葉を唱えると言われています。

 以前、この聖句をヘブライ語で記した紙の入った小箱をヤング宣教師がこの礼拝に持って来て、私たちに見せてくれたことがあります。現代でもユダヤ教徒はこの言葉を大切にして、小箱に入れて、自分の腕などに結び付けるのだそうです。彼らがそれほどまでにこの言葉に拘るのは、自分たちに与えられた神の祝福がこの言葉の中に示されていると信じているからであると言えます。

 ただ、ここで私たちが忘れてはならいなことはこの言葉はモーセによって約束の地に入ろうとするイスラエルの民に与えられた掟であると言うことです。ですから、この掟はそれを守る人が約束の地に入ると言う救いの条件を語っているのではないのです。つまり、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と言う掟は、神に選ばれ、救われた者に与えられている掟であり、神の恵みによって救われた彼らが、その神に感謝して生きるための教えてある言えるのです。


3.隣人を愛する

 このことは主イエスがこの第一の掟に続いて語られた第二の掟にも共通していると考えることができます。イエスはここで『隣人を自分のように愛しなさい』と言う旧約聖書のレビ記19章18節が教える掟の言葉を引用しています。この言葉も前の掟と同様に神に救われた者に与えられているものだと言えるのです。決して、この掟は人が神の救いを受けるための条件を教えているのではありません。

 神はなぜ、私たちを救ってくださったのでしょうか。それは私たちが神を愛し、隣人を愛して生きることができるようにならためであると言えます。つまり、この掟はある意味で神に救われた私たちが生きるための目標を示していると考えることができるのです。

 さてここで私たちにとって重要なのは、主イエスがここで語られている第一の掟と第二の掟との関係であると言えます。もちろん私たちにとって大切なのは第一の掟に示された、私たちと神との関係です。なぜなら、私たちの人生の問題はすべてこの神との関係の断絶から始まっているからです。聖書が問題にする「罪」はこの神と人間との関係が断絶された結果現れるものだと言えます。だからこそ、私たちの救い主である主イエスはご自身の貴い命をもってこの私たちの罪の問題を解決してくださいました。そして私たちと神との関係を回復させてくださったのです。ですからこの主イエスによって回復された神との関係を私たちが第一に大切にすることは当然であると言えます。

 しかし、神はなぜ救われた私たちに対して「隣人を愛しなさい」と教え、隣人との関係を大切にするようにと命じているのでしょうか。興味深いのはこの第二の掟が記されているレビ記の中には他にも様々な掟が記されているのですが、それらの掟は「神聖法集」と一括りにして呼ばれていることです。なぜなら、これらの掟は「神が聖であるように聖なる者にならなければならない」と言う目的で教えられているからです。

 この「聖」と言う言葉は神の特別な性質を表す言葉として聖書では用いられています。つまり「聖なる者になれ」と言う勧めは、神と同じように生きなさいと教えていることになるのです。

 「なぜ、神は私たち人間を愛されるのか…」。そのような質問を最近も受けたことがあります。人間の抱く愛には理由が存在しています。多くの場合その理由は自分にとって利益があるからだと言えるのです。しかしそのような意味では神の愛には理由はないと言えます。なぜなら、罪人である人間を愛したとしても神が利益を受けることはないからです。神にとっては罪を持つ人間はむしろ不都合な存在と言うことができます。しかしなぜそんな私たちを神は愛してくださるのでしょうか。しかもご自分の御子の命を犠牲にしてまで、私たち人間を神は愛してくださるのです。この神の愛は人間の常識では考えることもできないものであると言えます。

 結局のところ聖書は「神は愛です」(4章16節)と言う言葉で神の私たち人間に対する愛を説明しています。この言葉の通り神ご自身が愛なのであって、神の存在と愛とは決して切り離せない関係を持っているのです。だからこそ、この神との関係を主イエスによって回復され、神のものとなった私たちも「隣人を愛する」人生を送ることが当然な生き方だと言うことになるのです。

 ここで「第二の掟もこれと同じように重要である」と主イエスの言葉があります。この言葉は二つの掟が決して切り離すことのできない関係にあることを教えているものです。つまり、二つの掟はコインの裏と表のようになっていて、神を愛せない者は、決して本当の意味で隣人を愛することができないことを教えているのです。


4.本当の愛は神から生まれる

 さて、主イエスはこの最も大切な二つの掟を語った後に「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と言う言葉で結んでいます。つまり、この二つの掟は聖書のすべての言葉に共通する原理のようなものだと言っているのです。当時のユダヤ人たちは毎日の生活の中で旧約聖書の教える律法を忠実に守ることを大切にしていました。しかし、その反面ではその律法を守ることのできない人々を軽蔑したり、差別すると言う行為を繰り返していました。彼らはそのために聖書が教える「隣人」と言う枠組みの中には律法を守れない人は含まれないと言う勝手な解釈を着けて、自分たちの行為を正当化していたのです。主イエスはそのような意味で、「自分たちは神を愛している」と主張しながら、「隣人を愛する」と言う掟を何の疑問もなく守らない人々をここで問題視していると言ってよいのです。

 ルカの福音書ではイエスがこの二つの掟を取りあがた後に同じようにその主イエスが語られた有名な良きサマリア人の話が記されています(ルカ10章25〜37節)。ここでは隣人の範囲を自分が愛せる人に限定しようとするファリサイ派の解釈と違い、主イエスは相手が誰であっても私たちの方から進んでその人の隣人になって行くようにと教えています。このように主イエスの愛についての解釈は他の人々の考えとは全く違う極めてユニークなものであることが分かります。

 それは主イエスだけが「神は愛である」という聖書の伝える真理を本当の意味をご存知であったからだと言えます。そのような意味で愛は神から出るものであって、私たち自身の中から自然に生まれてくるものでは決してないのです。私たちはどちらかと言うと、愛を人間に備わっている能力の一つのように考えてしまう特徴があります。そして愛のない自分は、神から裁かれてしまうのではないか…。あるいは神に見捨てられてしまうのではないか…と不安を感じるのです。

 未開の人々が住むアフリカの地に靴のセールスにやって来た二人のビジネスマンがいました。しばらくしてこの二人から本社に全く異なった別々の報告が届きました。一人のセールスマンは「残念ながらこの地に住む人々には靴を履く習慣がありません。これでは彼らに靴を売ることは不可能です」と言う報せでした。しかしもう一人のセールスマンは「ここはすばらしいところです。なぜなら誰もまだ靴を持っていないからです。だからそのすべての人に靴を買ってくれる可能性があります」。

 信仰生活の中で愛のない自分の姿を示されたとき、私たちはどのように考えるべきなのでしょうか。自分は信仰者として失格だ…。神に愛される資格はないと考えるべきなのでしょうか。それとも自分にはまだまだ神の助けが必要であることを認め、神に助けを祈り求めるべきなのでしょうか。私たちのために聖霊を惜しみなく送ってくださる神は、その聖霊を通して私たちに惜しみなく愛を与えてくださる方であると言えます。そのような意味でこの二つの掟は私たちに神の助けが必要であることを明らかにする役目を果たしています。その上で同時に、神がこの二つの掟を通しても私たちの信仰生活にこれからも豊かに働いてくださることを期待することができる、そのような希望を教えるものだとも考えることができるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ファリサイ派の人々は主イエスがサドカイ派の人々をどのように言い込めたことを知って主イエスの元に集まりました(23〜33節)。

2.ファリサイ派の律法の専門家は主イエスに対してどんな質問をしましたか。彼がこの質問をした目的は何でしたか(35節)。

3.イエスはこの質問に対して、どのような言葉を語りましたか(37〜40節)。

4.この主イエスの言葉によれば第一の掟と第二の掟はどのような関係を持っていることが分かりますか。

5.主イエスの語る「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と言う言葉は、私たちの聖書の読み方にどのような影響を与えるとあなたは思いますか。

2023.10.29「最も重要な掟」