2023.10.8「キリストの死と葬り」 YouTube
ヨハネによる福音書19章31〜42節(新P.208)
31 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。
32 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。
33 イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。
34 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
35 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
36 これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。
37 また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
38 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。
39 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。
40 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。
41 イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。
ハイデルベルク信仰問答書
問40 なぜキリストは「死」を苦しまなければならなかったのですか。
答 なぜなら、神の義と真実のゆえに、神の御子の死による以外には、わたしたちの罪を償うことができなかったからです。
問41 なぜこの方は「葬られ」たのですか。
答 それによって、この方が本当に死なれたということを証しするためです。
問42 キリストがわたしたちのために死んでくださったのなら、どうしてわたしたちも死ななければならないのですか。
答 わたしたちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、むしろ罪との死別であり、永遠の命への入口なのです。
1.キリストの死
①メメント・モリ
今日も皆さんと共に私たちの改革派教会の信仰を伝えるために宗教改革の時代に作られたハイデルベルク信仰問答の言葉から聖書の教える大切な真理について学んで行きたいと思います。今日の信仰問答の問40〜問42ではキリストの死と葬りについての説明と、その出来事を通して私たち自身が必ず体験しなければならない自分の死と言う現実をどのように理解すべきかが教えられています。
ラテン語で「メメント・モリ」と言う有名な言葉があるのを皆さんはご存知でしょうか。現在ではネットでこの言葉を検索すると特定のゲームソフトのページが掲示されてしまいますが、この言葉は「自分の死を覚えなさい」とか「自分が死ぬべき存在であることを忘れないように」と言う意味を持っています。古くは中世の修道院で生活した修道士たちの合言葉として使われていたと言うことを以前、聞いたことがあります。
私たちは普段自分の「死」について、また他人の死についてもあまり好んで考えたいとは思いません。むしろ私たちには「できれば人の「死」に関係することを考えるのを避けたい」と思っている傾向があります。しかし、実は自分の死と向き合うということは、自分が自分自身の人生を悔いなく生きるために必要であると言えるのです。ですから、修道士たちはこの言葉を合言葉のように語り合うことで、自分の地上の死と共に無くなってしまうようなこの世の儚い宝ではなく、いつまでもなくなることのない永遠の命を得るために、今のときを送ろうと心掛けたと言えるのです。
日本でも「朝に紅顔あって夕べに白骨となる」と言う言葉が伝えられています。生きとし生ける者は必ず死を迎えなければならないことを教える言葉だと言えます。人間の経験に基づいて作られる科学によるなら「人間の死は自然なもの」と考えられています。つまり、私たちが死と言う現実から逃れようとする行為は、科学の道理に合わない不自然なことであり、そのような意味でも愚かな行為であると言えるのです。しかし、私たちが学んでいる聖書はこの世の科学と違い「死は人間にとって自然なことでなく、不自然なことだ」と言う捉え方をしている点で大変に興味深い教えを語っています。
②死は人間の罪による
なぜなら、聖書は神に造られた際の最初の人間には死は存在しなかたと教え、その死がすべての人間を支配することになった理由は、人間が犯した罪によると語っているからです。創世記の2章16〜17節には神が最初の人間に語れた次のような警告の言葉が記されています。
「主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
この神の警告にも関わらず、人間は善悪の知識の木の実を食べてしまうことで、死ぬものとなったと言うことが創世記の伝える最初の人間の物語には教えられているのです(創世記3章)。このことについて使徒パウロもローマの信徒への手紙の中で「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば…」(5章17節)と語っています。ここでパウロが言っている「一人の人」とは創世記が教えている神が創造された最初の人間のことを意味しています。
③キリストが死んだ理由
このような聖書の言葉から考えて分かるように人間の死の原因は人間が犯した罪によるものであることが分かります。そして信仰問答の問40はキリストの死の理由をこの人間の罪の問題によるものだと教えているのです。
「なぜなら、神の義と真実のゆえに、神の御子の死による以外には、わたしたちの罪を償うことができなかったからです。」
つまり、キリストの死の理由は私たちの罪を償うためだったと言うのです。そしてキリストの死は私たち人間を死の支配から救い出すためであったと言うことがここでは教えられているのです。ですから先ほどのローマの信徒への手紙に記されたパウロの言葉も次のように続いています。
「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです」。
この言葉の通り、聖書はキリストの死の結果、人間が犯した罪の罰である死から解放されたこと、そして死はもはや私たち人間を支配することがなくなったと言うことを教えているのです。聖書もこのキリストの死のもたらす人間の罪に対する「勝利」によって人間の死が敗北してしまったことを次のように教えています。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(コリント一15章54〜55節)。
2.墓に葬られたキリスト
そしてこのキリストの死に関係して信仰問答の問41は「キリストの葬り」について「この方が本当に死なれたということを証しするためです」と教えています。実はキリスト教会の初期のころから「キリストの死」については大きな議論が存在していました。なぜなら、キリストがもし神と等しい性格を持つ「神の子」であるなら、「死ぬ」と言うことはあり得ないと考えられたからです。なぜなら、神は私たち人間と違い「永遠の存在」であり、「不死の存在」であると言えるからです。ですから、ある人は「キリストが十字架にかかって死なれたのは悪魔を騙すためで本当は死んでいなかった」とまで主張したと言うのです。
少し横道にそれてしまうかも知れませんが、私が最初に牧師として働いたのは青森県の三沢と言うところでした。実はこの青森県には今でも「キリストの墓」と呼ばれる場所が存在してるのです。このキリストの墓については、「イエス・キリストは十字架の死を免れて日本にまでやって来て、そこで死んだ」と説明がされています。十字架で死んだのは本当のイエス・キリストではなく別人だったと言うのです。これはもう今流行りの「都市伝説」の一つと言えるかも知れません。そしてこれもまた「キリストが本当に神の子であれば人の罠に陥れられて、殺されてしまうというような弱い人物ではない」と言う人間の誤った考えが生み出した伝説と言えるのです。しかし、そのキリストが日本にたどり着いたうえで死んでしまったと言う解釈は、死んだ人間でも簡単に「神様」となれると考える日本人の独特の考え方かも知れません。
信仰問答はこのような「キリストの死」を否定する誤った考えに対して「キリストは本当に死なれた」と言うことを表す明らかな証拠としてキリストの遺体が墓に葬られたという出来事を取り上げているのです。
聖書は「神の子が死んでしまうのはおかしい」と考える人々の言葉に反して、キリストが十字架に掛けられてそこで死なれる様子をずっと見守っていたローマの百人隊長が次のように語ったことを紹介しています。「本当に、この人は神の子だった」(マタイ27章54節)。聖書はこの神の子の死こそが私たち人間をその死の支配から解放するために必要であったことを教えています。なぜなら、他の誰かが命をささげたとしても、その死には私たちが犯した罪を償うという力は全くないからです。ですから私たちの犯した罪に対する罰としての死は神の子であるキリストが私たちに代わって死んでくださることにより、全く解決されたと言えるのです。
3.私達の死の意味
さて、このようにして神の子であるキリストの死によって、罪の罰としての私たちの死は完全に解決されたと言うことなると、私たちの脳裏には必ず次のような重大な疑問が生まれるはずです。「キリストが私たちの死を解決してくださったにも関わらず、どうして私たちはやはり死ななければならないのか…」そのような問いです。信仰問答は問42でこの私たちの疑問と向き合いながら、次のような説明をしています。
「キリストがわたしたちのために死んでくださったのなら、どうしてわたしたちも死ななければならないのですか。」
キリストの死が真実であったとしても、私たちは相変わらず死ぬべき存在であることに変わりはありません。つまり、この質問には「キリストが死なれたとしても私たちの死は解決されていないのではないか…」、「キリストの死は私たちの死を解決するために何の役にも立っていないのではないか」と言う疑問が隠されていると言えます。
この疑問に答えて信仰問答は次のような説明しています。
「わたしたちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、むしろ罪との死別であり、永遠の命への入口なのです。」
この答は私たちが相変わらず死ぬべき存在であることについて否定はしていないのです。つまり、現在の人間にとって死は自然な出来事であるといことに信仰問答も同意しているのです。しかし、その死の霊的な意味、つまり私たち人間と神との関係から人間の死を考えるなら、私たちの死の意味はキリストの死を通して全く変わってしまったと言うことを信仰問答はここで教えています。なぜなら、キリストがその死によって私たちの罪を償うことで、私たちの死には罪を償うという意味は全くなくなってしまったからです。かつて私たちは自らの犯した罪の結果、死に支配されるものとなりました。そのような意味で人間の死は神からの祝福をすべて失った呪いの状態を表すものだと言えます。ところが信仰問答は私たちにとって「呪い」であったはずの「死」が私たちにとって「祝福」と変わったことをここで教えているのです。なぜなら、キリストの死によって私たちと祝福の源である神のとの関係が回復されたからです。
ギリシャの哲学者のアリストテレスは人間が幸福の条件と考えるものは必ずしもその人を幸福にするとは限らないと教えながら、こんな例を語ります。お金が幸福の条件と考える者がいる。しかし、その人がもしお金が元で強盗に入られて命を落としてしまうなら、そのお金がその人を不幸にしたと考えることができる。また、勇気が幸福の条件だと考える人がいる。しかし、その人がもし戦いのために戦場に出かけて、その戦いが自分たちに不利な戦況に陥ったにも関わらず、その人が持つ勇気のために最後まで戦おうとして命を落としたとしたら、その勇気こそがその人を不幸にする原因となったとも言える。つまり、人が幸福の条件と考える者が必ずしもその人を幸福にしている訳ではないと言うことができるのです。
この世の価値観から言えば、「病気」や「死」は私たちを不幸に陥れる最も私たちにとって好ましくない条件だと言えるかも知れません。しかし、私たちの神はこの「病気」や「死」でさえも、私たちにとって幸福の条件と変えることができるお方だと言うことができます。そして、実際に神は私たちの死の意味を呪いから祝福へと変えてくださったと信仰問答の言葉は私たちに教えているのです。
だから私たちの地上の死は「むしろ罪との死別であり、永遠の命への入口なのです」とここでは語られています。改革派教会が作った礼拝式文の中には葬儀の際にヨハネの黙示録の中に記されている次の聖書の言葉を読むようにと書かれています。
「また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」"霊"も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」(黙示録14章13節)
私はこの言葉を葬儀の際に会衆に語ることができる素晴らしさをいつも感じます。私たちは肉親や親しい人を失った人々に対してどのような慰めの言葉を語ればよいのか迷う時がたびたびあります。日本ではこんなときによく「ご愁傷さまです」と言う言葉を使うようです。調べてみるとこの言葉は「気の毒に思っています」と言う意味だそうです。亡くなった人かその家族のことを「気の毒に思っている」と言うことになるのでしょうか。聖書でも「泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12章15節)と言う勧めがあります。人間の死に対して無力な私たちはせいぜいその人に同情したり、一緒に泣くことしかできません。しかし、私たちの神は違います。なぜなら、私たちの神は私たちのためにキリストを遣わして彼を十字架で死なせることで、私たちを罪の罰である死の支配から解放してくださったからです。そして、その神は今や私たちの地上の死と言う現実を私たちにとって「呪い」ではなく、「祝福」と変えてくださったことを聖書の言葉は私たちに教えているのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.あなたもハイデルベルク信仰問答の本文を読んで見ましょう。この信仰問答によればキリストが死を苦しまれたのは何のためであったと教えていますか(問40)。
2.そのキリストの遺体が墓に葬られたことは、私たちに何を証ししていると教えていますか(問41)。
3.このキリストの死によって、私たちの死の性質はどのように変わったと信仰問答は教えていますか(問42)。